川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

 20日(月)深夜  ニュースJAPAN(フジ) 

2010-12-18 09:56:48 | 父・家族・自分
昨日は暖かい晴天で風もありません。午後、自転車で川島町のIさんのお宅に向かいました。Iさんは妻の中学校時代(千代田区立錬成中)の同級生です。家庭菜園で作った野菜を時々届けてくれます。おかげで新鮮で美味しい野菜料理にありつくことができます。(近所のTさん、Kさんなども同様です。長屋付き合いのありがたさです)。

 妻は原爆の図・丸木美術館が制作・販売中のカレンダーを届けることにしました。ささやかにすぎますが「ありがとう」の気持ちだけは伝えたかったのです。

 ● 原爆の図・丸木美術館2011カレンダーhttp://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/shop/2011calender.html

 越辺(おっぺ)川の土手の上の道は久しぶりです。今年もシベリヤから白鳥がやってきていました。

 ●http://pub.ne.jp/sakura0515/?entry_id=3354377

 新潟は今日も寒い雪空かな。太陽の恵みに感謝あるのみです。日曜日あたりに恵美ちゃんに預けっぱなしの順子号に乗って荒川を一年ぶりに下ってみるか、な。

 ところで先日取材を受けたTV番組の放映日時が決まったそうです。20日(月)の24時(21日零時)あたりです。フジTVのニュース番組の時間帯に放送される「ガン医療の現場」というシリーズものです。数分で終わってしまいます。

 この番組を制作中のスタッフは前に「C型肝炎」にかかわる優れた番組を作っています。どんな風に僕の事例が紹介されているのでしょう?

 深夜まで起きている方がおられたらご覧になってください。一番危ういのはこの僕です。

 ●ニュースJAPAN(フジ) http://www.fujitv.co.jp/b_hp/livenews/

 ●「ガン医療の現場」⑤http://youtubevideo.isgoodness.com/watch/video/id/HFgir8Sn2Hw

追慕・追悼

2010-12-17 04:38:28 | 韓国・北朝鮮
「あの日を忘れない!新潟港追悼集会」に参加された藤田さんが一文を寄稿してくれたのでそのまま紹介します。藤田さんは14日、埼玉から車で駆けつけてくれました。



  追慕・追悼   藤田勝久


 12月14日、午後1時半より、新潟西港中央埠頭にて追悼式が

行われた。
 
  51年前の1959年12月14日、午後2時9分に清津港に向け

船は出港して行った。

 その時刻、2時すぎに51年後の埠頭で「アリラン」を絶唱する女性は

オペラ歌手、田月仙さんである。

 彼女の声は、港の緑青色の冷たい波間を越えて港外遥か清津に

届くかのようであった。

 Iさんと話をする。

 「あの日、この港から船に乗りましたよ。 8歳でした。 何も分らず

はしゃいでいましたよ。 一家、10人で行ったのですよ。」

 坂中英徳氏が話をしている。

 「亡くなる前、日本婦人は、頭を日本に向けて埋葬するよう遺言した。」と。

 Iさんは言う。

 「うちのかあさんも、同じこと言いましたよ。 だけど、頭を日本に向けた

 ら見にくいと思って、こういう風に斜めにして、日本が見えるように埋葬しまし

 た。」

 彼は、朝見かけた人が夕方には死んでいる1997年の大飢餓の時代に

 妻子を連れて脱北する。 2年後、ロシアを経て新潟空港に辿り着いた。

 港に来て埠頭に立ち寄ったが、その日、新潟は猛吹雪で彼の子供は必死で

彼の服を掴んで歩いていたという。

 軍役10年を勤めあげ頑健には見えるが、もう59歳、今後の平安を祈らず

 には いられない。

 Iさんは言う。

 「2,3年のうちに、あの国は解放されますよ。 間違いないですよ。」と。


(蛇足)脱北してきたAさんは「日本」は遺言でも禁句だから実際は「東海(トンへ)」と言ったとのことでした。「東海」は日本海を指す朝鮮語です。(けいすけ)




 2010・12・14新潟港追悼集会

2010-12-16 10:59:23 | 韓国・北朝鮮
 12月14日(曇)

