川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

善助さん・国恵さんを訪ねて

2012-01-31 12:12:31 | 父・家族・自分

1月29日(日)☼

12時過ぎ、京急野比駅からタクシーで安田善助・國恵さんを訪ねました。

國恵さんは僕の母の従妹です。91歳になられたということです。先年、妹の桂子さんに先立たれ気弱になっていますが、近くのスーパーなどに買い物にも出かけ家事をこなしています。

善助さんは4・5歳年下です。脚の自由が効かないといいますが時にはバイクで出かけることもあるようです。元々がスポーツマンですから自由に歩け回れないことが悔しくてたまりません。

ご夫婦がそれぞれにたまりたまったお話を間断なく聞かせてくれました。

備忘録・あれこれ

①善助さんは競泳の選手として高知県代表として度々全国大会に出た。ヘルシンキオリンピック(1952年)に出場した西野恭正さん(高知市出身)に100m背泳で勝ったこともある。

練習場所は室戸岬港だったからターンの練習ができなかった(岩壁には牡蠣殻がいっぱい)。大会が近づくと40数km離れた安芸高女のプールで練習した。渡辺格先生が同道して自転車で往復した。

宿毛高校で西野さんの講演を聞いたことがある青年が善助さんが漁労長をしていたマグロ船に乗ったことがある。西野さんは「安田に負けたのが悔しくてたまらなかった」と話していたという。

(室戸岬小学校の二間廊下に飾ってあった善助さんの賞状の正体が解明された)相撲も強く国体で活躍した。

②安田家は軍人一家。長兄(海軍航空隊)はフィリピンで戦死。特攻隊の一員として台湾に待機していたとき、フィリピンに赴く兄とはからずも面会。兄は死ぬのは嫌だが国の命令だからやむを得ないと言ったという。善助さんは鹿屋に配属替えとなって終戦。

 次兄はシベリア抑留中に病死。上官からお母さんに送られてきた最期の様子を知らせる手紙がある。「憎きはロシア、この仇は必ず取る」とあった。

軍人の妻となった國恵おばさんのあの時代に対する嘆きは深い。

③生き残った三兄は敗戦後、海難事故で殉職。パトリシア台風に巻き込まれたマグロ船「みさご丸」、全滅。1949年10月末。

(この時のことはこども心に覚えている。伯父の「三号富佐丸」も全滅。船長は旧安田家の前隣りの森さんだった。)小学校の岩貞先生が作った歌を時々歌った。「時は10月 秋深く 故郷遠く 三崎沖 行く手を阻む 台風は 恨みぞ深き パトリシア」

 

④父の作った通知簿。

 次兄の安田安彦さんの遺品として小学校時代の通知簿が仏壇に保管されている。昭和11年3月27日付となっている津呂尋常小学校高等科一年の通知簿。今で言えば「オール5」。父が担任だったが数字ばかりで通信文を書く欄はない。(父の作った通知簿を初めて見た)

善助さんはそろばんを習った。「よく噛んで食べろ」「味噌汁は三杯飲め。バカの三杯汁と言うのは嘘だ。こればあ栄養のあるもんはない」と教わったらしい。

おばさんは松本先生に裁縫を習ってその道の達人になった。松本先生は「ブルさん」と呼ばれていた。僕にもかすかな記憶がある。

父は昭和7年(1932年)から27年まで津呂の学校(今の室戸岬小学校と旧室戸岬中学校)の教員(戦後は校長)だった。室戸岬の慰霊碑に刻まれている父の生徒だった人の名前は百数十名にのぼる。いつの頃からか自分は戦犯だといっていた。前途ある青年を侵略戦争に送った責任について語り、平和教育の大切さを説いた。安彦さんの姿も思い浮かべていたのか。

⑤海の男

戦後はマグロ船(僕の伯父の船)の漁労長をした。漁獲に恵まれた。その後は水産庁の取締船などに乗った。去年の津波で壊滅した三陸の漁港の惨状を見るのが耐えられないという。

4時前においとました。またお会いできる日まで達者でね!

宿泊は三浦海岸の「マホロバ・マインズ 三浦」。

食後「歌声サロン」に寛いだ。懐かしい歌・新しい歌‥。昔の「歌声喫茶」によく似た歌の広場。リードボーカルのお姉さんが可愛い。

 

 マホロバ・マインズ 三浦

  ●http://www.maholova-minds.com/index.php