あとは塩焼き。
映画『イージーライダー』(1969)を観る。
いいね~。
久しぶりなので日本語吹き替え版で観た。
ピーター・フォンダの吹替はTV版の吹替で
若き日の山田康雄さんだ。
デニス・ホッパーの吹替が俳優の山谷初夫
さんで、原音の本人に近い味を出していて
かなり良い。
洋画は原音で観るのが基本だが、日本語
吹替版は声優の俳優としての声の演技が
楽しめるのが良い。原本を観て、吹替版も
観る。ダブルで楽しめる。
アメリカン・ニューシネマの最高峰の作品
だが、時は1969年。
ベトナム戦争も泥沼化して、アメリカの
ひずみが浮き彫りになって来た時代だ。
若者ライダー二人は自由を求めてバイクで
旅に出るが、多くの人の良心と出会うと
共に、人々の排他性も経験する。
もう今から51年も前の映画作品になる。
公開された1969年から51年前といったら
1918年だもんなぁ。ロシア革命の翌年だ。
やはり、第二次世界大戦後とそれ以前では
地球規模で世の中はかなり違う。
ただ、アメリカンドリームは本当は儚い
夢でしかないという現実をアメリカの人々
が噛みしめ始めたのが1960年代だった。
人類が初めて月に降りた時代ね。
当時、日本だけでなくフランス全土や
アメリカ合衆国までもが反戦学生運動が
爆発的に高揚していた。
時代は「汚い戦争」の時代だったからだ。
同時に、飽食の時代の終焉が見え始めて
いて、人々の心はすさんでいた。
そうした中、ハリウッドではアメリカン・
ニューシネマが登場して、一つの文化的
波紋を映像人たちは投じたのだった。
この作品は、単なるバイク映画などでは
勿論ない。
人って何だろう、ということを問い直す
ことが心の中で始まる映画だ。
50年前、まだ、アメリカの心は汚れ切って
はいなかった。
ただその良心は汚いものに潰される。
若者ライダー二人は途中でヒッチハイク
しているヒッピーを拾うが、それがまた
劇画『夜明けのマッキー』(望月三起也/
1970年)に出てくるアフリカ傭兵部隊
「牙」のゴールド小隊長にそっくりなん
だな(笑)。望月三起也先生の最高傑作。
映画『ザ・ウエスト』におい
て、保安官助手のワイアット・
アープは駅馬車強盗に遭った
被害の現場検証に行く。
そこで、倒れた御者のそばに
落ちていたコーチガン(短
銃身散弾銃)を拾い上げて装
弾を確認する。
同僚は言う。
「賊はすぐに逃げたんだ」と。
ワイアットは、コーチガンを
確認しながら吐き捨てるよう
に言う。
原音を聴いて、日本語字幕を
読んでなんじゃこりゃと思った。
原音では正しくこう言っている
からだ。
つまり、「奴らは撃ち倒され
さえしなかった」と言ってい
る。発砲云々は言っていない。
実際にコーチガンは雷管が潰
れて発砲後であったが、これは
御者が発砲したが一人も倒せず
に犯人たちは逃げ去ったという
ことを映像で表している。
発砲の隙さえ与えず?
現実はその前のシーンで犯人
たちはパンパン銃撃しながら
駅馬車を襲っているし、襲撃
後の映像ではコーチガンの
シェルは二発とも射撃後の雷
管であった。
「発砲の隙も与えず」とはどこ
をどうしたらこの映像の流れ
から生まれるのであろうか。
また、原文の台詞にも発砲云々
は一切無い。撃ち落されたか否
か、しかワイアットは言ってな
い。
ひどい邦訳の例だ。
作品の物語の流れを理解せずに
適当な意訳をするとこうなる。
戸田奈津子などは典型で、「15
年連続世界チャンピオン」を
「第15回大会チャンピオン」と
字幕翻訳をつけたり、多くの作
品で適当な出鱈目翻訳をして来
た。
ロードオブザリングではあまり
にひどい外国語訳をするので、
製作者によって排除された経歴
もある。
しかし、本人はどこ吹く風で出
鱈目訳を続けながら「日本語字
幕の女王」として映画界に君臨
している。『アポロ13号』など
はひどすぎた。
トム・クルーズが出演する作品
は戸田が翻訳するのが専業みた
いになっているので、彼の作品
は日本語吹き替え等のDVDで観
るほうが映画館よりも安心だ。
英語が出来る人は字幕などは要
らないが、ペラペラのペランチョ
マンでない限り、早口やスラング
多出の映画のセリフはタイムリー
に理解は難しい。
それでも中学生英語のヒヤリング
ができれば、変な字幕というのは
解ったりもする。
それにはヒントがあるから。
映像の物語の流れとは辻褄が合わ
ない字幕が出てきたら、大抵は
日本語の字幕翻訳がテケトンだっ
たりするのだ。