 弥彦神社前の宿を出て日本海に沿った道を新潟に向かう。角田岬灯台に登ると崖の下の方に遊歩道が見えたので行ってみる。押し寄せる荒波が恐ろしいほどだ。

 ●角田岬遊歩道http://blogs.yahoo.co.jp/nttqm533/49041882.html

 昼食をとったレストランは昔の副知事公邸の跡だという。すぐ近くに新潟市立寄居中学校があるので訪ねてみる。拉致から30年以上がたっているので学校も環境もすっかり変わってしまったのかもしれないが…。

 ●横田めぐみさん・寄居中学校http://sukuukaigunma.tuzikaze.com/report/album/20061209panel/20061209panel-01.htm

 一時過ぎに新潟港中央埠頭に到着。今日の追悼集会の司会役を仰せつかっているので次々と到着する方々とあわただしく打ち合わせ。

 幸いなことに曇り空、風もそんなにはない。1時半・定刻に開会する。

 
 第2回 あの日を忘れない新潟港追悼集会

  開会の挨拶 坂中英徳(移民政策研究所所長)

  追悼の辞  呉 ユンビョン(移民政策研究所・生活指導員)

  読経    若麻績敬史(平和を願う僧侶の会)
        古田幸隆 (平和を願う僧侶の会)

  歌唱    田 月仙  「アリラン」「山河を超えて・高麗山河わが愛」
           
        朴 保   「イムジン江」「もし川が話せたら」

  日本政府への要請文発表   坂中英徳

  閉会の言葉   鈴木啓介


 信濃川の河口を正面遠くに見る埠頭での追悼法要。両師の読経のすごさは去年も紹介したが今回は田月仙(チョン・ウォルソン)さんの歌声が加わった。空気を震わせて北の空に届いたに違いない。

 ●「山河を超えて」http://www.iaw.co.jp/wolson/CD/koryo/KoryoJ.htm


 追悼集会を報じる新聞記事。

 北朝鮮帰還事業51年 「日本人妻らの帰国を」政府に要請へ 新潟港で集会 /新潟

               (毎日新聞 12月15日(水)12時6分配信)

 在日朝鮮人と日本人妻ら9万3340人が北朝鮮に渡った帰還事業の開始から丸51年を迎えた14日、脱北者の支援に取り組む「移民政策研究所人道移民支援センター」(東京)は、帰還船が出発した新潟市中央区の新潟西港中央ふ頭で集会を開いた。高齢化した日本人妻らの帰国を早期に実現させるため、日本政府に要請することを確認した。
 帰還事業は1959年12月~84年7月、日朝両政府の後押しで行われた。約6840人は日本人妻とその子どもら日本国籍を持つ人だったが、消息不明の人も多い。
 集会には肉親が帰還した在日コリアンや脱北者ら約30人が集まり、再会を果たせぬまま亡くなった帰還者を追悼。脱北者の60代女性は日本海を眺めて涙を流し「日本人妻は高齢で、もう時間がない」と語った。
 同研究所の坂中英徳所長は「日本人妻の永住帰国を日朝交渉の場に乗せれば、こう着状態に陥った日朝関係を打開する糸口になる」とする菅直人首相にあてた要請文を読み上げた。【黒田阿紗子】12月15日朝刊

 ●出典http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101215-00000085-mailo-l15

 行きあたりばったりの司会進行だったがほぼ予定通り充実した追悼集会にすることができた。大阪などから来られた脱北者もおられた。家族を「北」に残したまま日々を送る人々の心の内を思うとのうのうとはできない。

 佐渡からのフェリーが入港してくる姿が見えた。いつの日か、必ず、北朝鮮帰国者や日本人妻を載せた宝船が入港してくる。その日を一日、一刻でも早めるために力を合わせよう。北朝鮮で無念の死を遂げた数知れない人々の霊にそう誓って、閉会とした。

弥彦だより

2010-12-14 08:58:55 | 出会いの旅

12月13日(月)曇りのち小雨

 燕三条で降りて娘の友人の墓参り。三条の山間の寺におつれあいとご両親が案内してくださる。30を過ぎたばかりの早世である。この日、お連れあいは東京からわざわざ来てくれたという。夫の故郷に愛着を感じ始めるようになったころに逝かれたのであろう。「川越にも来てね」と声をかけてお別れする。

 信濃川分水の広大な風景の中をさまよったあと、獅子が鼻というところで日本海の風景を楽しむ。曇り空で佐渡はみえない.。

 

