渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

同田貫(どうだぬき)

2020年06月12日 | open
 












無銘刀剣に日本刀剣保存協会の
「保存」
がついた。「同田貫」と
して鑑定さ
れた。
二尺三寸一分。
 
肥後菊池の同田貫は戦国時代の戦場刀で、
分厚い頑丈な造り込みで名を馳せた。
戦国武将加藤清正が抱えたが、一派は
槍から長巻まで、かなり多くの実用刀剣
を製作した。
元々は延寿の流れとされ、延寿の祖は
京都山城からの下向との伝がある。
同田貫一派の錵(にえ)づく傾向などは
山城伝からの脈流とも思えるが、作風は
山城粟田口、来(らい)とも大きく異なる。
 
同田貫の堅牢さは著名であり、明治の
展覧兜割りにおいては、名だたる剣士が
無残な結果で終わる中、元幕臣の剣豪
榊原謙吉のみが同田貫を使って見事に兜
を割って見せたという。
現代に残る他人の作の現代刀を使っての
フェイクやらせTV番組でのブリキ兜割り
はなく、後には引けぬ、嘘偽りのない
兜割りを榊原謙吉はやってのけた。
現代フェイクやらせTVでは、斬り込んだ
直後の兜とその後のカットの兜では斬り
込み幅が異なっていることが映像に残って
しまっている。
スタッフが手で広げたのだ。
また、製作したという丁字刃の刀身では
なく、斬り込みに使った刀身は背の低い
直刃系であることも映像に残ってしまって
いる。
さらなる確定的ダメ押しは、番組のスタッ
フは良心が咎めたのか、映像で使われた
事前のヤカン切りやパイプ椅子切りは、
実は誰の作の現代刀を使った映像である
かということまで外部に告白してしまった
のだった。
撮影での鍛冶本人は5口の刀身を作ったが
どれもが斬鉄できなかった。
だが、こうしたことは映像に克明に、別
刀身であることや、斬撃部の開きが別
カットでは違っている事等が残っている
のに、それをヤラセと見抜けない大学講師
などはその映像を使って講義し、学生に
文科省認可の単位を与えている。
多分、日本刀に疎く、刀剣界ではこの一件
の顛末を口にすることが最大のタブーで
あることさえも知らないのであろう。
 
ある有名な腕こきの剣士がTV番組収録用
斬鉄刀を作ろうとして、その作者
に連絡
を取ろうとした。
知り合いにその意向を話すと、刀職から
叱責されるように止められたという。
曰く「馬鹿もん。刀剣界の絶対に触れては
ならないタブーを君は知らんのか」と。
 
だが、結果として、そのやらせTVの刀工
ではなく、別な研究熱心な刀工と研究を
重ねた結果、その剣士は斬鉄刀を手にする
ことができた。
そして、見事にTV番組収録で鉄パイプを
切断して見せた。
昭和40年代以降、刀工小林康宏以外には
斬鉄剣をほぼ誰も作れていなかった歴史
その剣士とその刀の刀鍛冶はピリオド
打った。
フェイクでもやらせでもない。本当の
真実の姿がそこにあった。
 
