連日の散歩で疲れたのか、好天にもかかわらず、昨日は一日ごろごろしていました。3時過ぎに東京・荒川のOさんが様子を見に来てくれました。
Oさんは1945年4月13日に日本統治下の済州島に生まれた在日コリアンで私たちとの交友はもう30年近くに及びます。現在は「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の副会長です。19歳の時来日して以来40年余り、済州島での青年時代の進取の精神を失わず、まさにこの「地の塩」であり続けてきた人です。地域の子どもたちの自立を支援する子供会を夫人や友人と共に運営してきました。今は3人のお子さんもそれぞれに自分の道を歩み、Oさんは主夫の役割を果たしながらボランティア三昧の日々です。
この5月に韓国・木浦(もっぽ)沖に父上の慰霊の旅をした話を聞きました。
Oさんの家族は戦前から東京に住んでいたのですが45年3月10日の大空襲を
契機に故郷済州島に引き揚げたのです。お母さんのおなかにはOさんが宿っていました。4月、男の子の誕生に大喜びした父上は日本から送った荷物をとりに木浦に向かう定期航路に乗ったということです。待っていればいずれ届くのに、念願の長男の誕生がよっぽど嬉しかったらしいのです。荷物の中に何か大切なものがあったのでしょうか。
この船が米軍機の攻撃を受け、多くの死傷者を出しました。Oさんのお父さんも残念ながら命を失います。泳げなかったためと言います。
当時のことを調べた人の記事があります。
○1945年5月7日月曜日、運命の朝を迎えました。
○当時、済州と木浦の間には、連絡船として晃和丸一つしかありませんでした。
○日本軍の疎開令によって、はじめて出航する船でした。
○定員は350名でしたが、その二倍の750名余りの人が乗りました。
○午前七時済州港を出航。楸子島入港直前、午前十時から十時半の間に、米 軍戦闘機の第一回空襲。この時は人命の被害はありませんでした。
○楸子島出港後、午後一時ごろフェンガン島を通り抜ける時、米軍機の爆撃。
○撃沈されて四、五日後、数えきれないほどの死体が浮かんでいました。
○乗船人数700~750人
○生存人数150~180人
○死亡人数520~600人
出典 真実を知りたい http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/02/index.html
「疎開令」に関してはこのブログを読んでもつじつまが合わないのですが、沖縄戦に続いて済州島が戦場になると考えた軍部が足手まといになる住民を「陸地」に移住させようとしたのでしょうか。
生まれた直後に父を失い、13歳にしてお母さんにも死別したOさんはお姉さん達の世話になりながら成人し、やがて日本で平和な家庭を築くことになります。その人生はドラマそのものです。還暦を迎えた頃父の遭難の海を訪ねたいと思ったのは何となくわかるような気がします。
成田から仁川に飛び、バスを乗り継いで完島に一泊し、翌朝早くフェリーで楸子島にわたり、釣り船をチャーターして晃和丸沈没海上に向かったと言います。この日の海はまれに見る凪で乗船をかたくなに拒否していた夫人も行を共にすることが出来ました。Oさんはどんなにか嬉しかったことでしょう。人生を共にしてきた最愛の人をお父さんに会わせる(?)ことができたのですから。偶然のことに船長の祖父に当たる方も遭難者の一人で慰霊の機会に恵まれたことを感謝されたそうです。63年前のお父さんの命日に当たる日でした。
妻の言葉。「Oさんはいつにも増して元気で明るい顔をしていました。何かが吹っ切れたのでしょう」。Oさんは来春、済州島に住むお姉さん達を父の眠る海に案内するつもりです。何年か前、友人達とOさんの故郷を訪ねた際、お会いすることが出来たお姉さん達の姿が懐かしく思い出されます。
楸子島は小さな島ですがインドネシア等からきた500人の外国人青年が漁業を支えているそうです。
病院からのお呼びが掛からないので今日は西武球場に「阪神・西武戦」を見に行くことにしました。
Oさんは1945年4月13日に日本統治下の済州島に生まれた在日コリアンで私たちとの交友はもう30年近くに及びます。現在は「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の副会長です。19歳の時来日して以来40年余り、済州島での青年時代の進取の精神を失わず、まさにこの「地の塩」であり続けてきた人です。地域の子どもたちの自立を支援する子供会を夫人や友人と共に運営してきました。今は3人のお子さんもそれぞれに自分の道を歩み、Oさんは主夫の役割を果たしながらボランティア三昧の日々です。
この5月に韓国・木浦(もっぽ)沖に父上の慰霊の旅をした話を聞きました。
Oさんの家族は戦前から東京に住んでいたのですが45年3月10日の大空襲を
契機に故郷済州島に引き揚げたのです。お母さんのおなかにはOさんが宿っていました。4月、男の子の誕生に大喜びした父上は日本から送った荷物をとりに木浦に向かう定期航路に乗ったということです。待っていればいずれ届くのに、念願の長男の誕生がよっぽど嬉しかったらしいのです。荷物の中に何か大切なものがあったのでしょうか。
この船が米軍機の攻撃を受け、多くの死傷者を出しました。Oさんのお父さんも残念ながら命を失います。泳げなかったためと言います。
当時のことを調べた人の記事があります。
○1945年5月7日月曜日、運命の朝を迎えました。
○当時、済州と木浦の間には、連絡船として晃和丸一つしかありませんでした。
○日本軍の疎開令によって、はじめて出航する船でした。
○定員は350名でしたが、その二倍の750名余りの人が乗りました。
○午前七時済州港を出航。楸子島入港直前、午前十時から十時半の間に、米 軍戦闘機の第一回空襲。この時は人命の被害はありませんでした。
○楸子島出港後、午後一時ごろフェンガン島を通り抜ける時、米軍機の爆撃。
○撃沈されて四、五日後、数えきれないほどの死体が浮かんでいました。
○乗船人数700~750人
○生存人数150~180人
○死亡人数520~600人
出典 真実を知りたい http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/02/index.html
「疎開令」に関してはこのブログを読んでもつじつまが合わないのですが、沖縄戦に続いて済州島が戦場になると考えた軍部が足手まといになる住民を「陸地」に移住させようとしたのでしょうか。
生まれた直後に父を失い、13歳にしてお母さんにも死別したOさんはお姉さん達の世話になりながら成人し、やがて日本で平和な家庭を築くことになります。その人生はドラマそのものです。還暦を迎えた頃父の遭難の海を訪ねたいと思ったのは何となくわかるような気がします。
成田から仁川に飛び、バスを乗り継いで完島に一泊し、翌朝早くフェリーで楸子島にわたり、釣り船をチャーターして晃和丸沈没海上に向かったと言います。この日の海はまれに見る凪で乗船をかたくなに拒否していた夫人も行を共にすることが出来ました。Oさんはどんなにか嬉しかったことでしょう。人生を共にしてきた最愛の人をお父さんに会わせる(?)ことができたのですから。偶然のことに船長の祖父に当たる方も遭難者の一人で慰霊の機会に恵まれたことを感謝されたそうです。63年前のお父さんの命日に当たる日でした。
妻の言葉。「Oさんはいつにも増して元気で明るい顔をしていました。何かが吹っ切れたのでしょう」。Oさんは来春、済州島に住むお姉さん達を父の眠る海に案内するつもりです。何年か前、友人達とOさんの故郷を訪ねた際、お会いすることが出来たお姉さん達の姿が懐かしく思い出されます。
楸子島は小さな島ですがインドネシア等からきた500人の外国人青年が漁業を支えているそうです。
病院からのお呼びが掛からないので今日は西武球場に「阪神・西武戦」を見に行くことにしました。