 宿についたあと、弥彦神社に参詣。宿のご馳走攻めに降参。「みのや」。環境も風呂も食事も言う事なし。

今日はこれから新潟港へ。小雨模様で弥彦山にたちのぼる朝もやが美しい。

 「新潟日報」に今日の追悼集会を主催する坂中英徳さんの記事が出ています。「北朝鮮 日本人妻・残留日本人問題」「悲劇風化させるな」。


土佐高校・「さんえいち」

2010-12-13 03:59:56 | 友人たち
 12月11日(土)晴れ 

 暖かい一日だった。2時から高校のクラス会。

 僕が卒業した土佐高校は高知市にある私学で僕ら64名は3年間「H組」だった。だから卒業時につくった文集に「さんえいち」と名前を付けた。いつの頃からだったか、HR担任の竹村一水先生の名にちなんで「一水会」なる名の関東地方在住者のクラス会を開くようになった。

 今回は僕が幹事ということになったので「卒業50年記念・古稀祝賀」と銘打って「銀座麒麟」で開催することにした。大半の人とはメールで連絡を取り合った。関東地方在住者15人のうち10名と関西から前田くんが出席してくれた。

 旧知の間柄でたまには会っているが一人一人をそれほど理解し合っているわけではない。5時までの3時間の間に11人がそれぞれに今を語って交流した。

 親の介護と自身の闘病の話が多いのは当然かもしれないが、中川くんの癌研に世話になる人が僕を含めて5人にもなるのには驚く。

 益弘くんが父上の歌う「南国節」のレコードをもってきてくれた。「南国土佐をあとにして」の元歌だ。伊野部くんが複製して聞けるようにしてくれるという。

 最後は「雪の降る街を」歌った。

 1960年2月、体育館での謝恩会でHホームは全員で此の唄を歌った。僕はこの謝恩会の企画・司会を担当したのでよく憶えているのだが忘れてしまっている人がほとんどのようだった。一番と三番を合唱、二番は益弘くんが独唱してくれた。

 ●雪の降る街をhttp://www.youtube.com/watch?v=RRTe8c25HH0 

 50年後に同じように歌った。益弘くんの独唱も50年ぶりに聴かせてもらった。彼は今各地の公会堂などで老齢者が喜ぶコンサートを企画・開催する活動を続けているという。

 「銀座麒麟」は僕の生徒だった松島徹くんが料理長を務める店だ。去年の彼らの同窓会では話に夢中になってほとんど料理を食べられなかった。今回は心してしっかり味わった。美味い。是ならみんなも満足してくれたことだろう。
 宴会の合間にロシア美人のお連れ合いにも会わせてくれた。うれしさこの上なし。

 ●松島徹くんhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/53334983db7d0955cbba88d6e36e492a 

 山崎くんに「さんえいち」のコピーを頼まれた。帰りの電車の中で「人魚の歌声」と題された彼の文章を読んだ。

 幼い頃、海辺の村で交遊した知恵遅れの女性との「純愛」を回想した名文だ。「我がいとしの人魚のお恵に捧ぐ」という言葉で「完」となっている。今は高名な舞踏家の心の奥底に生きている秘密の愛を知ったような気がしてうれしかった。その村が窪川町興津であることは今日のスピーチで知ったばかりだ。

 入試の直前に最後のHR委員が中心になって作った文集『さんえいち』。1月30日に発刊記念祝賀会をやった。この文章を収めることが出来ただけでも良かったなあと思った。

 編集委員5人のうち溝渕くんは早くに逝った。ブラジルに移民した坂田さんには再会がかなわないままだ。

 ●山崎泰くんhttp://www.kk-video.co.jp/sakuhin/framenco/yamazakiyasushi.html
 

12月14日は新潟港追悼集会「あの日を忘れない」へ、どうぞ!

2010-12-13 03:27:37 | 韓国・北朝鮮
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 今日はこれから新潟に出かけます。妻と娘との三人連れです。明日、新潟港中央埠頭で行われる「あの日を忘れない」新潟港追悼集会に参加するのが主要目的です。

 1959年の12月14日、北朝鮮帰国第一船がこの埠頭を発ったといいます。僕は高三でした。51年が経ちました。脱北してきた家族と知り合って新潟港の埠頭に立ちます。

  ●第2回 「あの日を忘れない」新潟港追悼集会
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/076ed1ca77bfe46fc4e7169107042c16


 新潟に住む方がもし読んでくださったらどうぞお出かけ下さい。

 今年は多忙な皆さんとは別に一日早く出て、娘の友人の墓参りに同行したり、弥彦神社に詣でたりします。帰りは水曜日になります。雨になるか、雪になるか。どんな出会いが待っていてくれるか、わくわくする気持ちもあります。



