先に書いたとおり、畑中良輔先生と同年生まれだった石丸寛に興
味を覚え、氏の著書『それゆけ!オーケストラ』を読む。
氏は、広くクラシック音楽の普及に尽力した人だったが、オーケ
ストラの現場の「内幕話」など興味深い話が書かれている。
本書には、氏が50歳前後に書いたものを集めている。
その中から、例えば、次の話などが興味深い。
私のいた玉川学園という学校は昔から音楽に力を入れていたので、新響の演奏
会といえば必ず玉川の合唱団が出演したものだった。・・・・・・私たちは指揮者の
ちょうど正面にあたるティンパニのすぐ後の席をとるために、いつも早めに学
校を出た。・・・・・・
指揮者の背後には黒板があり、私の記憶ではローゼンシュトックは時たま図を
描いて、クレッシェンドやアクセントのやり方を説明した。いやそればかりで
はない。彼はゆで蛸のようになって激昂すると、その白墨を楽員にむかって投
げつけたのである。怒って指揮を止めてしまったローゼン氏を、当時のチェロ
の首席だった斎藤秀雄や鈴木聡たちめんめんが数珠つなぎになって詫びに行き、
再び練習開始という風景も見られた。
こういう酷(むごたら)しい(?)教育を受けた人たちは、自分もまたその教
育法を実践する。
この話を読んで、私は畑中先生の『オペラ歌手奮闘物語の一節を
思い出した。
齋藤(秀雄)先生のレッスンは、名にし負う厳格なものだった。一切の妥協は
ない。・・・・・・指導をお願いした曲はブラームスの《運命の歌》である。
最初から躓(つまづ)いた。主旋律をアルトがユニゾンで歌い出すのだが、・・・
・・・それぞれピッチが違う。・・・・・・もう一回。うーむ。まだまだ。もう一回。
じゃ今度は一人一人で。次に二人で。--と、ここまでで一時間以上が経って
しまった。・・・・・・
何回目かのとき、ついに団員の一人が突然立ち上がるや、譜面を床に叩きつけ、
足音を蹴立てて部屋を出ていった。・・・・・・先生は指揮棒を静かに譜面台に置い
て外へ出てしまった。・・・・・・私はすぐさま先生の後を追ったが、先生の影はど
こにも見当たらない。
「このまま帰らないで」と私は皆に言い置いて、タクシーに飛び乗って先生宅
へ向かった。先生は玄関へ入ろうとしているときだった。
「先生。お願いします。もう一度だけやらせてみてください。皆待ってます。
お願いします」
(『オペラ歌手奮闘物語』)
音楽にプロもアマもない。木下先生や畑中先生のワグネルの練習
もはたして「真剣勝負」であった。現在もきっとそうだろう。
石丸寛『それゆけ!オーケストラ』(中公文庫)
音楽家の話はおもしろい。
以下は過去に取り上げたが、今読み返しても興味深い。→こちら。
大町陽一郎(1931/8/22-2022/2/18、90歳)
岡村喬生(1931/10/25-2021/1/6、89歳)
お二人とも昭和6年生まれ。昨年、今年と相次いで亡くなられた。
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○日本ゴルフツアー選手権最終日
星野陸也は痛恨のOB。これを痛恨といわずして、何という?
やはり宍戸のINで攻めるとリスキーだ。
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