竹山晋一郎は何故に弁証法の適用で科学的鍼灸論としての経絡治療の理論を確立出来なかったのか?
端的には、唯物弁証法の適用ということを一般論レベルで対象たる鍼灸に唯物弁証法の論理を知識的に当てはめて終わり、それが唯物弁証法の適用であると錯覚してしまっていたから、であると思う。
しかしながら、それでは二流の観念論哲学者や宗教家が、自身の観念や神あるいは聖書の言葉から、世界の森羅万象を一方的に解釈して満足しているのと論理的には全く同じことでは無いのか?
それゆえに、竹山晋一郎の、唯物弁証法の適用によって構築したとする鍼灸論は、論理的に無知であった当時の鍼灸の世界を驚かせ一世を風靡することはあっても、それを受け継ぎ実践していく者も発展させていく者も無く、結果として唯物弁証法の適用によって科学的鍼灸論を構築しようという試みがあったことすら忘れさられ、である。