昨日の日記を訂正しよう。
花巻の湯治場は3泊したのだから1日分=2日目の行動を忘れていた。(認知症の前ぶれか)
2日目は、台温泉から徒歩で羽山神社を詣で、そのご神体をお祀りする羽山山頂に登り、再び釜淵の滝遊歩道を歩いて、晩年、賢治さんが花壇設計を行ったという.花巻温泉のバラ園で賢治碑・日時計などに立ち寄り、荒れ放題の堂ヶ沢山の林道から「経埋ムベキ山」堂ヶ沢山に登り、本来の登山道を見つけ花巻温泉に下山し、日帰り温泉「蓬莱湯」に入湯し、バスで花巻駅へ。
その足で、賢治さんが農学校教師時代、よく訪れたという蕎麦屋「やぶ屋」で、賢治さん好物だったという「天ぷらそば」をいただき、大沢温泉へ、という賢治尽くしの賢治散歩だった。
釜淵の滝原風景
昨日の日記では、遊歩道や展望デッキなど後世の設えもの以外は、作品「台川」当時のまま滝も川も流れているかのようだと書いてみたが、現在の釜淵の滝は、このような状況だが、
滝の正面
滝上から眺める
が、昨日図書館から借りてきた岡村民夫著「イーハトーブ温泉学」(みすず書房2008年)掲載の写真を見て驚いた。
子供らの大きさから推定して、滝の幅が今の倍以上はありそうなのだ。同じ滝とは思えないスケールなのだが、滝面の窪みの形状など照らすと「同じ滝」にまちがいない。
この写真は、昭和初期に花巻温泉の絵ハガキとして出回った写真ということだが、作品「台川」は、大正11年・1922年秋の遠足をスケッチした作品とされているから、遠足当時の滝もこの写真に写っているスケールの滝と同じような風景だったろう。
オイラは、正面の展望デッキから、滝の右岸(向かって左側)に設けられた遊歩道を伝って滝上に出て、さらに遊歩道の先を歩いたが、十数メートル先につり橋があって、それを渡ると花巻温泉の一角ホテル佳松園にたどり着くのだが、つり橋から上流をながめて驚いた。
高い堰堤があって、そこから水が流れていた。地図で見たら堰堤より奥は小さなダムのような貯水池になっているようだ。
そうか、この人工物によって水量が制限されてしまい、滝に流れる水量が相当に減ったのだろう。今の風景と堰堤の古さから、かなり以前から水量が減り、長い年月の間に滝の両脇に苔が生え、草が生え、乾燥地と化してしまったのだろう。
それにしても、どうして堰堤をつくったのか、防災か、水資源か、巨大観光資本の安易な遊歩道確保のためか、「せっかくの風景を台無しにしている!」。
あのころのような滝のおおらかさがあれば、いまも老若男女が多く訪れ、夏の水浴びや観一大観光スポットとなっていたのではないか。
残念で仕方がないが、堰堤を今からでものぞいて、古き良き釜淵の滝をタイムスリップさせてほしい。やればできそうなのだが・・
羽山・堂ヶ沢山
台温泉入り口の羽山神社から、急な細道を登り、羽山の頂上に続く林道にでて、30分ほどで台羽山とも名指される羽山(約350m)に登る。
初冬の登山道、雑木林はほとんど葉を落とし、遠くの山並みが見える。「おお。早池峰と右隣は薬師だな」
並んだ姿は貴婦人のようだ。
アカマツに囲まれた羽山山頂のこじんまりした頂上に、羽山の神様がおわしました。
羽山の中腹には、「龍蔵権現」の碑が。奥にこれから登る堂ヶ沢山がどっしり構える。
花巻温泉のバラ園から奥の林道から約50分、「経埋ムベキ山」堂ヶ沢山(364.5m)山頂に。ナラの木に複数の山名表示が、たいして展望はきかないが、初冬の低山の静かな山頂ってなかなかいいな。宗教モニュメントは一切なかったが、花巻温泉花壇の思い出の山として賢治さんは、ここにも経を埋めたかったのだろう。
この山からも早池峰と薬師のツーショット見えました。ああ美しい。来年はどちらにもお邪魔しよう。
花巻温泉 南斜花壇跡で
