東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

やっと咲いたよ、雪割草

2015-03-21 | 季節の花
 まあ大体いまごろなんですけどね咲くのは、
 桜が咲くちょっと前くらい
 雪割草というにはちょっと遅いかなぁ・・・。



 

 雪割草と言われるのには2種類あって
 ミスミソウとスハマソウ。
 こちらはスハマソウ(洲浜草)らしいけど
 正直名札が無いと私には分からない。




 

 真っ白な花弁に薄いピンクの花弁、とても清楚な花です。




              

              この花弁の先端がほんのりとピンクに染まるのがいいね。




 

 これは鉢植え、ミスミソウ(三角草)かな?、
 地植えがダメだったらと撮っておいたもの。




 

 ちょっとアータ!、どこへ行くのよ何見てんのよー !!
 ハナの下伸ばしっちゃってさ・・・。



 そら隣の花はきれいに見えますわな、
 でもちょっとミエミエじゃないの?。
 それにしてもハナの下、かなり長いですな~。♪ 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春一番、、、今年はまぁ~だ?

2015-03-20 | 季節の花
 ここのところ急に暖かくなってびっくりなんだけど
 考えたら東京では春一番ってまだ観測されてないですね、
 ひょとして春一番が吹かないまま春が来ちゃうとか・・・。



 

 雪がとけて川になって 流れて行きます
 つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
 もうすぐ春ですねえ
 ちょっと気どってみませんか




              

              去年まではツクシが生える場所は決まっていたけど
              今年はどうしたんだろ、園内いたるところからニョキニョキ。
              しょっちゅう掘ったり埋めたりしてるからツクシの子がばらまかれたのかな?。




 

 出かける前にレンズ何を持って行こうかと迷った、
 ワケあって広角は必須だけどあと100mmマクロか200の望遠か、、、。
 結局マクロを選んだけどやっぱりなあ、遠くにカタクリが咲いていた、
 まあ一輪だけだったからマクロで報告写真。




 機材をチョイスするのは大変、ちゃんとした目的があれば簡単だけど
 出たとこ勝負で撮ってる私はいつも何を持って行こうかなあ?。
 カメラ2台とレンズ3本を並べて、「どれにしようかな?、神様の言うとおり・・・」。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

振袖火事が名づけた振袖柳

2015-03-19 | 季節の花
  江戸の街は木造建築がひしめき合っていたため火事が多かった。
 1657(明暦3)年の「明暦の大火(別名:振袖火事)」で
 火元とされた本郷の本妙寺というお寺があるが、
 その本妙寺に植えられていた柳を新たに命名する際に
 「振袖火事」の名から「振袖柳」とした、、、との説もある。



 

 明暦の大火は江戸で一番大きかった火事、
 火元は本郷丸山本妙寺で3人の女が法会 (ほうえ) のため振袖を焼いたのが出火原因となり
 焼失町数約 500~800、さらに江戸城天守も焼失した。




              

              赤目柳とも言う、
              花芽が赤い皮で覆われ枝の赤とも相まって花の咲く前から美しい。




              

              若い女の子が振袖を着て踊りまわっているみたい、
              どうせならこんな姿を命名の訳としてくれたらいいのに。
              振袖火事からの命名なんてちょっと引いちゃうね。


 ネコヤナギのいいところがあるんだけどちょと遠い、
 最近横着を決め込んでいるのでなかなか行けない。
 そろそろこの呪縛から解き放たれ遠くの方まで行きたいね、
 いや、せいぜい隣の隣の区くらいまでだけどね。              
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろな思いが交錯する浄閑寺

2015-03-18 | 散歩
 永井荷風が愛した浄閑寺
 山谷の労働者たちを見守った浄閑寺
 さらにはかたき討ちもあった浄閑寺
 いろいろな浄閑寺を見てきました。



 

 新吉原総霊塔に対座する永井荷風の筆塚。
 荷風は昭和12年、小説の取材と称してたびたび吉原に登楼している。
 朝早く楼を出て浅草や日本堤や竜泉や今戸あたりを歩いて、
 写真を撮ったり熱心に取材していた、荷風59歳のころ。




 

 永井荷風の文学碑
 昭和34年4月30日、荷風は戦後移り住んだ市川の自宅で息を引き取る。享年79歳。
 生前に浄閑寺に葬るよう頼むがさすがに家族に拒否され雑司が谷の永井家の墓所に。

 この碑は昭和38年に谷崎潤一郎や鴎外の長男於菟らによって建てられたもので、
 筆塚の背後を見ると設計は谷口吉郎と刻んである。




 

