「武道哲学講義(第1巻)」(現代社)を読むと「陰陽五行説」の問題は、世界初のレベルで、すべて解(説)かれてあると思える。
例えば、陰陽説の根源的な問題、何故に世界を陰陽と捉えることが出来るのか?が、「すべての言葉には二重性が存在する、つまり、二重の意義が含まれている」として、「第ニ章 (10)すべての出来事を二重性として捉えられることの根本理由」で解(説)かれる。
また、「陰陽五行説」の学びの過程についても「二重構造で説ききり、弁証法で説ききり、次に二重性と弁証法性とをあわせて説ききった」と説かれてあるのを二重性=陰陽論、弁証法=五行論と読むと、そのままに陰陽説、五行説、陰陽五行説の学びのあらまほしき過程であると思える。
要するに、「陰陽五行説」とは古代中国の弁証法そのものであるから、「武道哲学講義(第1巻)」で説(解)かれる事がそのままに当てはまる。役に立つのだと思える。
ただ、弁証法が南郷先生によって弁証学にまで高められ、深められている現代において、また、(西洋)医学の世界で弁証法が常識となりつつある状況からして(例えば、「医学の復権」(瀬江千史 現代社)を見よ)、幼い弁証法である「陰陽五行説」の学びがどれほどの意義を持ちうるのかは「?」だと思える。
あえていえば、鍼灸師の一般教養として、弁証法への導入的意義としての存在価値しか無いのではと思える。
例えば、陰陽説の根源的な問題、何故に世界を陰陽と捉えることが出来るのか?が、「すべての言葉には二重性が存在する、つまり、二重の意義が含まれている」として、「第ニ章 (10)すべての出来事を二重性として捉えられることの根本理由」で解(説)かれる。
また、「陰陽五行説」の学びの過程についても「二重構造で説ききり、弁証法で説ききり、次に二重性と弁証法性とをあわせて説ききった」と説かれてあるのを二重性=陰陽論、弁証法=五行論と読むと、そのままに陰陽説、五行説、陰陽五行説の学びのあらまほしき過程であると思える。
要するに、「陰陽五行説」とは古代中国の弁証法そのものであるから、「武道哲学講義(第1巻)」で説(解)かれる事がそのままに当てはまる。役に立つのだと思える。
ただ、弁証法が南郷先生によって弁証学にまで高められ、深められている現代において、また、(西洋)医学の世界で弁証法が常識となりつつある状況からして(例えば、「医学の復権」(瀬江千史 現代社)を見よ)、幼い弁証法である「陰陽五行説」の学びがどれほどの意義を持ちうるのかは「?」だと思える。
あえていえば、鍼灸師の一般教養として、弁証法への導入的意義としての存在価値しか無いのではと思える。
しかしながら、単なる当て嵌め、連想レベルなのでは無いのか?
それ以上に、具体性を欠いての一般性レベルでの展開であるから、南郷先生の読者以外には何のことやらであるし、そこから具体へ下りていかないと自身の学びにもならないのではないか?
直感的に自身で正しいと思うことを、こうだと決めつけて説いているだけ、であるから、覚え書としてはいいかもしれないが、誰かが読んで反応するというレベルには無い。
具体性を持った展開を望む!