『看護の生理学(1〜3)』(薄井坦子 瀬江千史著 現代社白鳳選書)を読み返している。そこには「(論理を)如何に学ぶべきか」の具体をも示していただいている、と思える。
第3回合同模試が終わって、解剖と生理の実力不足を実感し、卒業試験まで三週間余の時があるのでもう一度しっかりと解剖と生理の学びを行っておこうとの思いとなって『看護の生理学』を読み返しはじめた。(予定では、『看護の生理学(1〜3)』+『ナースが視る人体』(薄井坦子著 講談社)の学びののちに解剖と生理の教科書を見返して、それから『国試過去問題集』の学びをおこなって卒業試験に臨むつもりであるのだが……)
そのなかで思ったことは、『看護の生理学』の中での「編集部」氏の役割の大事性である。そこでは、薄井先生、瀬江先生の説かれることを「編集部」氏が、自身の(身近な)事実で、「今、説いていただいたことは、こういうことでしょうか?」「もう少し易しく説いていただけないでしょうか?」「話のスケールが大き過ぎてわから無いのですが?」「お手柔らかにお願いします」等々とくり返しくり返し質問する形式になっている。
例えば、消化・吸収の過程の神経・ホルモンによる統括のあり方を、スキーのジャンプやビラの配布、鉄道の運行管理等に例えて、の質問をおこなっている。時には、「そんなことでは無い!」と一蹴されてしまうのであるが、それにもメゲずに、分かるまで執拗に食い下がっての質問を繰り返していく。
この「編集部」氏のありかた、原形としては実際の薄井先生、瀬江先生と「編集部」氏との対話があったのには違いないとは思うが、それが書物になっていく時には、おそらくは、読者のより良い理解を助けるためにの役割をもたせての、もっと言えば「弁証術」としての対話の形式へと成されているのでは無いのだろうか?と思える。(ここはもう少し、しっかりと説きたいと思うのだが……)
それゆえに、我々は、『看護の生理学』を読むにあたっては、そこに説かれてある中身だけでは無しに、説かれる形式に説かれることの学び方をも学ばねばなら無い、学び方をも説いていただいているのだ、と思える。
第3回合同模試が終わって、解剖と生理の実力不足を実感し、卒業試験まで三週間余の時があるのでもう一度しっかりと解剖と生理の学びを行っておこうとの思いとなって『看護の生理学』を読み返しはじめた。(予定では、『看護の生理学(1〜3)』+『ナースが視る人体』(薄井坦子著 講談社)の学びののちに解剖と生理の教科書を見返して、それから『国試過去問題集』の学びをおこなって卒業試験に臨むつもりであるのだが……)
そのなかで思ったことは、『看護の生理学』の中での「編集部」氏の役割の大事性である。そこでは、薄井先生、瀬江先生の説かれることを「編集部」氏が、自身の(身近な)事実で、「今、説いていただいたことは、こういうことでしょうか?」「もう少し易しく説いていただけないでしょうか?」「話のスケールが大き過ぎてわから無いのですが?」「お手柔らかにお願いします」等々とくり返しくり返し質問する形式になっている。
例えば、消化・吸収の過程の神経・ホルモンによる統括のあり方を、スキーのジャンプやビラの配布、鉄道の運行管理等に例えて、の質問をおこなっている。時には、「そんなことでは無い!」と一蹴されてしまうのであるが、それにもメゲずに、分かるまで執拗に食い下がっての質問を繰り返していく。
この「編集部」氏のありかた、原形としては実際の薄井先生、瀬江先生と「編集部」氏との対話があったのには違いないとは思うが、それが書物になっていく時には、おそらくは、読者のより良い理解を助けるためにの役割をもたせての、もっと言えば「弁証術」としての対話の形式へと成されているのでは無いのだろうか?と思える。(ここはもう少し、しっかりと説きたいと思うのだが……)
それゆえに、我々は、『看護の生理学』を読むにあたっては、そこに説かれてある中身だけでは無しに、説かれる形式に説かれることの学び方をも学ばねばなら無い、学び方をも説いていただいているのだ、と思える。