まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
農民芸術概論綱要の一節を哲学者谷川徹三さん(詩人谷川俊太郎さんのお父さん)が揮毫した東山公園の石碑建立時の集合写真。中央の徹三さんをはさんで、向かって左が賢治さん弟の清六さん、右が歌人で関登久也さん。
銀河の果てまで続いていきそうなレールと石灰石を運んだトロッコ
鉛温泉をあとにした日、雨降りの一日だったので、一関市の「賢治と石のミュージアム」を歩く。合併前の東山町のJR大船渡線陸前松川駅を降りてすぐ。賢治さんが亡くなる直前に技師として働いた東北砕石工場跡が併設されている。
「太陽と風の家」という展示室は「石っこ賢さん」の作品や山野での行動と宝石類の展示物とのつながりを、もっとわかりやすくおもしろく解説してくれれば、たのしいのになあ、と思ったが、ただ美しい宝石類が原石とともに展示されていただけで、ちっともったいないと思った。そんなこともあるのだろうか、2時間ばかり展示室や工場跡地をうろうろしてたが、入場者はオイラと青年の二人だけだった。
「石っこ賢さん」を理解する上で、物理、化学、地学の基本知識は必須なのだが、不肖オイラは小学生レベルの知識で「止まっている」ので、作品を読み進めるなか、いちいち固有名詞に鉛筆を入れて、ネット等で調べてメモをしながら、何となく理解しつつ賢治さんの森に分け入っている次第なのである。もっと知識を広げたら、展示物たちは賢治さんの作品のように、こちらに語りかけてくるのかもしれない。
「石っこ賢さん」を理解する上で、さらに岩手の地形と地質の理解が必須なのだが、大まかに分けると、北上川をはさんで西側は、新しい地層で火山の影響が顕著で火成岩系で温泉も多い。それに比して東側は、かつての海が隆起して何億年の間に降り積もった土石や火山灰が堆積した古い堆積岩系の地質だということは、何となく理解している。
展示室をでて、東北砕石工場跡を見学。何億年前に海だったことからサンゴや貝などが堆積して石灰岩となり、東山町の地下に眠っていたが、その石の採掘と製品化を鈴木東蔵さんというヒトが大正13年に始めた工場だ。
賢治さんは東蔵さんに乞われて、亡くなる2年前の昭和6年2月に技師となった。製品としての炭酸カルシウム(タンカル)は、火山の影響による酸性土壌の土地改良剤として畑や田んぼに撒くことで、冷害に強い作物を育てることができる。
発熱し、そのまま病臥につくまでの半年間、まさに製品の販売と品質改良に東奔西走したことが、おびただしい書簡や証言で明らかだし、昭和8年9月に亡くなるまでの間、東蔵さんと手紙やはがきのやり取りを続けた。いまでいうテレワーク。あの「雨ニモマケズ」の精神は、手帳の世界だけではなかったんだ。「イッテ~ヲスル」というボランティア精神こそ、晩年の賢治が行きついた精神だろう
。
1978年(昭和53年)に工場の操業は途絶えたのだという。展示物に理由の説明を見いだせなかったが、大企業や外国からの輸入に打ち勝てなかったのだろうか。
工場には、元気なころの賢治さん、東蔵さんと工場で働く仲間との集合写真やその写真をもとにつくられた実物大の人形が展示されていた。
東蔵さんや労働者らは、まさに此岸のヒトのお顔立ち。
賢治さんだけが、銀河の果てからやってきたヒトのようなお顔立ち。
と違いはあるが、皆が同士の顔だ。(偶然居合わせた魚屋さんの存在がおかしいが)
人っ子一人いない工場内の坑道には、奥の奥まで展示用に灯りがともされており、奥でまだだれかがツルハシを振っているようだった。賢治さんが工場にやってきたおり、上り下りしたという階段から誰かがキシミ音をたてて降りてくるようだった。
〇〇や つわものどもの 夢の跡か・・・
〇〇や の〇〇には、何をいれようか トロッコ・錆レール・・・
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
賢治さんも、東蔵さんも、工員たちも、魚屋さんも、石灰になった無数の生き物たちも、宇宙の塵となっていまごろ、どこかを彷徨っているのだろう。