堀江和夫医師の「お詫び」

2010-12-11 06:19:39 | 父・家族・自分
 左肺摘出手術から5年を迎えて先日駄文を書き、昔の記事「なぜ、患者をくるしめるのか」を紹介しました。

 ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/9811d12a9ba9ef348f67d61b2bf73c62

 その際、僕は「励まさないで、痛めつけているのは前川和彦関東中央病院長とその一団だけです。医者だけが患者を深く傷つけて知らん振りをしているのです。」と書いているのですが、今回改めて当時やりとりした文書類に眼を通してみてその感を深くしました。

 公立学校共済組合関東中央病院の下請けの医師として僕のレントゲン写真を読影してアヒルの卵大にまでなっていた癌を見落としたのは堀江和夫という医師です。これだけのものを「見落とす」ということは到底あり得ず、「見なかった」のに「正常範囲」と報告したとしか考えられません。

 その堀江和夫医師の「お詫び」なる文書が出てきたので紹介します。

 レポート用紙一枚に書かれています。


             お詫び

  鈴木啓介様


 この度は医者としてあってはならない大きな過ちを犯したことに対し、深くお詫び申し上げます。

 日常的には、胸部間接写真に異常があれば、報告書に記録し、かつ前回との比較を指示しております。

 今回の異常発見後、前回の写真を見せられて、眼を疑いました。50年に余る読影歴を無にする大汚点で、残念至極に存じます。前回の報告書が何故正しく伝達されなかったのかは今からでは調べようもありませんが、今後このような事態をさける為には、読影者を複数にするしかないと思います。

 ただ唯一の救いは、名手の御力で治療の成功を見たことで、今後体力の恢復を測り、余生を十二分楽しまれるよう切に願ってやみません。

   2006,1,13    

             東京都板橋区徳丸●-●ー●(電話番号)徳丸診療所

                  堀江和夫 印


 堀江医師がやったことはこの「詫び状」(レポート用紙を「状」というのかな)を人に託し、2006年6月20日ただ一回設定された話し合いの場で遠くの席で頭を下げただけです。

 この「お詫び」を読者はどう思われるでしょうか。ぼくには自分の犯した重大な過誤を思い知る力がこの方にはないとしか考えられません。

 「前回の報告書が何故正しく伝達されなかったのかは今からでは調べようもありません」などと責任を他者に転嫁して平然としています。

 「余生を十二分楽しまれるよう切に願ってやみません。」 よくも言えるものです。

 あきれ果てて、たった一回の機会に「オレだったら医師免許を返上するよ」という僕の友人の医師の言葉を伝えたのですが「50年に余る読影歴」を誇る「先生」には「蛙の面にションベン」だったのでしょうか。この5年、何の音沙汰もありません。

 ちなみに僕からの手紙を無視して弁護士丸投げの関東中央病院の前川院長さんは立派なご挨拶をなさっているようです。

 ●http://www.kanto-ctr-hsp.com/midorinohiroba/201001.html

「変化をもたらす真の原動力は市民の活力、国民の声だと思います。論理的な思考過程を備えて、健全な市民感覚を発揮し、自らの健康と豊かな老後を求める市民の力こそが変革をもたらすものです。よりよい医療への変革を求めて少しずつでも前進するためには、皆様のご理解とご協力が是非とも必要です。」




佇む川鵜の群れ

2010-12-10 17:31:49 | 川越・近郊
今日は午後になっていつもの通り、川越公園の河川敷の森を歩きました。見たことがない珍しい光景を目撃してしばし眺め入りました。

 川鵜の大群(数十羽)が入間川の流れに佇んだまま微動だにしないのです。みんなが同じ方向を向いています。

 先客が一人。この大群が鮎を食い荒らす話をしてくれました。なるほど。

 ●川鵜の被害http://www4.famille.ne.jp/~okazaki/kawau.htm

 昨日、相模川で鵜の大群を撮影した方がおられます。今日僕が目撃した群れはその一部かもしれませんね。

 ●川鵜の大群・相模川http://blog2.yuyu-photo.com/?eid=923709

 河川工事で流れに仮設橋が架けられています。工事が休みのようなのでこの橋を渡って対岸をどんどん上流に歩いてみました。結局、八瀬大橋に出たので、この橋を渡り、公園に帰りました。