日本刀でも鉄が切れる物はかつてはいくつ
も存在した。同田貫もその一つだった。
しかし、1945年以降、日本刀は切る為の
物ではなく、見る為の物と位置づけられて
からは、どんどん日本刀ではなくなって
来ていた。
そこに「喝!」を入れたのが刀工小林康宏
初代の小林林(こばやしはやし)だったが、
やがて弟子となり、二代目康宏銘を継ぐ
子息の小林直紀康宏と共に、既存の美術刀
剣界からは蛇蝎のようにパージされた。
1944年生まれの二代目康宏の直紀は日大
芸術学部に通っていた頃はカメラマンに
なろうと思っていた。
しかし、一念発起し、大学卒業後に会社
経営をするかたわら、他の兄弟弟子と共
に1980年に刀工免許試験に合格した。
会社は最大時に社員200名を擁したが、
その会社の経営よりも刀鍛冶に専念した。
だが、その作刀の方向性は、父の先代康宏
の手法をさらに切れ物に特化させた技法で
あり、これは日本刀だけでなく、多くの
伝統的日本鍛冶職からその技法を学んだ。
とりわけ熱処理に関しては、徹底的に研究
と研鑽を積んだ。
しかし、戦後の美術刀剣界の権威筋からは
とことん蔑まれた。
「あんなのは刀じゃない」「あいつらなん
て刀鍛冶ではない」と、時にはあからさま
に罵られて。
だが、誰も鉄を切断できる刀を作ることは
できず、そのできない人たちとその取り巻
きが誹謗中傷を繰り返していた。
梃子鉄を使わずに水ベシをせず、鍛冶箸で
玉潰しから素延べまで行なうのは日本刀
では無いのだそうだ。
そして、「これこそ日本刀」として製作
された刀身は軒並み鉄を切るどころか、
蛍光灯のナイロン紐を切っても紐の形に
刃こぼれし、また、水で浸した畳表に切り
つけても折れたりした。
そもそも、組打ちで使える頑丈な刀など
は、戦後は時代が経てば経つほど消滅し
ていた。
戦時中からの刀鍛冶で戦後にも作刀した
刀工の中には、斬鉄できる日本刀を作れる
作者は何人もいたのに。戦国時代や江戸期
虎徹や幕末の山浦真雄(さねお)や水戸の
トッカツのような刀工は戦後にはまだ日本
に何人もいた。
しかし、時代が進めば進む程、どんどん
現在日本刀は「カラーリングだけ綺麗な
展示用レーシングマシン」になって行っ
た。
 
同田貫。
同田貫一派の作は、個体によって、上位
刀工の作と見紛う程に精緻な鍛え肌の作
もある。
しかし、多くは「鍛え疵も同田貫のうち」
と言われる肌に荒い鍛え肌を見せる。
だが、同田貫が堅牢であるのは、単に鉄
量を増大させて分厚くしたからだけでは
ないことは、刀剣に明るい者であるなら
ば見抜いている。
私は好きな一派だ。
それに、なんだか、松本零士先生の作品
に出てくる伝説の切れ物刀を作る正体不明
の刀鍛冶集団であるトチローの一族の
よう
で、謎に包まれた同田貫一門には
とても
ロマンと魅力を感じる。
 
同田貫の近場では、刀剣界では「脇物」
として田舎鍛冶のように邪険にされて
いる鍛冶集団がいる。
それが豊後国高田の鍛冶集団だ。
慶長までの古刀期の彼らを「平高田」と
呼び、江戸期慶長以降を「藤原高田」と
呼ぶ。
めちゃくちゃ頑丈で大切れする。
体配は備前に似ているが堅牢さは同田貫
向こうを張る。
私は、高田物の刀は大好きだ。
 
嫌いな刀はないんですけどね(笑)。

日本刀研究の不思議

2020年06月12日 | open
 
 
かねがね、日本刀研究において不思議に
感じていることがある。
それは、日本刀の成立史についての考察
を何故か日本刀研究者たちはしない、と
いうことだ。
地方自治体によっては、我田引水でわが
県の古刀刀工こそが日本刀の始祖である
などと、全く学術的根拠を示さずに手前
自慢で為している恥ずかしい県もあるが、
私の疑問はそうした埒も無い事の指弾に
はない。

日本刀という言葉は中国人が古書において
歌った単語だが、和刀のうち、いわゆる
日本刀とされる物は、古代末期の平将門
の乱以降に普及した「湾刀」を以ってそれ
を日本刀とする、という規定が一応ある。
しかし、これは武器の発達史の中での一
過程を区切って、概ねそこらあたりからを
日本刀と呼ぼう、とする概念上の学術的な
区分けでしかない。
弥生時代というものは、弥生町で発見され
た土器を弥生式土器と学術的に名付けて
初めて「弥生時代」という区分が誕生した
ように。

日本刀の登場にあたり、日本刀を製作する
刀鍛冶は、突然天から降臨した訳ではな
い。そこには連綿と超古代の鉄器製造時代
からの技術の継承が確実にあった筈だ。
しかし、日本刀研究者は、湾刀成立普及
以降のいわゆる狭義の日本刀しか研究しよ
うとはせず、鉄器製造からの脈絡からあえ
目を背けようとする。

