かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

賢治散歩をしながら歩く岩手路

2020-11-21 15:33:54 | 日記

宮澤賢治さんと散歩を掛け合わせて、これから賢治散歩と呼称することにする。

ケンジサンポをしながら賢治さんゆかりの地を歩いていこう。ただし、今年岩手県に足を伸ばすのは、この11月27日の金曜日まで。いままさに、批判の矛先が向いているGOTOトラベルを「利用」して予約している湯治場を最後に、新型コロナ禍第三波が止むまで、しばし「県外移動の自粛」期間としたい。

今週は、賢治さんの母方の血縁のヒトが営んでいるという花巻市鉛温泉の老舗旅館の湯治部屋に二日間逗留しながら、賢治さんが実家の病床にあった昭和6年秋に綴ったとされる、いわゆる「雨ニモマケズ手帳」に記されている「経埋ムベキ山」32座(プラス候補4座)のうち5座を散歩し、病床につく前の昭和6年春から技師としてかかわった一関市(旧東和町)の東北砕石工場記念施設を訪ねてきた。

「経埋ムベキ山」については、以前、畑山博さんの著作になぞらえて、オイラも便乗して個人的な星座図も引いたことから気になっていて、この1,2年中にぜひ訪ねてみようと決めているが、この山にすべて登っている奥田博さんの著作「宮沢賢治の山旅」(東京新聞出版局)を読んでみると、いくつかは登山道のないヤブ山であり、この本が25年前に書かれたもので、たとえ林道や踏み跡が記されていても、その当時よりさらに行程が荒れたものとなっていると思われるので、国土地理院の地図に登山道のない山は、「麓や山頂近くを眺めるだけにして」無理して山頂を極めないことにして、散歩することにした。

1日目は、手帳の最初記されている① 旧天王(山というほどでもない丘) 、② 胡四王山 ③ 観音山

2日目は、鉛温泉の周囲に鎮座する④ 高倉山(候補)、⑤ 大森山

と5座の「経埋ムベキ山」を歩いた。③と⑤はふもとから眺めただけ。④は、スキー場頂上からは藪を漕げば20分もあれば山頂につきそうだったが、そのような意欲がなくやめた。⑤は、奥田さんの言っていた林道さえもヤブで埋もれていた気配があり、麓まで行ってやめた。③は、時間切れで登山口まで行けなかった。新花巻駅のすぐ裏手なので、またの機会に行ってみたいが、登山道がない模様。

①は、旧天王という言葉が全く見当たらない、高木岡神社の境内だった。近くまでいって犬を散歩していた青年に「旧天王という山はどこですか」と尋ねたら、認知症のジジイを見下ろすような言い方で「そんな山は100%この辺にはありえない」という冷たい返事であった。しぶしぶ、近くの小高い丘にある高木岡神社について奥田さんの本を開いたら、この神社のあるところが旧天王に間違いなかった。

どうやらこの高木という地区は、かつて久田野という地名だったようで、地元の人(あるいは賢治さんが)クデンノ(賢治さんの詩ではキーデンノーと表記)と呼んでいて、立派な旧天王という字があてられたものかもしれない。神社の縁起にも一切この漢字の表記はなかった。

ただし、神仏習合の時代、この神社は羽黒山信仰をしている修験者たちの宿泊所にもなっていたといい、境内に「法華経一字一石」の碑が埋もれていた。信仰厚いヒトたちが、法華経の6万を超える経文の漢字を一字づつ小石に写経し、これを土に埋める納経法があったのだという。

賢治さんが、手帳のトップにこの山を持ってきたわけが、すこし理解できたかもしれない。

 

       

 

 

     

神社の表参道にフクロウさんの彫り物が。賢治さんが見守っているようだ。

 

 

ふもとから登って、わずか30分足らずだが、北西に大きく展望が開け、花巻市街や賢治さんの教えた農場なども遠望できる②の山、胡四王山の山頂、この山賢治さんも生徒を連れたりして何度も登った山ということで、中腹には今の記念館やイーハトーブ館も立つ聖地のような山。

