かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

大糸線、雲掻き消えて高峰輝く

2024-11-16 18:53:56 | 日記

大人の休日パス3日目、まだ夜明け前の松本駅始発の大糸線に乗車。ガラガラの四人掛け座席、もちろん進行方向左側の窓際の座席に陣取り、カメラの準備をするが、晴れ予報が外れてどんよりとした雲に西側のアルプスは覆われている。

この日の目的地は、信濃森上(しなのもりうえ)駅。ここから30分ほど緩い坂を上っていくと岩岳マウンテンリゾートがあって、営業中のゴンドラに乗ることができ、降りた場所から白馬三山や天狗尾根から不帰の嶮より南方向に唐松岳、五竜岳が一望できると見込まれた(過去形)のだが、どんよりとした雲は朝9時になっても消えてくれなかった。

忙しく登っていくゴンドラを眼前にして、この日の岩岳からのアルプス展望をあきらめて、昼過ぎに白馬駅を立つ上り電車まで、のんびり白馬の街をめざして歩いた。途中、木流川の小径という小川の辺をハイキング気分で歩いていたら八方尾根スキー場の起点になる宿屋街に自然と行きついた。この時期八方尾根のゴンドラは休止していた。通年営業の八方池山荘のお客らはどうやって山荘に登るのだろう。

 

ガラガラの八方の湯に小一時間浸かり、歩いて30分の白馬駅までとぼとぼ歩き始めたとき、日が差してきたので山の方向に振り返った。

「おお、白馬三山や五竜が雲の切れ間から顔をのぞかせ始めたぞ!」

白馬三山が新雪に輝いて神々しいことこの上ない。西を望めば岩岳の展望台あたりもすっかり雲が切れており、「あと3時間早ければなぁ。。」と地団太を踏んだというわけ。

帰りの大糸線の4人席は、もちろん進行方向右側に陣取って、名だたる山の名をなぞった。

鹿島槍、爺、蓮華、餓鬼、有明、常念・・・そしてほんの40日前に沖縄のみんなで登った蝶や大滝の山並み、みんな顔をのぞかせてくれた。

「ありがとう大糸線沿線のアルプスの山々! またこようね!」

と、満足して帰りの途に就く。

 

 

 

白馬本峰(左手)と小蓮華(右手)

 

白馬槍から天狗尾根(白馬市街)

 

白馬槍はヒマラヤの山のようだ(白馬市街)

 

五竜岳の山影(白馬市街)

 

鹿島槍の頭(車窓)

 

爺が岳の頭(車窓)

 

大町駅ホームの正面に蓮華岳(車窓)

 

奥に餓鬼の山影(車窓)

 

有明山(車窓)

 

 

常念と蝶(車窓)

 

 

 

 

 

 

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谷川の岩稜輝いて

2024-11-15 08:30:04 | 日記

前日、越後湯沢の民宿に泊まり、朝8時の上越線で土合の駅に降りる。登り列車のホームは、いわゆる「日本一なモグラホーム」ではない普通の地上にある。実は、オイラは下りホームを経験しておらず、この日の帰り、ふたたび越後湯沢にもどる下り列車で初めてモグラホームに降りるために永遠につづくかと錯覚するほどの超長階段を下ったのだが、こんな年寄り泣かせの地下ホームには金輪際降り立つことはないだろう、と確信した。あのホームは、若きアルピニストの足慣らし用に国鉄が「わざと」こしらえたのだと思いたい。

