鍼灸分野のブログで、トマス・アクィナスの問答法だとか、たった一人の二人問答(アリストテレス)だとかと言うと、「それが鍼灸にいったい何の関係があるのか?」「東洋医学や東洋思想ならばまだ分からなくも無いが、トマス・アクィナス?問答法??それが鍼灸に役立つ、関係があるとはどうしても思えない。」との反対、拒絶の声が当然にある、と思う。
しかしながら、である。物事を事実レベルで云々しているばかりでは、そのものの正否は分からない。そのものの持つ意味を問うこと、あるいはどのように考えてそのような答を出したのか、とその結論だけではなしにその結論が出て来た所以を、どのように考えてそのような結論を出したのかという過程を知っていくことはとても大事なこと、思っていただければ。
(これは例えば、五行論で腎には豆が良いと説いてあって、豆の何が腎に良いのであろうか?これは先人の無限の実践から導かれた知恵なのか?と思うばかりでは無くて、どのように考えてそのような結論に至ったのか?という(一段上がった)視点から観れば、豆と腎臓の形が似ているから......と。)
そのような意味で、トマス・アクィナス問答法=問題の究明に際して、ある意見に反論を対置して、その意見の正否を問うていく、ということが大いに役に立つのだと、ともかくも思っていただければ、と思う。
このように述べると、「何を言っているのか意味が分からない。こっちは鍼灸に何か役に立つのかもと思って読んでいるのだ。東洋医学を説くならまだ分からなくもない。トマス・アクィナス?問答法?意味不明!」との再反論が当然にある、と思う。
それに対しては、部分(鍼灸や東洋医学)の正否を知るには全体を見渡すことがとても大事なのだ。人類の精神の歴史を学ぼうとも、知ろうとすらしないで、鍼灸や東洋医学の正否は分かりようが無いのだ。
これは例えば、首の痛みや耳鳴りを訴える患者診るのに、その症状ばかりを見て施術しても、なかなか本当には治っていかない。それだけでは不足で、身体全体を見渡すことが必要であり、出来ることならば(その実力があるならば)どのようにして耳鳴りや首の痛みが出来上がって来たのかの過程的構造を観ていくことが求められる。のと同じことと、とりあえずは......と思う。
東洋医学を現代の視点からというのは必要なこととは思います。「人間の解剖は猿の解剖のための鍵である」(マルクス)と私も思っております。それは、『鍼灸如何に学ぶべきか』のテーマでもありました。
ただ、それと古代中国の人類のレベルを現代の人類のレベルと同じものとして古典を理解するのは、少し違うような気がします。
これは古代中国の人類のレベルが一概に現代の人類のレベルよりも劣っている、という意味でもありません。地球=環境自体も現在とは随分と違っていただろうし、人間自体も現在の我々のように軟弱でも無かったし、五感も鈍感で無かった筈。(例えば、現代日本人と江戸時代の日本人ですら大きく違うように)
良くも悪くも、古代中国の人類を現代人と同じに思ってしまうと、せっかくの古典の研究がおかしなものになっていくのでは、と。
トマス・アクィナスについては、自身ではまだよく分からないというのが正直なところです。しかしながら、アリストテレスとヘーゲルを橋渡しする存在として、なんとしても理解したいと思っております。
自身でアンチテーゼを立てて究明していくところはアリストテレスの「思弁」を、『神学大全』の全体の構成、神→人間→神というのは、ヘーゲルの「絶対精神の自己運動」がイメージされ、すごい人なのだろうなとの思いはしています。
それだけに、トマス・アクィナスに対しての造詣も深い小竜先生との対話を通して少しでも理解を深めていきたいとの思いでおります。
鍼灸学校の東洋医学概論の教科書も数年前に中医学の教科書丸写し縮小版(内容の)になるまでは、経絡治療の鍼灸論の影響が強いと聞いていたのですが、竹山先生の著作を読んで、だから読みやすかったのかと独り言ちたものでした。
現在の東洋医学概論の教科書については、中医学の教科書丸写し、実質は抜書レベルのものになってしまっているので、もとの中医学の教科書を読んだ時に、中途半端に丸写しするから返って分かり辛くなっている。いったいどう言うつもりで、と寂しく悲しい思いに......。
コメントに対するお返事、ブログ記事で代わりにさせていただこうと思います。あしからずご了承ください🙏
⭕️脾経、胃経とは別にして
私は出勤のバス🚌の中から投稿していますが、
「腎」については体内の見えない臓腑から考えるのではなく体表の経脈から考えてみたのです。
経脈の走行が足裏から下肢の内側を通って腹側に出て臍の直ぐ横を通って胸までいってますでしょう?
