患者の生活過程について知る度に、また自身の生活過程を振り返ると、認識の不味さによってそれが乱されているということを、それゆえに本能(に代わるもの)の必要性を痛感する。
患者にせよ自身にせよ、動物ではなくて人間であるから、本能というものをほとんど失ってしまっているので、別言すれば、本能ではなくて認識に導かれての行動がほとんどである生活=24時間の繰り返しであるから、本来必要とされることをしっかりと為す、のではないことが多々ある。その結果として、正常から異常、異常から病へとなっていくことが往々にしてある、と思える。
患者に対しての問診を繰り返していると、病の原因というものは、そういうことなのだと思えることが再々であるし、そのような思いを持って患者や自身の24時間の繰り返し=生活を視ると尚更に、である。
それだけに、本能というものの必要性、本能に代わるものの必要性を痛感する。
人類の歴史に尋ねるならば、本能を失った人類は、神を誕生させ、宗教を誕生させ、となっていくしかなかった、ということの意味、そうでなければ、人類は生きられなかった......。
個としての人間もまた、と思える。
今日は30度を超える暑さ。久しぶりの1時間の足裏鍛錬。
患者にせよ自身にせよ、動物ではなくて人間であるから、本能というものをほとんど失ってしまっているので、別言すれば、本能ではなくて認識に導かれての行動がほとんどである生活=24時間の繰り返しであるから、本来必要とされることをしっかりと為す、のではないことが多々ある。その結果として、正常から異常、異常から病へとなっていくことが往々にしてある、と思える。
患者に対しての問診を繰り返していると、病の原因というものは、そういうことなのだと思えることが再々であるし、そのような思いを持って患者や自身の24時間の繰り返し=生活を視ると尚更に、である。
それだけに、本能というものの必要性、本能に代わるものの必要性を痛感する。
人類の歴史に尋ねるならば、本能を失った人類は、神を誕生させ、宗教を誕生させ、となっていくしかなかった、ということの意味、そうでなければ、人類は生きられなかった......。
個としての人間もまた、と思える。

本能の問題、本能に代わるもの、という問題、未だに自身の課題でもある。しっかり深めていきたい。