松坂桃李さん結婚記念で主演の時代劇を
観ている。
豊前関前藩(架空)の武士の物語だ。
江戸表から国元に戻るところから始まる。
国政は賄賂と忖度横行の田沼意次の時代
だ。
国元のこの実家の屋敷は、典型的な
150石取程の武士の屋敷を表現している。
300坪ほどだろうか。
幕臣旗本だと150石はどうにか目見得の
旗本クラス(御家人は目見得以下)に
なるが、諸般の国元では上士の格式あたり
に相当する。
江戸期には、土地家屋建物についても
厳格な決まり事があり、家の格式に
よって造作が決められていた。
幕臣旗本御家人も諸藩の武士も屋敷は
すべては拝領屋敷であり、いわば公務員
の官舎のようなものであった。現代の
ような個人的な所有権は存在しない。
そのため、藩主の転封(てんぽう)など
による国替えでの引っ越しはもとより、
主命ひとつですぐに屋敷を召し上げられ
たり拝領したりした。抗議は一切認めら
れない。
豊前関前白鶴城(架空)。
架空の藩なので、CGだ。
よく出来ている。本当にありそうな城だ。
備後三原城は戦国期築城なので天守は無い
が、このCGから天守のみを除去すれば城
の曲輪も三原城によく似ている。
江戸期の三原城も海に面したこのような
景観だったことだろう。
ただし、三原城に浜は無い。すべて海中
埋め立てにより築城されたからだ。
長崎の出島のような埋め立て地に城が
造られたと想像してもらえば近い。
あるいは幕末の江戸湾の海上に浮かぶ
お台場が備後三原城の形態に近い。
江戸期の備後三原城。
白鶴城の城下町。
これはCGだろう。豊前小倉がモデルか。
いや、豊後だから杵築あたりか。
杵築でしたね。モデルの城は(笑)。
慶長の火事で焼失してから天守は再建。
物語の時代には能見松平家が豊後高田
から3万2000石で入封している。
現在の天守は1970年に鉄筋で建築。
広島藩46万5000石浅野家の場合、浅野
松平安芸守が治めた支城である三原城
の領地は3万石の石高だった。
ただ、詳細不明なれども、三原城が数十
の二重櫓などで威風を構えたのは江戸期
福島正則が増築したのではなかろうか。
戦国末期に江戸期様式の三原城があった
とは考えにくいのだが、資料不足により
最初から三原城は江戸幕末の姿だった
ような解説が多くなされている。
城郭研究者のさらなる研究を俟つ。
江戸期の三原城下の人口は1万人。
江戸と同じく半数が武士とその家族、
奉公人だった。
広島藩は蔵米取は無く、下士に至る
まで知行取だった。たとえ50石であろう
と、自分の知行地の領地と領民を持つ
小さな殿様が広島藩浅野家中の武士で
あった。
ちなみに三原城内に住んだ武士たちは
明治9年までにすべての屋敷が新政府
に召し上げられた。
広島藩は「官」軍側であったが、明治
新時代においては、秩禄処分の後は
武士たちはいきなり無職で放り出され
た。屋敷も取り上げられ、どこぞへ
行け、というようなものだ。
多くは警察官になるか軍人になるか、
学識の血脈を生かして教員になるか
の道を選んだが、圧倒的大多数は公務
員ではなく自立を目指して新興企業に
就職するか、自営業の道に進んだ。
そして、自営業での起業においては、
士族のほぼ全域に近い層が商売で
失敗している。
武士は商人としての教育など受けては
おらず、価値観もあきんどとは異なり、
儲けを生む金勘定さえろくすっぽでき
ない堅物であったのだから、事業など
成功するわけがない。教科書にも出て
くる「士族の商法」というものであり、
成功を収めた者たちは少ない。
明治の新時代、一番生活苦の辛酸を
舐めたのは、江戸時代の既得権益を
いきなりはく奪された階級だった。
士族については士族助産の救済措置が
自治体や政府によって採られたが、
士族の困窮は焼け石に水で、やがて
不平士族たちは日本各地で武装蜂起を
して明治政府に対して抵抗運動を展開
した。
士族の武装蜂起は各地で個別撃破され
た後は、立法政治を求める自由民権
運動に繋がって行った。
一方、明治新戸籍によって一般平民に
組み込まれた旧被差別階級層たる被差別
部落民たちは、江戸期の既得権益を
はく奪された後、起業や労働力を売る
ことによって生活を立てるが、社会的
な差別は江戸期よりも一層ひどい状態
になって行った。
そして国政選挙と立法主義の時代が
到来してから、水平社を結社し、日本
社会における部落差別廃絶を自らの
手で目指す運動が開始されたのだった。
明治維新により、何が変わったのか。
ただ、国民統合のために「日本語」が
新たに作られ、軍隊の命令意思疎通の
ために標準語と小学校国民教育が
設定されるようになり、教育の機会
均等の道は開かれた。
ただし、これも表向きであり、家庭が
貧しいために義務教育である小学校に
さえろくに通えずに家業の労働に従事
したりした家庭の子どもたちは多かった。
大抵は商家に丁稚に出されたり、女子
などは売春宿に売り飛ばされたりした。
旧武家の士族の家や貧農層の家の女子
たちの多くも女衒が手を引き売春宿
に連れて行かれたのである。
また、明治以降も、昭和23年までは
日本では家父長制が敷かれていたため、
女性は法律的には無能力者として扱わ
れていた。女性に法的権利は保障されて
いなかったのである。私の世代の親が
生まれた時代の日本はそんな世の中
だったのだ。
大学の進学率も私の時代でも約30%
程であり、私の一回り上の全共闘世代
では18%ほどでしかなく、女性の大学
進学などは数%だった。
私の大学時代の1980年の時点でも、
女性漫才師が相方を指して「こいつ
女のくせに四年制大学行ってるんで
すよ。おかしいやろ、それ」とネタに
していた程だ。それを聴いて観客は
ゲラゲラ笑っているというような
世の中がたった40年前の日本だった。
私の学生時代でも女性の大学進学率は
非常に低く、女子は短大に進学するの
がごく当たり前とされていたし、就職
した企業でも男子に比べて賃金差別が
ひどかった。学歴差別ではなく性別
差別が現実に形となって賃金に表れて
いたのである。
商業主義の企業とはそういうことをする
場所であった。
男女機会均等法という法律ができて
職業上の男女差別を撤廃するまでは、
女性は「社会の下の者」として扱われ
ていた。それは、つい最近のことだ。
教科書で書かれている事は、日本の
歴史の表面部分しか表記されてはいな
い。
ちなみに、日本で売春宿が法的に廃止
になるのは、昭和32年(1957年)から
だった。
いつの時代も、社会的弱者を作り出す
ことにより、その人たちを踏みつけて
日本社会は生きながらえて来たのは
厳然たる事実だ。
歴史の真実から目を逸らしてはならない。
特に、未来を創る若者たちは、日本の
真の歴史を真正面から見ることが大切
だ。今の目の前の現在だけがすべての
世界、世界のすべてだと思っていたら
大きく足を踏み外す。