MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

一杯60粒でコーヒーを淹れる〜ことにカントの哲学のココロを視る〜

2020-04-05 12:30:00 | 日記(2)
 一杯60粒でコーヒーを淹れてみた。自身の学ぶということの取り組みの甘さ、今更ながら痛感される。

 かの大哲学者エマニュエル・カントはあらゆる物事に非常に几帳面で、毎日キッチリ同じ時間に同じコースを散歩するのでカントの散歩に合わせて時計を合わる人がいたとか、コーヒーを飲むのに一杯何粒と決めて毎日コーヒー豆を数えてコーヒーを淹れていた(コーヒーの逸話はベートーベンも同じで、カントについては具体的に分からなかったので一杯60粒というのはベートーベンの逸話によった)、とは知っていた。
 だが、自身では、カントの著作、例えば『啓蒙とは何か』を読むことはあっても、コーヒー豆を何粒と数えてコーヒーを淹れて飲んでみるということは無かった。そんな面倒なこととしてしまっていた。

 しかしながら、哲学というものが世界丸ごとから、森羅万象からその論理性を自らの頭脳活動で掴みとってくることが、その原点であるということに思いをいたすならば、哲学を学ぶ=それを自身の実力として自身の専門分野の確立に役立てるためには、結果としての著作だけでは無しに、その哲学を生み出した哲学者のアタマの働きココロの働きというものの実態を識るということこそが肝心なことでは無いのかと、また、アタマの働きの大元はココロの働きであるのだから、ココロの働きを学ぶことが大事なのではと思える。

 そのように考えると、例えばカントに学ぶといった場合に、カントが日常生活で強い拘りをもっておこなっていた習慣というものを、少なくとも自身の習慣となるまで実際に自身でも行ってみて、「コーヒーはやっぱり毎日、決まった60粒を数えて淹れて飲むのが美味しいなあ。適当に計量スプーンで何杯で淹れるなんて信じられない。」と感情レベルでカントの習慣を分かってみる、識ることが最低限の学びなのでは無いのか、必須の作業なのでは無いのかとの思いへとなっていった。

 そのような思いで、コーヒー豆を数えてコーヒーを淹れてみると、時間にして一杯分60粒数えるのに1分以下、いつもの量のコーヒーを淹れるのに必要なコーヒー豆を数えるのにでも数分間であったから、この程度のことを面倒でると怠けていては......と猛省された。



一杯分60粒のコーヒー豆。

自身のいつものコーヒーより少し濃い目のコーヒー。カントやベートーベン と同じ手順で淹れたコーヒーと思って飲むと、文化の香りがしてその味は格別。


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