 ふだんの何倍かの散歩をしたことになります。携帯の歩数計だと一万歩余り(5,4km)です。川鵜の大群の姿はどこにも見えなくなっていました。

5年が経ちました。

2010-12-09 17:38:44 | 父・家族・自分
 昨日は珍しい体験をしました。某TV局の撮影班が我が家にやってきて丸一日取材を受けたのです。きっかけは「川越だより」の記事です。
 
 どんなことになるのか? もし、本当に放送されることになったらもちろん事前にお知らせします。OAの予定は20日が第一候補と聞いています。

 ブログを通じて出会った友人たちが何人か出来、僕の生活を豊かにしてくれています。でも、TVの制作者と出会うのは初めてです。さてどんな番組なのでしょう。楽しみにしていてくださいね。(笑い)


 今日は12月9日です。2005年のこの日、僕は癌研有明病院で左肺切除の手術を受けました。執刀医は中川健医師です。今はこの病院の院長という重責を果たしておられます。

 2年後に右肺に転移し、抗ガン剤治療を余儀なくされましたが、幸いにも薬効があり、今こうして元気に日々を送っています(手術後に5年生存率は30%と言われました)。

 家族はもちろんのことですが親身になって励まし続けてくれた友人の皆さんに改めて感謝申し上げます。手術のため入院する前夜遅く、激励の手紙を自分で我が家のポストに届けてくれたMさん、手術当日、一日病院に来て見守り続けてくれたカツヨシさん、ありがとう。

 これから先のことは「神のみぞ知る」です。生かされて在る限り、皆さんと交流させてもらって少しでも社会の一員としての責を果たしていきたいと思います。どうぞよろしく。

 この間に書いた記事の中からいくつか、思い出すままに再掲します。

 
 ●「N先生と僕の闘病」
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/7bf443ca304c1aceeb73b160e6105751?st=1

 ●「カエルの絵」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/212b1f6099c96fea6ee87db5426131cc

 ●「なぜ、患者をくるしめるのか」
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/9811d12a9ba9ef348f67d61b2bf73c62

1941年12月8日

2010-12-08 07:00:43 | 政治・社会
1941/12/08  日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸を開始する。

       日本時間午前3時19分(ホノルル時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ真珠湾空襲を開始する。日本時間午前4時、米英に宣戦布告の詔勅を発表し、「大東亜戦争」の開戦となる。 イギリス、アメリカが日本に宣戦布告する。


 あれから69年が経ちました。69年前(昭和16年)の日本人になったつもりで当時の様子を見て、自分ならどう思ったか、どう行動したか、考えたり、想像したりするのも意味がある学びだと思います。

 そして、21世紀の今を生きるものとしてこの戦争をどうとらえるかはますます重要な意味を持ち始めています。東アジアの国際情勢に大きな変化が生まれようとしており、日本国民も冷戦期のようにのほほんとはしておられなくなってきたのです。

 今の時代をどう生きたらよいのか、時代の動きを見つめ、歴史に学んで誰もが自分の考えを確立し、行動する主権者になることを求められているのです。

 69年前と違うところは国民が主権者、つまり、民主主義の社会になっていることです。言論や集会の自由も一応は確保されています。

 しかし、マスコミと権力の癒着はただごとではなく、「世論」は絶えず操作され、捏造されているように見えます。民主主義と人権は健在だとはとても言えません。「日本」は危ういというほかはありません。私たち一人一人のあり方が問われる、今です。


 まずは東条英機首相の開戦直後の演説です。この演説を聴いて当時だったらどう思ったでしょう?今はどう考えますか?

  ●「帝国米英に宣戦」日本電波ニュースhttp://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001


  ●開戦の詔勅http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sennsennnosyousyo.htm

西伊豆・井田の海

2010-12-07 11:10:27 | 出会いの旅
 今日は西伊豆の海の魚たちの様子を撮ったすばらしい写真を紹介します。ゆっくりごらんになって下さい。

 ●DIVERSHIGH http://aquaspace.blog1.fc2.com/blog-entry-1757.html

 凄いタカベの群れです。タカベといえば大島に住んでいたころ、「タカベのせごし」を時々食べさせてもらいました。こんな群れをなして泳いでいるのですね。

 ●タカベのせごしhttp://blog.goo.ne.jp/yoshikawasuisan02/e/85d75ab95bd66c3f01e2164ca64b2689

 遠い昔、同僚の大木さんの実家で自転車を借り、大瀬崎から西伊豆をサイクリングしたことがあります。山道のような道路を下って井田に向かうところに遺跡があリました。今回(11月19日)40年ぶりにその遺跡を見に井田に連れて行ってもらいました。