ですから現代の解剖・生理的な理解でいくと胃・小腸・大腸の消化器官と肺という呼吸器官を跨いでるんですね。
それが「腎」の「生命力・成長・発育」という働きや「腎精」という所謂「精をつける」という、まあ腎は先天の精なんていうわけですが、食べたものが吸気と一体化してエネルギー(ATP)が生じることを経験的に掴んでいた経脈の走行ではないかと考えてますね。
脾、胃とは別にして。
伏龍先生の書いている「豆が腎臓に良い、似ているから」という考えには思い当たるところがあり、それは中国の薬膳における「同物同治」で、ならば「腎臓を良くするには腎臓を食べる」という発想になるはずですが、「臓物(いわゆるモツ、ホルモン)」の食文化では畜産物の腎臓を「まめ」と呼んでいるそうで、だったら植物としてこ豆類ではなく「小さい」という意味での「まめ」という発音だけではないか!とも思われます。
アクィナスの『神学大全』の第一問には「哲学諸学以外のものを学ぶべきか、否か?」という興味深いことが書いてあり、「学ぶべきである、それが神の啓示」というような、ヘーゲルの『精神現象学』が啓示宗教から絶対知で締めくくられることや、『法の哲学』における「哲学はいつも遅すぎるのである」という記載に繋がって読み取れたのですが、伏龍先生が『神学大全』を読むことがあったなら感想をいただきたいものです。
やはり古代中国医学の根幹となっている古代中国哲学(西洋哲学系の人の中には、それは哲学ではなく思想だと線引きする人もおりますが)は「天人合一」という壮大な考えを持っているのが重要だと思います。
「天」つまりは「陰陽五行」で「太陽、月、木星、火星、土星、金星、水星」という天体の運行を「暦、こよみ」という「1日、1ヶ月、一年」の地球との周期的な関わりで捉えていて、「春夏秋冬」の季節観を「人体における健康観」に重ねているところが見事!といいますか、
ヒポクラテスやガレノスらの古代西洋医学に匹敵、否、むしろ凌駕しているのではないかと思われる所です。
まあ、そのあたりは伏龍先生も「鍼灸如何に学ぶべきか」のブログ記事で触れていたことだと思いますが…
現代的な解剖学・生理学的にではなく「氣、血、津液」という概念的な区別として理解していたものだと思います。
ですから、生きていくために重要な「熱産生と熱放散」とを「補と瀉」として「暑邪と寒邪」の体温の問題として捉えていた、西洋医学(現代医学)的な「ホメオスタシス」や「体液の恒常性」に匹敵することを実験科学的にではなく経験哲学的に掴んでいたのだと思います。
私は伏龍先生と少々意見が違って現代の知見から古代中国の伝統的な遺産がどういうものだったのかを考えてみることも有意義なことだと考えます。
例えば「気」というのは明らかに「大気」「空気」の「気」だと思います。それが呼吸によって体内に入ってから酸素は好気的解糖としてグルコースをピルビン酸に分解してエネルギーを産生します。それが「氣」、つまり「水穀の精微」であり、生きていくための生命力・エネルギーだと思います。
そして東洋医学の治療体系の中に按摩や鍼灸と共に導引、つまりは呼吸法と体操とが組み合わされたものが入っていることの理由だと思います。
古代中国では生化学的な理解は当然に為し得なかったと思いますが、ご飯を食べて呼吸をして生きているという観察から本質的にはクエン酸回路によるATPの産生という代謝の現実を「氣」という概念で明確に掴んでいたと考えています。
それで、随分と前に山本宜久さんのアクィナスに関する講演を聴いたのがキッカケとなってヤフオクに『神学大全』が安く売りに出ていたときに買ったんですが、ほぼ積ん読状態でした(苦笑)。
伏龍先生との対話がキッカケとなって昨夜、またページをたぐってみたのですが、その神の能力に関する問題集は人間の究極的な知性・知能=学的能力を「神」という観念論的に逆立ちさせて論じているようで惹かれるものがありました。
アリストテレスからアクィナスを介してヘーゲルは「絶対精神」「絶対知」なるところに行ったのか、などと素人ながら考えました。
『神学大全』は問答法というよりは、神に関するいくつもの命題に対して、それぞれ否定的な見解と肯定的な見解とを並べて論敵を退けるノウハウ本のような感じもしました。
自身ではトマス・アクィナス大事だとは思いながらも(自身の実践から、その学びこそが弁証法の学びの成否を決めて来るのでは?と思いがあるので)手をつけかねています。
それゆえに、今回のブログ再開と共にトマス・アクィナス問答法の学びを!との思いになっております。
腎と豆との問題は、古代中国の人類のアタマの働きを現代の我々のレベルから見るべきでは無いのではということで、いずれまた説きたいと思います。
コメントいただきありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
その神の世界に関する問答が、後のデカルトの「世間という大いなる書物へ!」に繋がるのだと思いますけど、
例えば伏龍先生の書いている「腎と豆の関係」なんかだと東洋医学=古代中国医学では腎というのは生命力・成長・発育に関わる臓腑だと考えられていましたから、農耕民族における主要なタンパク源として米と区別されて認識されていたのだと想像しました。
ですから、この場合の「腎」とは現代医学における泌尿器としての腎臓とは区別されるべきで、腎臓が悪くなってからのタンパク質の摂取が制限されるようなイメージで考えるべきではなく、豆類の高タンパク質が横紋筋や平滑筋を育む水穀の精微となって生命力を高めることは現代のフレイルやサルコペニアが筋肉の廃用性症候と関連づけて考えるべきことかと想像しました。
伏龍先生が挙げた本間詳白さんや竹山晋一郎さんは高学歴の方でしたが、肝心なのはその臓腑経絡を中心とした治療思想の中身よりも日本の養成校を中心とした資格制度の中心にいたのが「素問」や「難経」といった古典を重視した人たちのグループだったということだと考えます。