クライネ・シャイデックから見上げるアイガー北壁です。
クライネ・シャイデックでは、ぜひ行きたい所がありました。それは新田次郎の記念碑です。新田次郎は山を愛した作家です。
代表作も多く『孤高の人』『槍ヶ岳開山』『剱岳・点の記』などなど、どの作品にも思い入れがあります。
とくに『孤高の人』は、高校生の時に雑誌「山と渓谷」に連載されていたのをワクワクしながら読んだものです。
この日は午前中はユングフラウヨッホ観光でした。午後は自由行動だったので、憧れのグリンデルワルトに登山電車で向かいました。車中からのアイガー北壁です。
見えている山稜はミッテルレギ山稜です。ここは、1921年に日本人の槇有恒がグリンデルワルトのガイドとともに初登頂(ミッテルレギ山稜から)したことで知られます。
最近では「世界の果てまでイッテQ」でイモトが登ったルートです。
グリンデルワルトの写真はこれだけです。ホテルのテラスでアイガーを眺めながらビールを飲んだと思います。
グリンデルワルトからクライネ・シャイデックに戻る車中から。やはりアイガー北壁が気になります。
アイガー北壁は「死の壁」とも呼ばれ、これまで多くの登山者の命をのみ込んできました。
この壁が初めて登攀されたのは1938年のことです。日本人として初めて登攀したのは高田光政で1965年のことでした。その著書『北壁の青春』(1968)はいまも本棚にあります。
クライネ・シャイデックに戻ってきました。アイガー北壁の天候は不安定で有名ですが、まさにその通りです。
高さ1800メートルの岩壁です。あそこが「死のビバーク」で、あそこが「白い蜘蛛」かと、自分が登るがの如くルートを確認しながら見上げました。
時間があれば、こんなハイキング道も歩いてみたかったです。
クライネ・シャイデックも良い所でした。
モンベルの創業者で現会長の辰野勇もアイガー北壁の登攀者の一人です。1969年に当時としては最年少の21歳という若さでの登攀でした。
その経験が今のモンベルの製品に生かされているのでしょうか。
今回のスイス旅行の一番の楽しみだったアイガー北壁を楽しむことができました。いつまでも目に焼き付けておきたい景色です。
※訪問日 2000.8.21
クライネ・シャイデックでは、ぜひ行きたい所がありました。それは新田次郎の記念碑です。新田次郎は山を愛した作家です。
代表作も多く『孤高の人』『槍ヶ岳開山』『剱岳・点の記』などなど、どの作品にも思い入れがあります。
とくに『孤高の人』は、高校生の時に雑誌「山と渓谷」に連載されていたのをワクワクしながら読んだものです。
この日は午前中はユングフラウヨッホ観光でした。午後は自由行動だったので、憧れのグリンデルワルトに登山電車で向かいました。車中からのアイガー北壁です。
見えている山稜はミッテルレギ山稜です。ここは、1921年に日本人の槇有恒がグリンデルワルトのガイドとともに初登頂(ミッテルレギ山稜から)したことで知られます。
最近では「世界の果てまでイッテQ」でイモトが登ったルートです。
グリンデルワルトの写真はこれだけです。ホテルのテラスでアイガーを眺めながらビールを飲んだと思います。
グリンデルワルトからクライネ・シャイデックに戻る車中から。やはりアイガー北壁が気になります。
アイガー北壁は「死の壁」とも呼ばれ、これまで多くの登山者の命をのみ込んできました。
この壁が初めて登攀されたのは1938年のことです。日本人として初めて登攀したのは高田光政で1965年のことでした。その著書『北壁の青春』(1968)はいまも本棚にあります。
クライネ・シャイデックに戻ってきました。アイガー北壁の天候は不安定で有名ですが、まさにその通りです。
高さ1800メートルの岩壁です。あそこが「死のビバーク」で、あそこが「白い蜘蛛」かと、自分が登るがの如くルートを確認しながら見上げました。
時間があれば、こんなハイキング道も歩いてみたかったです。
クライネ・シャイデックも良い所でした。
モンベルの創業者で現会長の辰野勇もアイガー北壁の登攀者の一人です。1969年に当時としては最年少の21歳という若さでの登攀でした。
その経験が今のモンベルの製品に生かされているのでしょうか。
今回のスイス旅行の一番の楽しみだったアイガー北壁を楽しむことができました。いつまでも目に焼き付けておきたい景色です。
※訪問日 2000.8.21