私はこれは皇国史観によるものだと思量
している。
皇国史観に根差した視点と思考法が本来
の中立的でありとあらゆる思想にも政治
体制からも独立した自主性を持つべき学術
の研究を妨げている、と。
特に、鉄の歴史を辿る時、古代王権とそれ
への抵抗者の実像の認知を避けて通る事は
できない。
しかし、あえて避けようとする。

そのことは、日本の日本固有の製鉄の開始
は大和朝廷成立以降とする国定教科書の
記述にもその質性が見て取れる。
多くの遺跡が発見され、斯界での研究も
進み、日本の製鉄開始はヤマト成立以前
の弥生時代であろう事が明らかになりつつ
あろうとも、「正史」においては大和朝廷
成立後としたがっているのだ。
(現在のところ、日本での最古の製鉄遺跡
は広島県三原市の遺跡。弥生時代の可能性
が高く、今後の高度な研究が期待された
が、研究は停止するがの如く、遺跡は埋め
られてしまった。

外部リンク

この三原市内の垣内(かいち)地区にある
日本最古の製鉄遺跡のあたりは、大和朝廷
成立後の街道整備がなされた往来の付近
だ。
その道路は古代中国道と呼ばれる。
都への徴税のために、規定距離ごとに
駅が置かれて、所定の頭数の荷駄用の馬
が飼育、常備された。
その駅を駅家(うまや)と呼ぶ。
今の日本固有の駅伝の発祥は、駅家の存在
の名残りだ。
駅家は厳格な規定により、定距離毎に設置
されたのだが、この日本最古の製鉄地区に
あるべき駅家については、一切記録から
抹消されているのだ。
そのため、そのあるべき駅家は「名称
不詳」として学術界では「ここにあるべき
であっただろう、存在したであろう駅家」
として取り扱っている。
従って、大和朝廷の正史には、この地区の
駅家のみが飛ばされているので、前後の
駅家間の距離は2駅間の距離という国内で
類例を見ない異例の場所となっている。
而して、その名称不詳の垣内地区の駅家
から西南に下る眞良(しんら)のあたりは、
超古代製鉄の原料たるベンガラの基である
赤土の宝庫なのだ。

思うに、「砂鉄製鉄」以外は製鉄とは認め
ない思考が「正史」推進者には働いている
のではなかろうか。
これは、何故日本に赤い神社と白い神社が
あるのかを真剣に解明しようとはせずに、
「統一後」の同じ日本の神社として取り
扱おうとする思考法にも通じるものがあ
る。
私は、赤い神社はヤマト以前の赤い原料
を使って製鉄をした先住産鉄民の神、白い
神社はヤマトを中心とする砂鉄製鉄以降
の神、と踏んでいる。

この問題意識から派生して、上述の日本刀
の研究傾向に対する疑問(日本刀への疑問
ではない)が生じるのだ。
けだし、日本刀の研究は、歴史を辿るの
であるならば、古代製鉄史を解明せずに
は妥当性を有する知見を得ることはかな
わず、であろうと。
日本刀の刀鍛冶は、突然降って湧いた訳
ではないからだ。そこには時代的な技術
の連鎖の歴史が必ずある。

ただ、現今の「日本刀研究」というものは
平安古刀から令和の現代刀に至るまで、
出来上がった刀そのものを鑑賞して評する
ことが「日本刀研究」であるかのように
誤認しているフシが非常に刀剣界には強
い。
そして、大抵は、大和朝廷万歳!の皇国
史観信奉者たちが日本刀研究や作り手の
担い手になっている。大半がそうだ。
日本刀は、日本の歴史の中で、そのよう
な一部の政治権力に与する者たちのため
だけの独占的所有物であったのか。
答えは断じて「否」なのである。これは
日本の歴史の事実として。

超古代の鉄器生産の歴史にまで遡って
「日本の鉄」を解明しないことには、
本当の日本刀の歴史と姿は掴めない。
私にはそうした疑念プラス問題意識が
ある。
超古代製鉄を紐解くことなしに、日本刀
は見えてはこない、と。

