川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

牧水と神子元島 須崎の恵比須島で

2012-01-15 06:04:59 | 出会いの旅

 

 

1月11日(水)☼                     9時半頃から城ヶ崎海岸自然探求路を歩く。蓮着寺から海岸沿いのUP/DOWNの激しい道を6Kmぐらい。伊豆高原の駅に着いたのは12時半ごろ。よたよた、ゆっくり、ゆっくり。普通の人の2倍くらいの時間が掛かったかな。それでも歩き通すことができてよかった。すこし、自信を回復したか?歩きなれた道だが照葉樹林の植生も豊かで興味の尽きない3時間だった。

1月12日(木)☼                                                                               朝湯に入ると周りの木立は雪景色。元気な時だったら雪見酒もいいなと思うかな。どんどん晴れ上がってきたので下田の須崎の遊歩道を歩きに行く。ここもUP/DOWNは激しいが神子元島(みこもとじま)を遠望する景観はなかなか。何年か前に世話になった海上保安部OBの方の別荘によってみたが留守だった。今回はここから裏道を通って須崎港に引き返す。案内板を見たら「恵比須島」とあったので行ってみた。        

小さな島だが大いに気に入った。岩の形状が面白い。展望台のそばに若山牧水の歌碑がある。

 

友が守(も)る 灯台はあはれ わだなかの 蟹めく岩に 白く立ち居り 

 

「若山牧水は大正2年10月28日神子元島の灯台守である大学時代の学友古賀安治を訪ねる為渡島し、1

週間留った。その折の体験は、80首の大作となって歌集「秋風の歌」に収 められ、又小説「灯台守」や小品

「島三題」の一となった。わが郷土が大歌人によって詠まれたことを誇りとし、永遠に敬慕するよすがとしてそ

の中の1首を碑に刻み、この地に建てることにした。染筆は特に嗣子若山旅人に請うたものである。

                                                  昭和55年6月1日」

出典●http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/ebisujima.html

 

 

僕の枕頭の書『若山牧水 伊豆箱根紀行』(木蓮社・村山道宣編)には小説『灯台守』と歌六首が収められている。この本によれば

牧水が神子元島の灯台を訪ねたのは29歳の時だ。

長男・旅人が生まれたばかりだったが自らの結社の機関誌の資金繰りなどから逃げ出すように東京を後にしたらしい。

『灯台守』を読むと友人に灯台守になることをすすめられて真剣に悩む様子が克明に綴られている。

そうはならなかったが過酷な自然条件のただ中での一週間の生活は牧水の自然観にただならぬ影響を与えたことだろう。

   

 

 船は五梃櫓 漕ぐにかひなの 張りたれど 濤(なみ)黒くして 進まざるなり

 次のうねりは われの帆よりも高々と そびえて黒く うねり寄るなり

これらの歌もこの時の作品。岩礁のおおい難路である。だからこそ神子元島灯台が作られた。いま、恵比須島の牧水歌碑の脇に立ってみても白波の寄る岩礁の向にその灯台は立つ。恵比須島の恵比須さんと神子元島の灯台が地元の漁師たちの心の支えだったとか。納得の行く話である。

 

 

 

 

 


大瀬崎

2012-01-14 11:38:00 | 出会いの旅

昨日午後、伊豆高原での保養から帰ってきました。

伊豆半島はたびたび訪ねるところですが今回も新たな発見?がありました。

 

1月10日(火)☼

 沼津から海沿いの道を大瀬崎へ。手術後に勝義さんや敬宰さんと一緒にドライブした道です。

①大ビャクシンの森

大瀬神社の社叢となっているビャクシンの森には驚くばかりです。海からほとんど距離のないところで何百年も風雪に耐えて来たのです。

 

②大瀬神社の彫刻

 富士山をバックに建つ大瀬神社の彫刻には目を見張るばかりです。龍や獅子、天狗・カラス天狗などが本殿の四周に彫り込まれています。

引手力命(ひきたじからのみこと)神社というのが正しい名前だとのことです。人里離れた岬の一角にあるありふれた神社に見えますがかなりの財力がなければこれだけ豪華な彫刻を施すことは困難でしょう。