それはさておき、この日はまれに見る無風快晴の日で、標高1000メートル以下は、まだ秋色に染まっていた。
そんなんだから、躊躇なくロープウェイとリフトを利用し、天神平の展望台にのぼり、その後、まだ仰いだことのない魔の岩稜「マチガ沢」と「一の倉沢」を訪ねた。多くの若人の命を奪ったアルピニストの聖地であることから、一介のハイカーであるオイラはこれまで訪問を敬遠していたが、「冥土の土産」に一度は見ておきたかった。
素晴らし秋晴れの日、天神平からは眼前の谷川連峰はもちろんら、これまで登った百名山のうち、至仏山、上州武尊山、皇海山、赤城山、巻機山、浅間山、遠く富士山の山影まで展望できた。時間の都合で泣く泣くロープウェイを下り二時間あまりで「魔の岩稜」を往復し、開いた口が塞がらぬほどにダイナミックな岩稜を仰いだ。
さぞやアルピニストたちの胸を騒がせたことだろう。
秋の日差しは、あくまで暖かく、「死の匂い」などみじんも感じないほど現世の平和を享受したが、あちこち名が刻まれた古い慰霊碑を見つけた際には、立ち止まっては瞑目した。
 















 
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妙高のふもとの露天風呂近くにテントを張ったこと

2024-11-11 17:07:20 | 日記

新潟上越の妙高山には、20代のころと、50を越してからの二度登った。

最初は火打山を登ってから妙高に登り、燕・関温泉に下つた。何処だったか大きい大きい露天風呂に入った。とても感激したので、二度目の妙高登山は、燕・関温泉を起点にして登り、またあの大きな大きな露天風呂に入ろうかと企画した。
だが、このネット時代に、どうしてもあの露天風呂が探せなかった。キツネやタヌキにばかされて肥溜めにでも入ったのかもしれない。
仕方なくて、二度目の登山は、まちがいなくあの露天風呂とは異なるが、「黄金の湯」と「河原の湯」という無料の露天風呂が登山道沿いにある燕温泉を起点にした。
前泊日帰りの登山を計画したが、燕温泉には適当な(リーズナブルな)宿がなかったので不適当な(指定地外キャンプ)ことは承知で、その無料の露天風呂近くで登山道から離れた場所にテント泊をした。ここの露天に登山前と下山後入ったが、学生時代のあのときのように心地よく感激した。もうあの大きな大きな露天に会えなくてもいいと思った。
 
 
その懐かしい無料露天風呂に入って見たくなり、今日、大人の休日パスを利用して訪れてみた。あのときのテン場も確認した。硫黄くさい濁り湯があのときのままで、心地よかった。目の前のブナの木は黄金から土色に変わりつつあったが、ブナの木の最も輝く黄金のとき、がこの湯の名の由来なのかもしれない。
次のバスまで大分時間があったので、適当な宿の日帰り温泉に、あと小1時間ほど入った。
あの露天といい、ここの湯といい、燕の湯は上質なのだが、平日ではあるが、客はオイラ一人と、まるで貸し切り状態であり、一抹のさみしさをおぼえた。
学生時代から、この地域のお湯の優しさを肌で感じている。
廃れないで生き続けてほしいな
。宿も湯も。
 



 
 
 
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新雪の山々を見に行こう

2024-11-09 18:32:06 | 日記

八日、泉ヶ岳を歩く。山頂付近がうっすらと雪化粧しているのを確認。山道も標高900mあたりから倒木や苔むした石の上に前夜の雪が解けずに残っていた。

標高1000付近から細かな足の速い雪が降りだしてきたので、山頂とキノコハントをあきらめて標高500近辺の山ろくで時間を費やす。

この日の目当ては、晩秋にはえるという「シモフリシメジ」であったが、とうとう出会えないで雪の季節を迎えた。もうそろそろ、キノコの季節も終わろうとしているが、今期は様々な初顔のキノコたちに出会えたので内心満足している。家の狭い冷凍庫はストックされたキノコたちたちでいっぱいなので、そろそろ採取活動は終えたいが、この「シモフリシメジ」と正月まで見られるという「エノキタケ」にターゲットをしぼり、年末を過ごしたい。

ただし、来週は「JR東日本大人の休日パス5日間」を購入していて当地を留守にするので、動けるのは、今月半ば以降になり、シモフリはもう終わっているのかもしれない。季節の短さと足並みをそろえるようにキノコたちの地上への出現は短いとつくづく感じる。なにやらセミの一生と通じる。