多分、古墳

2020年06月12日 | open


古墳認定されておらず、新規霊園となって
いる。多分前方後円墳かと。

後円部に回ってみた。
古い社が祀られていた。
まず、古墳で間違いないかと思う。


ここから半径5キロ圏内には、どう見ても
古墳だろうと思われる地形と社が結構あ
る。古墳認定はされていない。理由は不明
だが、調査をしいからかも。
等高線地図で見ても、くっきりと前方
円墳の形であるのに古墳認定されていな
い。そうした古墳無視の例は横浜市鶴見
区にもある。

そのような例で古墳と認識されていなかっ
た小山を私の先祖が古墳と踏んで調査し、
古墳に正式に指定されたものが三原市内に
ある。数々の古墳時代の遺物が出土した。
明治から昭和時代に小学校の校長をして
いた者だが、別段考古学専攻ではなかっ
た。

古墳というのは独特な雰囲気を出してい
て、以前友人たちと岡山県内の温泉に行っ
た時、「あれ、古墳じゃない?」と私が
尋ねたら、元小学校の教員の奴が、「そ
う、○○古墳」と答えた。
私は不勉強でその古墳を知らなかったの
だ。
備中も備後も吉備の国。
ヤマトにいいようにやられて辛かった時代
もあったことだろう。

岡山県には「うらじゃ」という祭りがあ
る。
ヤマト中央に対抗して征伐された鬼=ウラ
の魂を讃える祭りだ。
まるでアテルイやアイヌの神を奉じる祭り
のようで、国内の殆どの祭りがヤマトへの
完全服従と恭順を示すものであるところ、
この岡山県のウラジャの祭りは古代の抵抗
レジスタンス魂を讃えているので、私は好
きである。





古代ヤマトに征服され、あるいは滅ぼされ
た日本各地の勢力たちは、ヤマトによっ
て、鬼、蛇、龍、鹿等々の名を冠され、
悪しきものたちとして徹底的に排除され
た。「もののけ姫」の世界はファンタジー
ではなく、この国の実際の歴史をベース
にしている。
これらの人民制圧の景色は、各地の風土
紀等に残されているし、今でも地名で残っ
ている場所も多い。
古代王権の覇権戦争は、主として製鉄技術
簒奪を巡る争いだった。
そして最強の侵略者であるヤマトが、懐柔
傀儡の手管も併用しながらも武力でこの
列島を最終的に征服した。
それが今でも継続している。

ウラジャの面。完全に鬼にされてしまっ
ている。吉備国の王「温羅(うら)」で
ある。当然、桃太郎のモデルは吉備津彦
であり、ヤマトから派遣された軍事侵略
軍の総監だ。


桃太郎は「正義の味方」などではない。
桃太郎の有名な歌は、歌詞がえげつない
ほどにドラスティックなヤマトの残虐性
を表しており、作詞者は風刺心で書いた
のかとさえ思える。特に二番以降が凄い
内容の童謡だ。フランス国歌のように
殺せ殺せ血祭りだ!のような内容なので
ある。

古代史。
それは、人を人とも思わない権力支配と
それに抗する命がけの抵抗闘争悲しい
歴史。

豊島園閉園

2020年06月12日 | open


都内の老舗遊園地の豊島園が8/31に閉園
する。寂しい限りだ。1926年大正15年
に開園。
浅草花屋敷と後楽園よ、永遠なれ!

ところで、大正時代はモダンだった。

一番右の人の垢抜けてること。
これは帝都におけるひとコマ。

そして、こちらは有名な昭和10年代の
モダンガール。モガ、モボと呼ばれた
ファッショナブルな若い男女が東京の
銀座には溢れていた。
左の二人なんて銀幕スターみたいだよ。
でも、一般人。
オサレですこと。
1930年代、都会の街ではカフェとビリ
ヤードが大流行でした。


