今日は勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日…なのですが、学校側の都合で開所しないことになりました。なので、今日は週末の運動会に向けてゆっくりと鋭気を養うことにしました。
ところで、今日10月24日はディッタースドルフの祥月命日です。
カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ男爵(1739〜1799)は、ハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家・ヴァイオリン演奏家です。
『…誰?』
と思われるかも知れませんが、生前はモーツァルトを凌ぐ名声を得ていた作曲家で、もとは『カール・ディッタース』と称していましたが、のちに貴族に列せられて『ディッタースドルフ男爵』と称しました。
カール・ディタースの父親は、神聖ローマ皇帝カール6世の下で宮廷劇場の衣装デザイナー(刺繍職人)としての地位を得ていました。息子カールの音楽への興味に対して身近な音楽家たちを教師に頼み、息子は期待通りの成長をしていきました。
その後ディッタースドルフは1761年、22歳の時に、
25歳年長のクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714〜1787)が1752年から楽長をしていたウィーンの宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーとなり、1763年、24歳の時にグルックと共にイタリアを旅行しました。1765年から1769年にかけて
ハイドンの実弟ミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)の跡を継ぎ、ハンガリーのグロースヴァルダイン(現ルーマニア、オラデア)の司教の楽長を務めました。
1772年、33歳の時に
オーストリア大公妃マリア・テレジア(1717〜1780)によって貴族に列せられたことにより、フォン・ディッタースドルフという家名が付け加えられました。1786年、47歳の時にオペラ《医師と薬剤師》を作曲するとケルトナー・トーア劇場で1788年に初演されて大成功をおさめ、当時モーツァルトの栄光をすっかり奪ったと伝えられています。
1795年、56歳の時にパトロンであった領主司教シャフゴチ伯爵の死後、かろうじて生活が可能な年金を受けるようになりますが、その後、関節炎と貧しさの中でイグナーツ・フォン・シュティルフリート男爵からボヘミアの領地ロート・ロータの住居を提供され、家族と共に生活することとなりました。そして1799年10月24日、ロート・ロータの近くにあるノイホーフ城で死去しました(享年60)。
ディッタースドルフというと《コントラバス協奏曲》を残していることからコントラバス奏者だったと誤解されることもありますが、実際はブルク劇場で定期演奏会が開催されていたほどのヴァイオリン演奏の巨匠で、当然ヴァイオリン協奏曲も多数作曲しています。ディッタースドルフの作品は好評に迎えられ、1760年代初期にはハイドンや
ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(1739〜1813)らと並んで、ウィーンでの楽壇の指導的な立場にあったといい、ハイドン、モーツァルト、ヴァンハルとは弦楽四重奏を組んだこともあるそうです。
そんなディッタースドルフの祥月命日にご紹介するのは《ヴィオラとヴィオローネのための二重奏曲変ホ長調》です。
この曲は私が学生時代にたまたま見つけた楽譜を買ってきて演奏してみたのことあるもので、ヴィオラとヴィオローネ(コントラバス)という何とも地味な楽器の組み合わせで書かれています。ただ、この曲に関しての来歴が昨今のネット社会においても全く分からず、楽譜にも何の説明も書かれていないため、詳細は不明です。
ディッタースドルフはこの組み合わせで《ヴィオラとコントラバスのための協奏交響曲 ニ長調》という曲も作曲していますし、この時代には珍しい《コントラバス協奏曲》も書いていることから、ディッタースドルフの周りにかなり腕のたつコントラバス奏者がいたことは確かなようです。実際に演奏してみると、コントラバスとヴィオラが丁々発止に歌い合えるこの作品は、小品ながらかなり弾きごたえがあります。
そんなわけで、ディッタースドルフの祥月命日である今日は《ヴィオラとヴィオローネ(コントラバス)のための二重奏曲 変ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。ヴァイオリンやチェロといった花形楽器が一切登場しない、何とも渋い響きの古典派音楽をお楽しみください。