いったい日本の街でひとりの文化人を観光・文化資源として、老若男女(幼児から児童も含む)を引きつけてやまない街がほかにあるだろうか。
芭蕉の街、漱石の街、鴎外の街、龍之介の街、康成の街、健三郎の街、春樹の街、そんな街は知らない。ファンのすそ野の広い、太宰治や石川啄木だって生地に記念館と少しのモニュメントがあるくらいだ。境港は、鬼太郎の街として旅人を誘いはするが、熱烈な一部のファンに留まる。
花巻という街に至っては、宮沢賢治に関する施設だけでも、記念館、童話村、イーハトーブ館があり、ゆかりの施設、地点としては羅須地人協会の建物と建物跡に建つ詩碑、ぎんどろ公園(花巻農学校跡)、花巻城址エリアの稗貫農学校跡(最初に勤務した移築前の花巻農学校、現花巻病院)や鳥矢崎神社、イギリス海岸と称した北上川河畔、生誕地(終焉地)、墓所、産湯の井戸(母の実家)、などが市内にあって、さらに詩碑、詩歌や童話の舞台となった場所などいくつもあって、賢治にちなんだ山猫軒などのレストラン、料理店や、そこで出される数々のメニュー、雨ニモマケズが記されたキャラメル、Tシャツ、マグカップなどみやげものは枚挙にいとまがない。
岩手県交通のバスの行き先が「賢治記念館」「賢治詩碑」行きや、観光協会が運行するゆかりの地めぐり「どんぐりとやまねこ号」も毎日運行している。
だからといって、京都や鎌倉のようにインスタ映えのお陰で諸外国からの観光客も巻き込んでの押すな押すなの様相ではないのだが、花巻という街から宮沢賢治という存在を消し去ったら、例にもれず人口減少と大規模商業施設一極集中によるさみしい地方都市の一員なっていたことだろう。
ただし、花巻というところは、オイラのような山好き、川好き、蕎麦好き、温泉好きにとっては、北上平野の真ん中にあって早池峰、和賀、焼石などの山並に抱かれ、北上川、豊沢川、猿ヶ石川などが平野をおおらかに流れ、鉛、大沢、志戸平、花巻、台などの歴史ある名湯がバス代5~600円圏内に点在し、加えてわんこそば発祥の地として蕎麦通も裏切ることはない土地なのであって、賢治がいなくてもイーハトーブ(理想郷)といっていい街だったのだ。「だったのだ」という言い回しは、今頃になって気づき始めたから。
しかし、どうして賢治は愛されるのだろう。その答えを、読んで、歩いて、五感で感じながら見つけていこう。
18きっぷ利用最終日、5回目のスタンプを駅でもらい、あらためて花巻駅に降り、賢治ゆかりのポイントを歩いて線でつなぐ。ぎんどろ公園(花巻農学校跡)から賢治の菩提寺である身照寺まで歩く。公園で、賢治の好きだったというギンドロ(ウラジロハコヤナギ)の木が美しい。「高原」の詩、「早春」詩、「風の又三郎」の一節が石に刻まれている。賢治の言葉は、公園であれ野に馴染む。
ぎんどろの木の幹の上はシラカバのようだ
公園の池の青
春と修羅の「高原」碑
菩提寺である日蓮宗総本山身延山久遠寺別院身照寺。春ならばしだれ桜が美しいだろう、フクロウの石像があちこちに据えられた陽だまりのお寺。賢治と宮沢家の墓石は、想像以上に小さく控えめだが、あでやかな花で飾られ、フクロウに見守られたほっこりするお墓。「南無妙法蓮華経」
菩提寺から、賢治産湯の井戸(母の実家宮沢商会)、賢治生家・終焉の地(現宮沢家)を訪ね、絶唱「み祭り三日」の鳥矢崎神社に参拝。南部藩花巻城址の一角にある花巻の守護神。賢治も何度かこの丘に登って眼下の街並みを目にしたことだろう。境内で、思わぬ詩碑との出会い。三日前の高村光太郎記念館で目にした「一億の号泣」の詩。光太郎はこの神社で玉音放送を聴き、翌日、昭和20年8月16日にこの詩を書いたが、戦争協力詩を多く歌った光太郎は、後世の詩集には決して載せないようにと語っていた慟哭の詩。
「真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」
光太郎にとってあの戦争とは、「真と美の極みへの闘い」だったのか・・・・
城跡の一角、初めて勤務したという稗貫農学校跡地を通り、花巻駅へ。わずか、2時間のあいだ、賢治の生まれて、育って、勤めて、妹を看取って、自らも永く眠る場所を歩いて繋ぐことができた。賢治も同じような距離を歩きながら、詩や童話を構想しては、手帳に書き留めたのだろう。賢治も「真と美の極み」を求めながら歩いていたのか。
午後、花巻温泉を経由し、台温泉までバスで行く。昭和40年代まで、国鉄花巻駅から大沢温泉・鉛温泉に至る花巻南温泉郷ルートと花巻温泉・台温泉に至る花巻温泉郷ルートは花巻電鉄という会社によって電車が走っていた。賢治も光太郎も乗っていただろう馬面電車という小さな一両だけの電車。今は、その路線にほぼ忠実にバスが走る。軌道があった時代の豊かさを思いながら湯に浸かり、花巻の午後を過ごす。「また、何度でも来よう。」
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