 ●井田松江古墳群http://wiki.livedoor.jp/ksg_recon/d/%B0%E6%C5%C4%BE%BE%B9%BE%B8%C5%CA%AF%B7%B2 

 西伊豆でももっとも辺境の村ですが今は立派な道路が通っています。海岸の天野荘という民宿・食堂で昼食にしたのですが、主人の喜一朗さんがこのブログを紹介してくれたのです。
 喜一朗さんはサラリーマン生活を卒業して生まれた村に帰り、民宿のほか「井田マリンサービス」を経営しています。子どもの時には見えなかったこの村の魅力を再発見して村おこしにも尽力しているようすです。

 僕はもうこのきれいな海に潜ることは出来ません。それでもまた機会を作って訪ねたいと思います。

 ●井田マリンサービスhttp://ita-ms.com/log.htm

腐敗した検察 へ闘争宣言

2010-12-06 22:20:23 | 政治・社会
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 昨日、午後1時から日比谷野外音楽堂でこんな名前の付いた集会に参加してきました。


「■検察の裏金問題を国民の目に明らかにしその責任を追及し裏金の返還を求める。

 ■村木事件の検察の責任を追及する。

 ■取り調べの全面可視化、押収証拠物及び残記録の全面開示を要求する。

   12・5 市民の連帯の会」

 検察庁の裏金問題を追及したため、別件逮捕・投獄された三井環さん(元・大阪高等検察庁公安部長)が自ら実行委員長になって呼びかけた市民集会です。

 検察の宣伝機関であるマスコミが無視する中でインターネットでつながった人々が集ったのです。人数は発表されていませんが、広い音楽堂をそれなりに埋めていました。

 やりたい放題をしてもその責任を問われたことのない検察に対する市民の怒りが三井さんの音頭取りでこの日ようやく政治的な力となって表に出たと言えるでしょう。その意味では画期的な集会です。スローガンに人々の思いが端的に表現されています。


●スローガン

「大林宏検事総長よ、自ら使った裏金を返せ」

「村木事件で事前決済した最高検・伊藤次長検事は辞職せよ」

「前田主任検事、佐賀副部長、大坪特捜部長だけを起訴したトカゲのしっぽ切りはやめよ。最大の責任は検察トップではないか」

「検察よ、お前は何様なんだ。自分自身を問い直したらどうだ」

「裏金を国民に返せ、おまえ達のやっていることは犯罪だぞ」

「冤罪で人生や生活をめちゃくちゃにされた人たちに謝れ」

「法律は国民生活の基本中の基本だ、正しく運用しろ」

「私たちは、検察権力がやったことを決して忘れないぞ」

「菅総理よ、法務・検察の犯罪を隠蔽するな」

「原田明夫・元検事総長は、国民に大嘘をつくな」


 僕は演壇近くに席を取って次々に登壇する方の話に耳を傾けました。

 三井環さんの挨拶。流暢な演説とはほど遠い、むしろ朴訥な感じの話っぷりに 親しみを感じます。出世街道を歩いていたはずの方が人々の信頼を得て今このような形で集会の主催者となり、検察に闘争宣言を突きつけています。自分の生き方に確信を持った人の喜びの表情を見たような気がします。

 鈴木宗男さんの声のメッセージ。

 冤罪を無くす為にも取調べの可視化は絶対必要である。何よりも大阪地検特捜部の大坪特捜部長・佐賀副部長が自分達の事件では可視化して下さいと言っている事が一番の証明ではないか。
 取り調べる側に居た時は可視化に反対し、逆に立場が変わり取調べを受ける側になった時「可視化」と言うのはとってもわかりやすく正直な話しではないか。狙われたら明日は我が身の思いで衆参国会議員は与野党の分けなく、民主主義の危機という観点から一体となって早急に取組んでいただきたい。
 収監前に心からの願いである。私は発言の場、発信する機会があったが権力にうちひしがれ人生、挫折や失望を味わい自分の主張をできない人が多くいる事だろう。そうした人の為にも私はこれからも「人生、生きていればよい事がある。いや逆転もあるぞ」というメッセージを発信し行動をしていく。