 室町時代には熊野水軍の鈴木繁伴が此処に拠ったという館あとがあります。古来、海の神様として駿河湾一帯の人々の信仰を集めてきたのでしょう。

龍と獅子の彫刻 

出典●http://tottokocubtaro.seesaa.net/upload/detail/js/1127ose10.jpg.html

もう40年も昔、池商の先輩同僚の大木薫さんの実家で自転車を借りてこの辺から戸田・土肥・修善寺・沼津とサイクリングしたことがあります。帰ってから大木さんに旅の報告をしたら実家は西浦の平沢だとのことです。

大祭や遠足で小さい頃から大瀬崎にはよく行ったそうです。(僕が室戸岬に行ったと同じようなものかな)。お互い、元気なうちに大木さんを誘って故郷をゆっくり案内してもらう楽しみが湧いてきました。大祭は4月4日だということです。 


富士山

2012-01-10 08:15:55 | 父・家族・自分

1月10日(火)はれ

 沼津の東横インです。

昨日は法政大学富士山セミナーハウスを見学した後、西湖・白糸の滝により、富士浅間神社(富士宮)に参詣しました。

好天・無風でどこからも富士山がマジかに見えます。富士三昧の半日でした。

今日はこれから大瀬崎を散歩して西伊豆経由で伊豆高原に向かいます。


丸木スマ展

2012-01-09 04:17:53 | 映画  音楽 美術など

1月9日(祝)

原爆の図・丸木美術館で丸木スマ展が始まったということです。

    丸木スマ展

 

スマ肖像     おんどりめんどり丸木スマ8枚はがき丸木スマ展●http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2011/2011suma.html

自転車で都幾川をさかのぼって丸木美術館を訪ねるのは僕の楽しみのひとつです。今回のようにスマさんの展覧会をやっているならなおさらのことです。

 伊里画伯のお母さんです。労働に明け暮れて「無学文盲」の人です。70をすぎてから描き始めたといいます。

こんなふうになれたらいいなあ。とは思ってもただ眺めるしか芸のない僕です。

「大きな悲しみを経たからこそ、見えてくる世界がある。どんな状況でも希望を失ってはならない。スマの絵から見いだせるユーモアや喜びが、人々の励みになることを願ってやみません」

 美術館から送られてきたビラの終わりにあった言葉です。

来週には行ってみようと思います。

 2月11日からは「生誕100年 丸木俊 人間を描く」です。

俊先生には親しくお話を伺ったこともあります。僕のようなものにも優しい言葉をかけてくれました。お元気だったら100に成られるとか。

僕の母・直恵はあす1月10日が誕生日です。生きていたら100歳です。俊先生と同い年だったのか。

今日はこれから伊豆高原に行きます。4,5日海辺を歩いてきます。

 


NHKドラマ「開拓者たち」

2012-01-08 17:08:14 | 中国残留日本人孤児

1月8日(日)☼

 友人からの情報です。旧満洲・千振開拓団を描いたドラマ「開拓者たち」が日曜の22時からNHKBSプレミアムで放送されているそうです。

千振開拓団の引揚者が再入植した栃木県那須の千振を「きいちご移動教室」で訪ねたことがあります。今回の連続ドラマ(全4回)ではこの再入植後のあゆみも描かれているということです。

 私たちが訪ねる直前に明仁天皇一家が千振を訪問されて悲劇の歴史をこどもたちとともに学ぶ姿が話題となりました。    

  イメージ 4

                               出典●http://blogs.yahoo.co.jp/yumeproj8864/53132224.html

命日を同じくする人の名が何人も刻まれた墓碑にお参りしました。集団自決の家族の墓でした。天皇一家のみならずこの国に生きるすべての家族が学んでおかなければならない歴史です。

 

若い友人たちに是非見て欲しい番組です。

 と、いっても我が家にはTVを見る装置はなく、出来栄えは?なのです。録画した方がいたら見せてくださいね。

<関連記事>私たちが那須・千振でお会いした星さんの近況が載っている記事です。

 

 