賢治さんが、高校を依願退職したのが30才、1926年・大正15年(昭和元年)の4月、羅須地人協会を設立し、芸術と科学を統合した農業実践というあらたな地平を切り開こうとしたが、理想と現実のはざまでもがいた季節が到来したといえようか。教師時代までの健康も次第に蝕まれていくのもストレスと疲労による免疫力の低下が一因しているのか。
31歳、1927年昭和2年、当時台温泉近くの山間に大正時代の終わりに突如として開発された一大遊興地、花巻温泉のスキー場下部の南斜面(賢治さんがなまこ山と呼んでいる堂ヶ沢山のふもと)に、賢治さんは花壇の制作を依頼され、設計と造園に熱心に取り組んだ。その花壇は、戦後バラ園として整備され、当時の面影は、こないだ訪ねた賢治記念館のある胡四王山の南斜面に復元されている。
+
そのバラ園に立ち寄ったら、「冗語」という透明なプラスチックに印字された賢治詩碑と日時計に出会った。オイラは、賢治の設計になる花壇の魅力をまだ知らないが、はっきり言って、賢治の「雨にも負けぬ魂」と資本家が全国の富裕層の紳士諸氏や家族を招くために遊園地や動物園を併設した温泉郷構想とは相いれぬものがあったのではないか。そのような、温泉地の花壇設計をなぜ請け負ったのかは今後の研究課題ともしたいが、富裕層の喜びそうなサービス精神にあふれた花壇というよりは、詩や音楽をつくるかのような自己表現の場としたかったのではないか。
「冗語」という詩には、花巻温泉の「人相の悪い客層」、「孔雀やヒグマなど異郷から見世物として連れてこられた動物たち」などが登場し、天気の変化にやや神経過敏な造園作業ぶりが描かれており、何やら賢治さんの屈折した心理が現れているような気がした。でも、さきほど「登頂を極めた」羽山や堂ヶ沢山(なまこ山)がでてくるのだから、こころのポケットにしまい込んでおこう。
バラ園の小高いところに「あのロッキード事件証人喚問で手が震えて署名ができなかった」小佐野賢治さんの胸像が立てられ花巻温泉街を眺めていた。現在の花巻温泉の経営母体は、小佐野さんがオーナーだった国際興業グループなんだとか。
あと百年後、約百年前に突然現れたこの温泉郷が「兵どもの夢の跡」となっていないかと、ちょっと心配。
昭和2年に建てられて、平成14年に老朽化のため営業をやめた松雲閣別館。昭和天皇も御泊りとか。
戦前は、著名な文人墨客も多数花巻温泉を訪れたとのことで、昭和6年の高浜虚子、昭和8年の与謝野晶子夫妻らの碑があちこちに建てられていた。まだ、賢治存命の時だが、知らずに花巻を後にしたんだろう。
「ブッシュ(藪)に行こう」と花巻農学校時代の賢治先生。そのころ創業したばかりの「やぶ屋」に生徒や同僚を誘い、てんぷらそばと「アサヒビール」ではなく、「三ツ矢サイダー」を注文したのだという。
戦後、高村光太郎さんも太田山口の山荘から花巻の街に出かけたときは、この「やぶ屋」に立ち寄ったのだという。
大正12年の創業当時から、同じ揚げ方だという衣を厚くした「草履揚げ」を注文し、かみしめるようにありがたくいただいた。天ぷら系の暖かい蕎麦といえば、旅先では、いつも立ち食いのかき揚げそば500円相当を支出し、わずか10分程度で店を出るのを常としているが、老舗の蕎麦屋ののれんをくぐり、750円の天ぷらそばを注文し、ゆっくり座席に腰を掛け500円の中瓶ビールを少しづついただきながら、サクサクの衣を少し汁につけたり、プルリンと汁に溶けた衣を箸に絡まして舌に乗せながらゆっくりとした時を過ごすのもいい。
実習で疲れ切った賢治先生の体に三ツ矢サイダーでいただくこの天ぷらそば、沁みただろうな。おそらく、賢治先生も生徒も汁を最後まで飲み干して帰ったことだろう。(ちなみに、オイラは塩分・糖分・脂肪分の過剰摂取を慮って、心残りだが汁を半分残して帰った。ビール飲んでるから効果ねえか。)