 ひまわり地蔵尊
 ここは山谷にも近い、三ノ輪の浄閑寺にひっそりと佇むひまわり地蔵尊。
 山谷には労働に生きて労働に老い、ひとり寂しく亡くなる労働者が多く
 彼らの死後の支えとなる事を願い建立されたひまわり地蔵尊。




 

 日本復興の原動力となった山谷の労働者もまた哀しい人々だった。




              

              三遊亭歌笑塚
              三代目三遊亭歌笑、人気の高かった落語家だった。
              人気絶頂のころ銀座の松屋前で米軍のジープに轢かれ32歳で亡くなる。
              この塚の碑文は武者小路実篤氏によるものである。




              

              本庄兄弟の首洗い井戸
              鳥取藩士本庄助太夫の息子・助市、助七がかたき討ちで返り討ちに、
              仇は平井権八、、、(芝居では白井権八ね)
              兄が切られたので首を洗っていたら弟もやられてしまった。




              

              本庄兄弟の首塚
              白井権八は吉原の遊女・小紫に入れ込み、金に困り、吉原通いの客を相手の
              辻斬り強盗を重ね、鈴が森の露と消えいく。
              芝居では本当なら既に存命していない筈の『幡隋院長兵衛』までが
              登場したりして、「お若けぇの~お待ちなせえ~」などの名せりふも。



 いろいろな浄閑寺を見てきました、胸が痛くなります。
 いろいろなことがあった江戸の外れの三ノ輪の地、私は好きです。
 仕事のためか趣味のためかよく分からないけど
 体の続く限り通い続けましょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遊女たちの行く末は・・・浄閑寺

2015-03-17 | 散歩
 吉原の外れともいえる三ノ輪(みのわ)にある浄閑寺、
 境内には有名な「生れては苦界、死しては浄閑寺」の句碑や
 「新吉原総霊塔」など吉原に関する哀しい物語がいっぱい。
 また永井荷風の文学碑などもあります、2回に分けて、、、。


 

 新吉原総霊塔の基部には川柳作家・花又花酔の有名なこの句が。
 町人文化華やかなりしころ日陰にひっそりと咲いた仇花
 遊女たちの世界を残す浄閑寺です。




 

 
 浄閑寺山門脇にある説明板
 遊女の他に吉原で働いていた人たちも含め2万とも
 2万5千ともいわれる人たちが祀られているという。




              

              新吉原総霊塔
              元々は安政大地震の際に亡くなった身元の分からない遊女たちが
              投げ込み同然に運ばれ埋葬された。
              そのあと病気とかで亡くなった遊女たちも同じ扱いを受け
              遊女の投げ込み寺として有名になった。




              

              真新しい卒塔婆にスポットを当ててみた、
              なんとはなく言わんとしていることが分かる気がする。




 

 新吉原総霊塔基部
 右に花又花酔の句があるが地蔵尊の上を見ると・・・。




 

 口紅、マニキュアから始まっていろいろなアクセサリー類が所狭しと供えられている。
 どれもみな新しい、お参りに来た人たちはどんな気持ちで供えたのだろうか。
 浄閑寺の過去帳によると彼女たちの平均年齢は21.7歳という。




              

              源氏物語の紫の上、幼い日の紫の上を想って「若紫」を名乗った遊女の墓。
              他の遊女と無理心中しようとやって来た男に刺されて死んでしまう、
              あと5日で年季が明け恋人と一緒になるはずだった。
              (明治末期のことかな?、元気なころの彼女の写真が残っている)




              

              新比翼塚
              明治18年に吉原・品川楼での遊女・盛紫と内務省役人・谷豊栄の心中事件を祀った比翼塚
              新とあるのは作り替えられたからという、二人の死を悼んだ人たちによって作られた。
              永井荷風はこの比翼塚に手を合わせる人たちを見て浄閑寺に興味を持ち
              以降足しげく浄閑寺に通うこととなる。




 

 浄閑寺
 入口には説明板と小夜衣供養地蔵尊が見える。
 これは吉原・四つ目屋の遊女・小夜衣の墓という説もある
 吉原では火事が多かったが四つ目屋から出火のさい女主人が
 小夜衣のせいと言い張り小夜衣は火あぶりの刑に。
 しかしその後も何回も出火し、とうとう四つ目屋は潰れてしまった。
 人々は小夜衣の祟りだと地蔵尊を作って供養した、、、との話も残る。




  

  職場近くを・・・。
  江戸時代の小説大好きの私には宝の山のようです。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする