(2017/07/23の記事の再録、加筆)
これまで下駄・雪駄の効用として相互浸透する対象の違い、自然物と人工物の違いということを主として考えてきていた、かつブログにもそのような問題を持つものとして説いてきた。(それゆえ、靴であってもゴムやポリウレタンの底では無しに、昔ながらの革の底のものならばまだ良いのでは、と考えてもいた)
しかしながら、今回の自身の父親の寝た状態と立った(歩いた)状態とでは、アタマの働きかたが180度といっていいほどに違ったことに、人間の昼間の生理と夜間の生理との違いということを併せて考えてみると、立つこと、立って歩くことが、その足裏からの反映が(おそらくは姿勢の問題等も絡んでくるのだと思える……)脳細胞の働きを活性化する、させるということに思い至った。
【ここで自身の父親の状態の変化とは、手の骨折で入院して、数日の寝たきり状態で、あっという間にボケてしまっていたのを、これは病院生活での上げ膳据え膳状態かつ寝たきりが原因ととらえて、主治医の反対を押し切って、このままでは本格的にボケて行ってしまうと、着替えさせ、今日で退院すると告げ、立って歩かせたら別人の如くにシャンとして、入院前の状態に戻った、という事実。......加筆】
そのような視点から、自身の日常の実践を捉え返してみるならば、まず何よりも炎天下の砂利道での足裏鍛練の意義が、そして下駄・雪駄を履いて歩くことの意義が、ようやくに明確となったように思える。
結論的には、足裏からの強烈な反映が、脳細胞の強烈な活性化・正常化を促してくれるがゆえの認識活動の活性化・正常化があるのであり、それだけでは無しに脳細胞のもう一つの働きの生理的統括のありかたも正常化・活性化してくれるのである、と思える。
この炎天下の砂利道での足裏鍛練による生理面の活性化・正常化については、南郷先生が、「この真夏の炎天下の砂利道での足裏鍛練を数年間続けていくならば、病気しらずの健康体へとなっていく……」と(自身の記憶では)説いてくださっていたと思うが、同様のことが下駄・雪駄を履いて歩くということにもあるのだと、それゆえに、靴で歩き続けるとくたびれてしまうものが、下駄・雪駄でならば疲れ知らずにいくらでも歩けるということがあるのだ、と思える。
これは、サルが人間へとなっていくにあたっての二足歩行の意味、あるいは赤ちゃんがハイハイから立ち上がって歩き出すことによって、急速な知能の発育を見、体も丈夫になっていくことの意味を考えてみると、また、その繰り返しの大事性という視点で考えてみると、これまで考えていたような、できることならば靴よりも下駄・雪駄が良いというレベルの問題では無しに、なんとかして、なんとしてでも日常的に下駄・雪駄で歩くということが……と思える。
しかしながら、現代日本にあってはTPOに応じて下駄・雪駄というのは難しいという面があるのだから、少なくとも靴を履いている、履いて歩いているということは、それだけアタマの働き、脳細胞の二重の働きを鈍らせているのだということを、しっかりと自覚しての……でなければと思う。