日本人妻の帰国が実現するかもしれないというニュースがあった。事実とすれば、一刻も早くその日を迎えたいものだ。
15年前には500人の日本人妻の帰国が実現寸前まで行ったが日本政府の不手際でおジャンになった。その時の立役者は日本財団の笹川陽平会長だった。
2007年に書かれた笹川会長の手記を紹介する。「飢餓」を目撃した貴重な記録でもある。
「15年」の月日の経過は酷い。帰郷を願い続けて生き残った人はどのくらいおられるのか?今度こそ、どんな方法でも、絶対に救出しなければならない。
「北朝鮮在住の日本人妻 救出」
1959年に始まった帰還事業で、在日朝鮮人の夫と共に北朝鮮に渡った日本人妻は約1800人といわれる。
日本の家族や親族へ、手紙で金や物資を無心する過酷な生活環境は大きな社会問題となり、私の記憶に誤りがなければ、1997年頃までは70回以上も国会で論議された。
その頃、拉致問題のメディアでの報道はなく、もっぱら日本人妻の帰還が大きな社会問題であった。その後、拉致問題が大きくなり、日本人妻帰還問題は拉致問題の陰に隠れ、取り上げられることはなくなった。
最近ようやく、超党派の『日本人妻等自由往来促進議員連盟』は、日朝交渉で取り上げるよう福田首相あてに要請文を提出したという。
私はこの問題解決に深く関与した立場から、過去の経緯を述べておきたい。
1997年6月、北朝鮮の食糧危機の実情調査のため訪朝した。その時の悲惨極まりない農村の実態を視察したのは、世界で私一人だったといってもよいだろう。
私は、高級招待所(宿泊場所)で出される山海の珍味も、数百人規模の歓迎パーティーも全て拒否した。理由は「食糧飢饉を調査に来た人間がご馳走を食べることは出来ない。市民と同じ物を食べる」と宣言し、小さなお椀一杯のお粥と数切れの漬物で二日間を過ごした。
社会主義の国々では、このような招待所(ロシアの場合も)は食事のサービス係、メイドに至るまで、全て情報関係の人々が勤務している。私の行動も遂次、上層部に報告されていたことは間違いない。
多分、その結果であろう。首都・平壌(ピョンヤン)郊外の農村部での視察が許された。
ピョンヤンから同行の党幹部も、初めて見る光景に目を潤ませていた。私が農家の一軒一軒の扉を勝手に開けて中の様子を見ると、そこは地獄の惨状で目を覆うばかりであった。
後日200万~300万人が餓死したことが報道された。
このことは後日書くとして『日本人妻帰還問題』に戻る。
到着した翌朝、『張成択』氏との会談となった。『張成択』氏は金正日の実の妹の夫であり、当時は金正日の側近中の側近であった。
朝10時頃、彼は一人で招待所に現われた。写真は駄目という中、絶対に公表しないことを条件に撮影し、今日まで約束を守っている。
二人の激しいやり取りは夕方7時頃まで続いた。
私は、日本人妻の無条件帰国500人を提案した。
なぜ500人に固執するのかとの問いに「ジャンボ機で一度に運べる人数」ということで第1回目は500人を要求。
先方も「元気で帰国出来そうな人数は500人程度かもしれない。1回100人程度でどうか」との提案に「結構です。ただ北京経由は複雑なので日本から直接飛行機を持ち込むこと」で合意した。
「明日の貴男の帰国にピョンヤン市内の日本人妻3名を準備しているので連れて帰ってくれ」との要請に、新たに条件を出される可能性を考え「飛行機を持って来るからその時一緒にしてくれ」と、丁重にお断りした。
帰国まもなく、ピョンヤン放送よりアジア太平洋委員会の名のもと「北朝鮮は人道的立場から日本人妻の無条件帰国を決定した」との発表があった。
この経過は、中山太郎会長(衆議院議員・元外相)のご尽力で、自民党外交部会で説明させていただいた。
ここまで順調に進んでいた日本人妻帰国問題は、橋本首相(当時)の「そういう話はきちっと筋を通してやってほしい」との公式談話で、外務省が突如北朝鮮との交渉に乗り出してきた。
私は、日本人妻帰国問題は民間人の募金活動で実現したいと考えていた。
なぜなら、日本人妻は自分達の自由意志で北朝鮮に行かれたわけである。これに国費を投入することは出来ない。
外務省に「南米諸国に自由意志で移民した人々が帰国したいといったら国費を出すか」と問い質したが、聞く耳を持たなかったどころか、私と張成択氏との交渉経過の事情聴取もせず、北朝鮮の統一線部・金容淳や外交部との直接交渉に乗り出した。
ある日、外務省の責任者が挨拶に見え「日本人妻帰国問題は1回につき16人~17人の人数で決定した」と報告した。
私は「1回100人で交渉は妥結したのだからその線で再考慮願いたい」といったところ、「中国人孤児の帰国は一度に16~17人と厚生省(現・厚生労働省)が決めているので、暗に厚生省が100人に反対している」というような説明があった。
私は、政府が活動を開始した以上民間人が介入することは失礼だと考え、以来、北朝鮮問題については一切沈黙を守っている。
日本人妻は二度にわたる小規模な帰国が実現されたが、その後中断され、今日に至っている。北朝鮮の信じられない無条件での大幅な譲歩を生かしきれず、絶好の機会を逸したことは慙愧にたえない。
歴史に“ i f (イフ)”は禁句だが、あの時、1回100人、日本の飛行機がピョンヤンに飛んでいれば、あるいは拉致被害者もその延長上で解決されていたかも知れない。
先ほども書いたように、日本人妻の帰国問題以来、北朝鮮への日本政府の直接交渉が始まり、以後、北朝鮮問題では一切の発言をしないことにした。
政府が直接交渉を開始された以上、民間人の勝手な動きは自粛するのは当然であるからであり、また今の私にはその力もない。
日本人妻の帰国を望む家族や拉致被害者家族の悲痛な叫び声を聞くたびに、ただただ胸をつまらせるのみである。
当時の毎日新聞と雑誌『選択』を参考までに添付した。
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