海釣りナイフ

2020年06月12日 | open


海釣り専用ナイフ。シマノ。
ステンレススティールと刻印あり。
鋼材不明。

海での船釣りでは、例えランヤードを着
ていても、万一海にナイフをドボンだと
取り返しがつかないので、廉価で道具に
特化したカッターのような製品ナイフ
持って行く。
船上で魚をシメたりするのにもそれを使
う。
滅多には船上ではシメず、船倉イケスで
係留ハーバーまで持ち帰るのだが。
魚はシメたものとシメないものでは、味
天と地ほど違う。

このシマノは1200円程だ。
ラーメン+餃子くらいの値段だ。
研ぎ上げれば十分に使える。
これを使わなくともよいが、船内に一丁
予備で持ち込むのもおすすめ。
船までの運搬は刃物なので厳重梱包で。
さすれば適法と取締官には看做される。
すぐに取り出せない重梱包での目的地まで
の運搬は、法規定の「正当な理由」に該当
するとするのが妥当だからだ。

似た風景

2020年06月12日 | open



瞬間的にだが、横浜と風景が似ている
東広島市西条。


広島大学は広島市内から西条に移転して
来た。


賀茂台地と呼ばれる丘陵地帯だ。


住宅街で見かけた猫。
ライフジャケットのような物を着ている。


三原というのは海もあるが山深い土地なの
だなあと思う。
遠景で見ると山が屏風のように連なる。


この道は現代において作られた。
近代より以前の中世には、この場所は
海の中だった。
古代山陽道の駅家(うまや)があった現在
の三原市本郷地区の高山城のほとりが
湾内中域の海岸線だった。


三原市西部の本郷地区は、縄文・弥生時代
からの遺跡も多く、その後の古墳時代には
古墳群が造営された。前方後円墳もある
ので、ヤマト王権との関係もうかがえる。
律令制の国割りでは備後を数キロ越えて
安芸国に入るが、地場勢力としては、
吉備国勢力の中にあったのではなかろう
か。もしくはイズモ。
このエリアには南北にわたり、出雲を
祀る社もいくつか見られる。


中世末期、原因は不明だが、一気に渟田川
の土砂が堆積して一大デルタ地帯が現在の
三原市本郷町、沼田(ぬた)、沼田東、沼田
西、長谷(ながたに)、頼兼地区に出現し
た。急にである。
(私は鉄穴流しの影響かと読んでいるが、
この地区には学術界は学術調査をノータッ
チとしている。古代製鉄の痕跡が眠る宝庫
であるのに、学術界は手をつけない)

そして、現在のJR三原駅のある場所に
戦国時代末期に水軍城である三原城が
築城され、埋め立てにより城下町が形成
された。
そこに本郷から小早川隆景が移住して来
た。
以降、三原は明治維新まで城下町であっ
た。
明治以降は日本軍の大本営を置く構想も
あったが、三原湾の海底が土砂堆積に
より水深が浅く、軍艦を寄港させられな
いので呉に軍港を新たに開いた。
三原は、明治以降は、近代工業都市とし
て、帝国人絹(テイジン)の繊維工場の町
として発展した。
また、三菱も大規模な工場を三原に造り、
印刷機を主として生産した。岡山県の
水島では軍用機等が製造された。
現在の三原の三菱は、電子制御システム
の開発をテストコースを建設して取り行
なっている。
それと、三原市郊外には造船所があり、
かなりの数の労働者が現在も勤務してい
る。こちらは今治造船の系列になる。

企業誘致の町の定め。企業が撤退すると
人口がガバッと減り、また税収も減る。
やがては、炭鉱町やニシンの町のように
廃れて行く。
企業誘致型の都市計画は、とても危険性
をはらむ。財政が潤わなければ、教育施設
の充実や福祉行政が円滑に実現できないか
らだ。
また、三原の漁業は明治以降に起きたもの
だが、小規模のため、三原は「漁師町」や
「漁港町」ともなり得ない。
林業も観光も無理である。
ではどうすれば市の財政が潤うか。
「地元の色」の打ち出しによる「外貨獲
得」とそれに付随しての強力な地場産業
の育成しかないだろう。
尾道は江戸期には三原城支配の管轄区で
あったが、広島県内で一番古い古代から
の町であったためか、開明的で戦後も
うまく市政維持に成功している。
尾道の最大限の収益は観光だろう。
その中でも、「文学の町」「映画の町」
「自転車の町」としての特色も上手く
打ち出している。
どんどん三原は尾道に差をつけられている
ような気もする。
地場特産物をとの地元隆盛を願って三原
をタコの町として定着させた立役者の
料理人は三原生まれ育ちの人ではない。
どげんかせんと。

