【ガラスの動物園】
脚本 テネシー・ウイリアムズ
演出 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
2022/9/30 新国立劇場
食わず嫌いで今まで外国語で上演される舞台を観たことがなかった。
英語がわからないし、字幕があるとは言ってもね、となんとなくスルーしてたけど、もっと早く行って観ておくんだった。
しかも今回はフランス語。
確かに言葉はわからないけど、
字幕ではニュアンスは伝わらないのかもしれないけど、でもちゃんと感じた
登場人物それぞれの思いがしっかりと伝わってくるのだ。
これは私にとって初めての新しい感覚。
先に観た知人が、「心が震えた」と言っていたが、なるほど確かに、と思った。
ストーリーはちょっと暗い。
不況時代のアメリカ、セントルイスの貧しい一家の家の中。
父親は蒸発、残された母アマンダ、息子トム、トムの姉のローラは身を寄せ合ってひっそりと暮らしている。
トムは工場で働きながら家計を支えているが、いつか詩人になることを夢見て暇を見つけては映画に通い詰めている。
アマンダは過去の華やかな頃を忘れられず、はかない夢を見続け、
足が不自由で引きこもりのローラは、学校を勝手にやめて、来る日も来る日もガラス細工の動物たちを磨いている。
アマンダはローラの結婚相手を探すべく、トムの友人ジムを家に招くが、そのことがさらにローラを追い詰める。
ついにトムは一人で家を出て・・・
今までに、瑛太さんと岡田将生さんがそれぞれトムを演じた「ガラスの動物園」を観た。
その時とずいぶん印象が違う気がした。
トムの立ち位置はあまり変わらない。
母アマンダとローラが違う気がする。
以前に観たときのアマンダは、自分の価値感を子供たちに押し付け、子供たちの未来をつぶしても自分の生活を守ろうとしているような。
ローラの結婚相手を探すと言いながら、トムの友人が家に来ると、自分が思い切りおめかしして、女を全面に押し出したり、自分の昔話ばかりしたり。
でもこのアマンダはそういうところもあるけれど、もう少し子供たち、とくにローラの幸せを願っているし、ローラも母の愛を受け止めていて、二人が強くつながっている気がした。
結果的には結ばれないけれど、ジムも誠実で、ローラを傷つけたことに、深く心を痛めていた。
ローラは足が悪いという設定だけれど、ジムとダンスをする場面では軽やかに踊たり、時折そこそこのスピードで走り抜けたり、と動き回り「あれ?足悪いんじゃなかったの?」って思うくらい。
でも不思議と違和感がない。
照明が当たらない隅っこで膝を抱えているときは、どこにいるのかわからないくらい存在感を消し、ふっと出てきたときに驚かされる。
これまでのガラスの動物園では食卓がある部屋がとても寒々としていた。
今回は食卓もイスもなくて、キッチンのカウンターの上や床に自由に座って食事をしている。
これがなんだか楽しそうで、温かさすら感じる。
セットや照明が暖色のせいもあるかもしれない。
今まで見たときは最後は家族を捨てて出ていくトムを見て、残された二人の絶望感みたいなものを感じたけれど、今回は二人のたくましさとちょっと希望も感じた気がした。
終演後、演出のイヴォ・ヴァン・ホーヴェ氏と美術・照明のヤン・ヴェーゼイヴェルト氏のアフタートークがあってラッキー
進行役で劇場の芸術監督の小川絵梨の質問がとても分かりやすいこともあり、なるほど、と思うことがたくさん。
例えば家。
「母親は子供たちを支配し、家の閉じ込めようとしているけれど、反面、父親が出て行ったあと、子供たちを守り育ててきた場所でもある」
そうだよな~
アマンダは、幼い子供たちにキッチンで食事を作り、食べさせて、ちゃんと大人になるまで育てたんだよな~
と思うと、温かさを感じた意味がわかる気がする。
美術のヤン氏は、一度セットを自分の中で組み立てたら、場所や時代がわかるものなど色々なものをそぎ落としていく作業をするとおっしゃる。
椅子やテーブルもあえて置かなかったらしい。
古い時代のお話だけど、どこか新しさを感じたのはそのせいかもしれない。
稽古は、最初から衣装もセットも照明も本番と同じ中ではじめるとか。
新しい家に引っ越してきたような気持ちで、少しずつなじんでいくようにするらしい。
聞いてみないとわからないものだ。
舞台が終わり余韻をかみしめた後に、こういう話を聞くことが出来て、二度美味しいってこのことだな、と思った。
今までの食わず嫌いを反省し、これからはこういう演劇もどんどん観ていこうと心に誓ったのでした。
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