今日は朝夕はそこそこ涼しくなったものの、日中は30℃前後まで気温が上がりました。お彼岸が近づいているとは言え、なかなか秋らしい秋はやってきません。
ところで、今日9月4日はグリークの祥月命日です。
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(1843〜1907) は、ノルウェーを代表する作曲家の一人です。日本ではドイツ語読みのエドヴァルド・グリーグと呼ばれることが多いですが、現地ノルウェーでの発音はどちらかというと「エドヴァル・グリッグ」のようになります。
グリーグはスウェーデン統治下だったノルウェーのベルゲン市街の家に、5人兄弟の第4子として1843年に生まれました。幼少期からヴァイオリンに親しんだグリークは、1858年にヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶこととなりました。
1863年からの3年間はデンマークのコペンハーゲンに居住して作曲家ニルス・ゲーゼに学び、ここで交響曲やピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ第1番等の初期の作品が作られました。1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任した後に《十字軍の王シーグル》のための劇音楽を作曲し、グリーグの重要な作品である《抒情小曲集》の第1集も出版しました。
1877年から1880年までベルゲン東方のハダンゲル(ハルダンゲル)地方に住んだグリークは、次第に民族音楽、民族楽器へ傾倒していきました。1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築すると、ベルゲン出身でデンマークにて活躍した劇作家ルズヴィ・ホルベアの生誕200年のためにピアノ組曲《ホルベアの時代から》を作り。翌1885年には弦楽合奏に編曲しました。
そんなグリークでしたが、1901年頃から次第に健康状態が悪化していきました。そんな中でも《抒情小曲集》第10集を出版しましたが、1905年にノルウェーがスウェーデンから独立したことを見届けた後、1907年の9月4日に心不全のためベルゲン市内の病院で亡くなりました(享年64) 。
さて、グリークといえば何をおいても《ピアノ協奏曲イ短調》が有名ですし、弦楽器奏者としては組曲《ホルベアの時代から》も重要なレパートリーですが、今日は劇付随音楽《ペール・ギュント》をご紹介しようと思います。
《ペール・ギュント》作品23 はグリーグの代表作の一つで、ヘンリック・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』の初演のために作曲した劇付随音楽です。そこから管弦楽のための組曲が2つ編まれていて、特に第一組曲は中学校音楽の鑑賞教材にもなっているので、聴けば分かっていただける方も多いかと思います。
1867年にイプセンが書いた『ペール・ギュント』は、落ちぶれた豪農の息子で母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントの生涯を描いた戯曲です。元は上演を目的としないつもりだったイプセンでしたが、後に舞台で上演することとなりました。
本来は舞台向きでないこの作品の上演に当たって、イプセンは音楽をつけることによって本の弱点を補うことを考えました。そこで1874年に、当時作曲家として名を上げつつあった同国人のグリーグに劇音楽の作曲を依頼したのです。
当初グリーグは、自分の作風が小品向きで劇的でスケールの大きな舞台作品には向かないと考えていたので、一旦は依頼を断わろうとしました。しかし、提示された報酬額と民族的な題材への作曲に興味を引かれたこともあって作曲を引き受け、翌1875年に作品を完成させました。
『ペール・ギュント』の舞台上演は更に翌年の1876年2月24日に、クリスチャニア(現オスロ)の王立劇場で初演が行われました。上演はイプセンの狙い通りに音楽のおかげもあって成功を収めましたが、近代的で風刺的なイプセンの戯曲に対してグリーグの音楽がロマンティック過ぎることへの批判もあったようです。
グリーグはその後、再演のたびに《ペール・ギュント》の改訂を行い、その劇付随音楽の中から1881年に第一組曲、翌1882年に第二組曲が編まれました。その中で、今回は第一組曲をご紹介しようと思います。
《ペール・ギュント》第一組曲は
1、朝の気分
2、オーセの死
3、アニトラの踊り
4、山の魔王の宮殿にて
の4曲からなっています。特に『朝の気分』はCMをはじめとした爽やかさを演出する様々な場面で使われることの多い音楽なので、お聴きいただければ
『あぁ!』
と膝を打っていただけるのではないかと思います。
そんなわけで、グリークの祥月命日である今日は《ペール・ギュント》第一組曲をお聴きいただきたいと思います。その中でも今日は第2曲『オーセの死』を、グリークへのレクイエムとして贈りたいと思います。