やはり、三原のタコと鯛はかなりのアドバ
ンテージを持っていると思う。
海流の流速が速いエリアのため、質が極上
なのだ。味が全くよそとは違う。
これがかなり起爆剤として行けるのでは
ないかと私個人は思う。

もしくは、公営ギャンブルの「みはらボー
ト」とかを和田沖に建設するか。
こちらは、かなり難しいだろう。
あとは、広島空港(三原市)の拡張ハブ化
かなあ。
空港周辺を一大リゾート地にする。
でも、これは1970年代式の土建屋政治の
ようで、いろんな弊害があるのでボツだ
な。

まあ、次世代の鋭気ある若者に任せよう。

モーラ ナイフ

2020年06月12日 | open



ここ10年ほどで日本でもアウトドアナイフ
の定番となったモーラナイフだ。

ステンレスモデル。


実は、私が持っているナイフの中では、
このモーラが一番切れる。包丁のように
切れる。刃先の刃味としては、ナイフで
はこれが突き抜けて切れる。
それは多分ブレードが薄いからだろう。


ただし、刃先の切れ味は優れているが、
刃物の切れ味とは刃先便りの切開性の
高さだけでは評価できない。いろいろな
使い方によって総合力が決定づけられて
くる。

このナイフが2000円程で買えてしまう事
が信じられない。
モーラはフランスのオピネルよりも使える
ナイフだ。
日本のアウトドアでは一時期オピネルが
流行して安くて良いナイフのように喧伝
された。
しかし、オピネルは決して良いナイフで
はない。
オピネルが爆発的に売れたのは、まだ
ラップナイフが注目されていなかった頃
に、アウトドアショップやメディアが過大
にオピネルを実力以上に評価して大宣伝を
行なったからだ。
同じ炭素鋼では肥後守と比較すると、話
にならない物がオピネルだ。ただの鉄板
のような刃味しか示さない。どんなに刃
先を鋭利に研いでもだ。
鋼材的にも構造的にもオピネルはモーラに
は遥かに及ばない。
いくら鋭利に研ぎ上げても、まるで焼きを
戻したような刃味しか示さないのがオピ
ネルであり、決して刃物として褒められた
ものではないのだ。これは事実だ。
私はこれまでオピネルを4本買って使い倒
たが、漸く世間の評価が刃物を専門的
厳しく判断するのではない次元からの
であることに気づいた。オピネルを
「よく切れる」と評するのは、本当に
とんでもなく切れる=よく切れる刃物を
知らないのでは、とさえ思える。
それ程、オピネルは「切れないナイフ」
だ。冷徹に客観的にみて。

「切れ味」が良好ではない刃物は何なの
と思う。食器のナイフのつもりなのだ
ろうか、と。
無論、オピネルも焼いたステーキを押さ
る為には使える。
それと、魚のシメ用に刺突するには使え
る。物は切れない。「切れた風」は演出
できる。
極端な表現をすれば、モノサシの定規で
刺身を作るような刃味がオピネルなのだ。
半世紀以上前の大昔、高炭素鋼ではない
鉄板打ち抜きで出来た肥後守のタイプの
ナイフが文具店で売られていたが、それ
に似た刃味をオピネルは示す。

モーラナイフは掛け値なしに、刃味のみ
らず、ハンドル造形も使い勝手も良い
ナイフだ。北欧ナイフ全般がそうだが、
ラップナイフの実力、恐るべし。
私が持つナイフで一番刃先の切れ味は
このモーラが良い。SUS材でこうなので
あるから、炭素鋼は試すに及ばずだ。
ただし、この私のモーラは、私の流儀の
方法で研ぎ直してある。
刃物は切れてナンボだ。
切れない刃物は刃物ではない。