だが、ひと冬超すと、またスプリングエフェメラルたちが、「今度はワイらの出番だ」とでもいうかの如く、地上に顔を出すのだ。なんだか、季節のサイクルがドンドン早く感じるな。

暗いがあたたかな地中で植物たちと菌糸たちはどのような会話をしているのだろうか。(セミさんの幼虫も交じっていたりして。)

 

 

富士山や北アルプスをはじめとする中部山岳はひと月遅れでやっと冠雪したとの報道。

来週は新幹線や在来線を効率的に組み合わせて、まだ少し残っている紅葉エリアにに身を置きながら、新雪の山々の展望の旅と贅沢をしたい。お天気が良ければ、まだ稼働しているロープウェイ活用も考えながら・・・・

数年前までは発想だにしなかった手法での高所訪問となろうか。確実に老いは進行している。

NHK立山初冠雪情報

 

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湯治宿の窓を開ければ

2024-11-05 18:38:34 | 日記

先週は、1週間ほど岩手の湯治宿二つを渡り歩く。

職を辞してからもう6年になろうとしているが、遠く母親の胎内で36℃前後のお湯に浸かっていた心地よい記憶がそうさせるのか、温泉への郷愁が日々増してきて、とくに秋から春の寒い時期はお湯が恋しくてならない。

そんな欲望を満たすには、日帰り温泉もいいが、できれば「湯治」という古来からの文化に従って温泉宿に連泊し、朝から晩まで温泉三昧をするのがいい。.

ただし、宿の連泊は年金暮らしの庶民にとって経済的に苦しい。だが、わが東北には、一泊3,000円台の自炊宿がまだまだ残っていて、年に数日だけではあるが、そんな欲望を満たしてくれている。

なかでも、先週いつものように三泊ほど滞在した、北上市の湯治宿「夏油温泉」は、湯の質はもちろん山歩きを思う存分楽しめるという環境にあるので、山菜の春、きのこの秋を中心に春と夏には.必ず訪れたいオイラにとって最愛の湯治場である。

そして後半二日ばかりお世話になった花巻市郊外の湯治宿「大沢温泉湯治部」は、ここも湯の質は言うまでもないが、湯宿の建物と部屋のたたずまいが、明治から昭和と引き続く温泉宿の文化の香りがふんぷんとしていて、部屋に設置された液晶テレビを見なければ、まるで昭和の〇〇年にタイムスリップした気分にさせられるまことゆかしいお宿である。

また宮沢賢治好きなら誰でも知っていることだが、この温泉は宮澤家ゆかりの歴史的湯宿で、浄土真宗の篤信家であった賢治さんの父、政次郎さんが毎年夏にこの宿で仏教講習会を開催していて、小学生から中学までの何度か、賢治さんも親に連れられやってきて、何度かこの宿に泊まって講習を聞いていたという資料がある。

下の写真は、この宿に飾られていた1906年(明治39年)の講習会の際の集合写真だが、10歳の賢治さん、8歳の妹トシさん、たぶん30代前半とまだ若い父親政次郎さんが写っている貴重な写真だ。撮影場所は温泉の敷地内を流れる豊沢川の左岸の淵際と推定される。

運が良いことに、先週オイラがあてられた大沢温泉の二階部屋の窓を開けたら、眼下をその豊沢川が静かに流れていた。

もう100年以上も前のこと、いやわずか100年余り前のこと、指間の川べりに10歳の賢治さんがスクッとたってこちらを見ているような・・・そんな幻影も頭をよぎるような・・・あのときからそんなに変わっていないかもしれない窓外の風景であった。

秋の色づきは今一歩というところだが、色づいた落ち葉がいくつもいくつも静かに静かに流れていった。

 

      

 

 

 

 

      

 

 

 

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