2012-01-05 10:21:08

那須・千振のいま/3 奪われた年月もう返らない 残留孤児の「苦難奔波」

テーマ:残留孤児

2012/01/04 毎日新聞/栃木

 ◇父と暮らす夢かなわず
 「あなたは本当は日本人なの」。1975年夏。星益英さん(69)は中国北東部の自宅で、末期がんの母から出生の秘密を聞かされた。約30年間、中国人の父母の下、実子として育てられた。日本人の父や母、きょうだいの記憶も日本語も覚えてはいない。信じられないし、実感もわかなかった。
   □   □
 旧満州(現中国北東部)での過酷な出来事は星さんの姉省子さん(73)=宇都宮市大和2=がよく記憶している。満州千振(ちふり)開拓団の一員だった父盛(さかり)さんは終戦前に動員され、母と生まれたばかりの弟は戦渦の中、銃弾に倒れた。当時3歳だった星さんは省子さんと2歳上の兄瑞男(みずお)さん、2歳の妹との避難生活を強いられた。「足手まとい」の妹は、周りの大人たちから毒薬入りの水を飲まされ殺された。
 野宿また野宿の逃避行の最中、養父となる中国人男性が現れた。避難していた日本人経営の旅館を訪れ、一番下の星さんを養子に選んだ。省子さんは強く反対した。「『ご飯を食べさせてまた連れてくる』と言ったのに、二度と戻ってこなかった」と振り返る。省子さんと瑞男さんはその後、別の中国人夫婦に引き取られた。
   □   □
 星さんの養父母は、5人の実の子と分け隔てなく育ててくれた。感謝してもしきれない。一方で、祖国と、生きて会えるかもしれない実父への思いも。時は72年の日中国交正常化以来の友好ムードにあった。養父は「お前が帰りたいなら、そうしなさい」と背中を押してくれた。
 81年夏。政府の肉親捜し事業で訪日し、那須・千振に入植していた盛さんと再会した。星さんは「私にそっくり。すぐ分かった」。父も星さんの背中のほくろで実の子と確信した。固く手を握りあった。40年ぶりのぬくもりが伝わってきた。
 中国で結婚した妻と、3人の子を説得し、永住帰国を決めた。半年以上にわたる煩雑な手続きを済ませてようやく82年3月8日、念願の祖国へ向かう。だが、北京への汽車に乗るその朝、自宅に一通の電報が。盛さん急逝の知らせだった。
 星さんは今、盛さんの残してくれた土地で妻と暮らす。3人の子は独立した。別の養父の下で育った省子さんも85年に星さんと再会。落ち着いた暮らしを手にしたが、幼いころ生き別れた父と暮らす夢はかなわなかった。奪われた年月はもう返らない。2人は口をそろえた。「『苦難奔波(クーナンベンボゥ)』。本当に苦難に翻弄(ほんろう)された人生ですよ」【吉村周平】=つづく
■写真説明 帰国直前に亡くなった父の墓に手を合わせる星さん夫婦=那須町豊原丙で

 

「開拓者たち」●http://tv.yahoo.co.jp/program/50862877/

 

 

 


イレッサは中止

2012-01-07 09:00:01 | 父・家族・自分

 

1月6日(金)☼

 9時過ぎに恵美ちゃん宅を「順子号」で出発。王子から飛鳥山の坂を上って駒込へ。闘病中の弘志さんを見舞う。会うのは6年ぶりだがメガネをかけるようになったせいか、風貌に変化がある。食欲もあり、元気そうで何よりだ。来週あたりから再び抗がん剤治療が始まるという。

 本郷通り~内堀通り~晴海通りと都心を縦貫して癌研へ。途中、東大前の馥園による。どなたも変わりない様子だ。

3時前に西尾医師の診断があった。

「イレッサ」の副作用による肝機能障害の状態は薬を半減しても改善が見られない。イレッサの使用は中断するほかはない。肝機能障害の改善を見たら同系統の抗がん剤「タルセバ」に切り替えよう。

  2月にはまた2週間程度の入院となりそうだ。間質性肺炎などの副作用を警戒してのことだ。

新年早々なんとも意気上がらぬことだがこれもまた「運命」。日々をなるべく自然の中において元気をつけていこうと思う。

 

プラタナスの実

 

先日、狭山湖畔の都立狭山公園で丸い実を拾ったらそれはプラタナスの実だった。去年、埼玉こども動物自然公園でちいさなこどもに聞かれてその名を答えられなかった実の正体がわかった。


絵馬「室戸崎の苦行」

2012-01-06 06:21:23 | 川越・近郊

1月5日(木)☼

 さいたま・緑の森博物館に連れていって貰った。地図に「97・11・30」とあるので14年ぶりか。

明るい疎林の中の道を歩く。寒さで歩くのを忘れていたからだがやっと動き始めるようだ。「展望広場」のエノキの巨木は見事だ。

 