     

 

誰を祀っているのだろう、山頂に三つの祠。立派な山頂の胡四王山神社の縁起を読むと、かの坂上田村麻呂が東征の折、将兵の武運長久と無病息災を念じて薬師如来を奉納したのが始まりとか。古代の寺院や神社の建立目的は、まずは倒した相手の祟りを恐れての鎮魂のためだろう。平安初期に、この地方でいったい何人の蝦夷(エミシ)が打ち取られたのだろう。中央政府の意に沿わない理由で多くの家族の命が奪われたのではないか。

そして胡四王(こしおう)とは、その言葉の意味するところは調べてもよく分からないが、秋田や新潟の日本海側にこしおう神社(古四王)が多いとか。推測ではあるが、コシオウとは越の国の王の意ではないか。越国とは大化の改新以前からある今の山形あたりから北陸地方を支配していた朝鮮半島からの渡来人を祖にもつ国とか。大和と蝦夷にの間にあって、蝦夷と衝突がひっきりなしにあったとか。

時が過ぎて、神社の縁起によると平安初期の807年に坂上さんが当地の蝦夷を攻め滅ぼしたとあるが、その坂上さんも祖先は渡来人らしい。すでに大和朝廷に組み込まれていた越の国ではあるが、東征の将兵は越の国出身者で占められていて、同じ出自の大将に越の国の兵士はよく戦い、越の国のヒトたちが長年の仇敵を征伐した証と倒した相手への鎮魂をこめて越王の神社と命名したのかもしれないし、山のテッペンにあるので、あるいは東征後の返り討ちを恐れての砦の役割も果たしたのかもしれない。

以上は、ほとんどオイラの思い付きの仮説にすぎないが、曖昧模糊とした古代の歴史を、残された縁起や伝承からあれこれと思い巡らすのも文学、歴史散歩の面白さ。

さて、賢治さんは、どのような思いで埋経の地にこの神社のあるお山を選択したのか。何も語っていないようだが、その選択理由を考えるのも、これからの散歩の課題としよう。

      

                    観音山

①~③の三座は、北上川をはさんで羅須地人協会のあった場所から眺められるという。機会をみて、確認してみよう。200m前後の低山であるが、三座は賢治さんの身近な祈りの山だったのだろう。

 

 


 

 

 

     

この絵は、鉛温泉の湯治棟の男子便所と女子便所の間の壁に飾ってあった誰が書いたかしれない絵。

一目見て右側が、上記④の高倉山、⑤が大森山と分かる。鉛温泉を西の方向から眺めたものだろう。

 

    

高倉山は、こないだ登った南昌山と同じ格好をした賢治さんの好きそうな釣鐘状の山。この山も冷えたマグマが現れたという岩頚(ネック)なのだろうか。頂上までは登らなかったが、スキー場のテッペンを周遊して、2時間ほど楽しく歩いた。

 

 

 

    

 

豊沢川を挟んで、高倉山と対峙して入道のように聳える大森山。賢治さんは、20代前半に岩手農学校の委嘱により周囲の土性調査にひんぱんに訪れたというが、親類のこの温泉に何度も逗留して、この二座はまるで我が家の庭のように眺めていたのだろう。

 

高取山も大森山も、奥田さんによると何の信仰的モニュメントはないとのこと。信仰の山に囚われず、愛する青春の山も「経ウズムベキ山」に選んだんだろう。あの絵のような風景を思い浮かべながら。

 

宿の深い湯舟と高い天井を仰ぎながら、今日1日、賢治さんと同じ風景を見て感慨ひとしお。チェックアウトをすまし、宿のオジサンに「世界遺産のような古く立派なふろ場でした。宮沢賢治さんもこの風呂場に入ったんでしょうね。」

と尋ねてみたら、「80年前に火事でこの旅館全焼したんですよ。ただ、湯舟は残っていたので、位置はかわっていないんです。」と。

賢治没88年後の晩秋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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