終戦の翌年、国民学校の1年生。子供10人を遺して母が逝った。父を中心にみんなで協力した。
まだ「花より食糧増産」が優先。母の日に授業の図工で、カーネーションを作った。みんなは赤だ。私だけが白い花だった。だが普段「母がいない自分」を不憫には感じていなかった。
だが、就職後初の正月に大阪から広島へ里帰りした。父は大変喜んでくれたが「ヨー帰ったの!」の一言だけだった。
母が居てくれたら、根掘り葉掘り問うてくれたのではと。はじめて「母の存在」の素晴らしさを実感した。戦争未亡人の母代わりの姉に甘えた。
宮崎市 貞原信義(81) 2020/5/29 毎日新聞鹿児島版掲載
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