  参考●ムネオ日記http://www.muneo.gr.jp/html/diary201012.html

 このあと、森ゆう子(民主党参議院議員)、保坂展人(社民党前衆議院議員)、木村三浩(一水会)、門間幸枝(袴田さんを救う会)などの「呼びかけ人」の簡潔で力強い挨拶が続く。
  保坂展人さん挨拶●http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/ee5150d5796d9175bcfc473f21e3c61e

木村三浩さん挨拶・集会の写真●http://ameblo.jp/issuikai/ 


 座っていると足が冷えて来て心配したがデモ行進になってみんなのあとについて歩くと身も心も快適。壇上の保坂くん以外は知る人は誰もいない集まりで、僕は誰とも話をせず、ただ黙々と歩くだけだったが、心は温かかった。三井さんをはじめ、ここに参加している人々と思いを共有している充実感があった。

 日比谷公園の解散地点で三井さんが来年になったらまたデモをやりましょうと元気に挨拶をされていました。人々のど真ん中にいてうれしそうです。僕もまた歩きに来ます。

●12・5集会のライブ中継http://www.apfnews.com/whatsnew/2010/12/post_82.html

頑張れ、宗男さん

2010-12-05 09:40:24 | 政治・社会
 いよいよ初冬の気配かな。昨日、紅葉の名所だというので深谷の「緑の王国」に連れて行ってもらったのですが、楓の梢にもう葉は見あたりません。ナンキンハゼという名の木が青空にそびえ、白い実を一杯につけています。

 お隣に埼玉県花植木流通センターがあり、沢山の植木を眺めながら昼食としました。こちらでは飯桐(南天桐)の巨木に赤い実がなっています。

我が家の一応庭では白萩がわずかに花を残しているほかはことごとく冬支度、ミズキもあと数葉を残すのみです。

今日は天気も良いのでこれから東京の日比谷公園に行こうかと思っています。三井環さんらが主催する検察批判の市民集会とデモがあるとほんのさっき知ったのです。

 鈴木宗男さんは明日、収監されると聞きます。今日の集会でメッセージが紹介されるとか。逆境にあっても力強く闘い続ける姿に敬意を感じます。集会に参加して間接的であっても共感する市民が居ることを示してきます。

 ●宗男さん・十勝http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/201204039.html
 

 ●12月5日に三井環さんらが検察批判の集会とデモhttp://www.the-journal.jp/contents/shinoda/2010/12/125.html

肺ガン「外科医の警告 早期発見の必要性」

2010-12-04 16:55:51 | 父・家族・自分
フジTVの「ニュースJAPAN」(23時30分~)で「がん医療の現場」というシリーズが放送されていることを知りました。

 このところ肺ガンの治療がテーマになっており、11月29日(月)には「外科医の警告早期発見の必要性」、30日(火)には「レントゲン検診の限界」が放送されたようです。

 この時間にTVを見るなどということは僕にはまずあり得ません。しかし、自分にも深く関わることですから関心はあります。

 僕の場合は「レントゲン検診」でOKと診断されたのを信用したため命の危機に直面させられる羽目(左肺摘出・右肺への転移)になってしまいました。

 肺ガンはなんと言っても早期発見、早期切除が肝要です。僕のような目に遭わないためには集団検診の「レントゲン検診」を信じてはなりません。そこには様々な問題が潜んでいるのです。

 先日放送された番組の紹介記事が見つかったので転載させてもらいます。問題の所在を知っていれば災いを小さくすることは出来ます。

 業界の人々の利害に関わるせいか、なかなか表には出てこない問題にきちんと焦点を当てようとしている制作スタッフに敬意を感じます。



 
「外科医の警告 早期発見の必要性」

  肺がんを完治させる最先端の外科手術で鍵を握るのは「早期発見」です。

がん医療の現場で、肺がんを完治させる最先端の外科手術ですが、鍵を握るのは「早期発見」です。

 男女をあわせたがん死亡率では、肺がんが1位となっていて、この肺がんを早期発見する目的で、レントゲン検診が行われている。
しかし、実情を最もよく知る現場の外科医は、「レントゲンですと、検診していても、早期で見つからない」と話した。
 
 日本人の多くが知らないレントゲン肺がん検診の現実、がん医療の最前線から、1人の外科医が警告する。


 虎の門病院呼吸器センター外科部長の河野 匡医師の元には、全国から肺がん患者が手術を受けに集まってくる。
 5年生存率の世界平均およそ70%に対し、河野医師は90%以上となっている。
しかし、この手術を受けるためには、欠かせない条件がある。