帰りに多摩湖(村山貯水池)を一周したあと、西武球場近くの山口観音に参詣。遠い昔に来た記憶がある。娘が赤ちゃんの頃、池商の遠足で来たと妻はいうが‥。五重塔など新しい建物も多く結構賑わっているようだ。

 パソコンで調べてみるとここには弘法大師の生涯を描いた絵馬が奉納されているようだ。室戸岬で修行する青年大師の姿もある。

出典●」http://tencoo.fc2web.com/jinja/yamaguchi15.jpg

 これはイカン。大事なものを見逃したわい。

ぼくの頭のなかでは「空海の修行」と言えば「みくろ洞」である。校歌にも歌われているぐらいだ。

これはまたなんという勇壮な修行風景か。「みくろ洞」前の「ビシャゴ岩」辺に座したのか。

 

 


2012 今年はどこへ?

2012-01-05 10:01:19 | 父・家族・自分

今年行きそうなところ・行きたいところ・行くところ

 ①中国・黒竜江省(ハルビン・方正県) 

  Iさん・Tくんたちに誘われている。彼らの故郷を訪ねる。実現すれば僕にとって哈爾濱は17年ぶり。

 

 ②三陸沿岸(名取~石巻~気仙沼~大船渡~宮古~八戸)

  大震災から一年後の被災地。慶子さんたちのお寺喫茶も訪ねてみたい。花の頃かな。

 

 ③富士山麓(山梨県富士五湖) 

  5月の「きいちご移動教室」の候補地。

 ④種子島・屋久島  ⑤五島列島

  歴史学徒になった妻が行きたがっている。どちらかが実現できるか?

  昨年はできなかった息子夫婦との旅はどうなるか?少しでもこまめに動いて体力をつけてその日に備えておきたい。

 

 


高校サッカー 土佐高校の健闘を讃える

2012-01-03 05:34:22 | ふるさと 土佐・室戸

1月1日(祝)☼

 紹平・弘子夫妻が来て、夕方から新年会。年に一度だけ、家族が揃う数時間だ。

世界情勢に精しい弘子さんが僕の相手になってくれる。働き詰めの日々だが、社会への関心を絶やさず、自分の考えを持っている人は魅力的だ。「bar招福堂」には著名な戦場カメラマンもくるという。開店から7年余、過酷な深夜労働が少しでも改善されるように願うばかりだ。

 bar招福堂●http://r.gnavi.co.jp/a181700/

2日(月)☼

 母校・土佐高校の試合があるというので埼玉スタジアムに行った。高校サッカーの全国大会に出るのは2回目だという。相手は青森山田高校。

 素人の僕にもわかるほど実力にかなりの差があった。土佐のパスはつながらず、試合は常に相手陣営で行われた。後半に入って3時をすぎる辺りから北風が吹き付けてくるようになった。試合の方は山田のシュートが相次いだ。3-0。

 土佐の選手はよく頑張ったと思う。おかげで僕は初めて「埼玉スタジアム」というところに足を運ぶことができた。浦和美園駅からの長いコンクリート道には閉口するが野球場しか知らないものには驚くような立派な施設だ。

 母校の応援歌を聞くのも遠い昔の甲子園以来だ。何といってもこの雰囲気はいい。

知人はいないかと見渡してみたが中谷衆議院議員の姿が見えただけだった。寒風が身にしみる帰り道。

それでもいい体験をさせてもらったと思う。母校の後輩たちよ、ありがとう。

    

3日(火)☼

 今日は高麗の義弟夫婦の家を訪ね義母に新年の挨拶、夜はお隣に呼ばれて新年会

 

 

 

 


半世紀前  山中湖

2012-01-02 10:41:46 | 友人たち

1965年夏、山中湖畔で撮った懐かしい写真です。

 東京教育大学新聞会の夏期合宿が岳東寮であり、5年生だった僕も参加しました。

 卒業して数年経つ先輩の顔も何人も見えます。私たちの「青春期」の大切なひとコマです。

 半世紀の間に彼岸に行ってしまった方々も少なくありません。世話になりました。

 僕は5年いたおかげで妻と出会うことができました。