 河野医師は「早期発見しないと助からないですね。転移しないうちに見つけて手術するっていうのが、一番のポイントですね」と話した。

 喫煙歴40年の男性は、肺気腫にかかり、その検査で偶然、右の肺におよそ2cmのがんが発見された。
 肺気腫と肺がんの男性(60代)は、「なんていうのかね、もうこうなってみてやっぱり、たばこってのは、こんなにおそろしいものはないって痛感したね」と話した。

 一般的な肺がんの手術では、20cm前後を切開し、ろっ骨を押し広げるか切断して、執刀医が手を入れるスペースを確保する。

 患者は、強い痛みなどの後遺症をともなうことが多い。
そこで河野医師は、アメリカに渡り、患者の負担が少ない内視鏡を使ったVATS(Video Assisted Thoracic Surgery・バッツ)を独自に確立させた。
VATSは、1cm前後の穴3カ所から、小型カメラの内視鏡と手術器具を入れ、モニター画面を見ながら行う手術で、傷口が小さいために後遺症が少なく、回復が早い。
しかし、マジックハンドのような器具で、複雑な処置をする高度な技術が医師に要求される。

 内視鏡の映像を目に、河野医師は「この黒いのは、たばこ(の影響)ということになる。こういう黒いの。(健康な肺の人にはない?)こんなのはないですよね、たばこを吸わない人は」と話した。
男性のがんは、右肺の下葉と呼ばれる部分にあるが、肺と胸膜の癒着がひどく、これをはがす必要が出てきた。
VATSの場合、拡大映像を見ながら作業できるため、肉眼よりも安全で確実だという。
河野医師は「この手術っていうのは、目が胸の中にあるような感じなので、癒着をはがすには有利なんですよね」と話した。

肺がんは、リンパ節から全身に転移するケースが多い。
そこで河野医師は、まずリンパ節を取り除く方針をとっている。
河野医師は「黒く見えるのがね、これが肺のリンパ腺なんですよ。万一、リンパ腺にがんが転移していても、一緒に取れちゃう」と話した。

そして、がんがある右肺の下葉部分を切除して、穴を3cmほどに広げ、がん細胞が周囲に飛び散らないようビニールパックで包み、患者の体内から取り出す。
河野医師は「ここのところが、がんのところですね。ここのところです、ちょっと盛り上がってるでしょう」と話した。
2時間40分で手術が終了し、それから6時間後、すでに男性患者は夕食をとっていた。
回復の早さが、VATSの最大のメリットだという。


河野医師は「癒着も多くて、手術としては、どちらかというと大きい手術だったかもしれないですけど。回復も早くて、順調にいけると思いますね」と話した。
手術から6日後、男性患者は、自分の足で力強く歩いて退院していった。
肺がん手術にVATSを導入する病院は増えているものの、まだまだ技術格差が大きく、右肺に早期のがんが見つかった女性は、安全性に定評のある河野医師を頼ってきた。

河野医師は「今回の病変なんですけれど、レントゲンでは、はっきり映らない。くわしく見ていただくのに、CT(コンピューター断層撮影)の検査というのをしていただいております」と話した。
女性はCT検査で、左の肺にも小さながんが見つかった。
このような場合、従来の手術では、2回に分けて行うのが基本だが、これに対し、体に負担の少ないVATSは、同時に手術が可能だという。

手術からおよそ1カ月、リハビリに励む女性の姿があった。
2つの肺がんを摘出した女性は、「あっ、よみがえったんだなという感じですね。階段を駆け上がったら、苦しいんじゃないかと思うんですけど、やってみます?」と話した。


早期なら短期間で完治できるようになった肺がんだが、手術の対象にならない患者の5年生存率は、わずか数%だという。

河野医師は、レントゲン検診だけでは、早期発見に不十分であると警告する。

河野医師は「きょう、外来で見えた方もですね、2月に健康診断でなんともないと言われたと。9月にCTを撮ったら、5cmのがんなんですよ。見落としだと思いますね。レントゲンは、それ自体、ある程度の限界があって。レントゲンっていうのは、胸から背中までが、ずいぶん重なって見えてしまうわけですね。前側のろっ骨と背中側のろっ骨と鎖骨が全部、重なって見えたりします。こんなところにがんができたって、わからないんですよね。運がよければ見つかりますし、運がよくないと見つからない」と話した。

早期発見が命の明暗を分ける肺がん、生き残るために知るべき現実がある。
(11/30 00:58)

●出典http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00188784.html