ビリヤード場では専用の削り箱も
チョークを使う側も正しくチョーク
タップの形の調整も、プレーヤーで
(デュラミスボール)
りしたら違和感があるのかも知れ
ない。
ブランズウィックセンティニアル。
私が一番好きなプールボールだ。
このボールを使っていた。
白いブルードットの手玉が何とも
落ち着いた品と風合いがある。
アメリカの西部開拓時代には
クレーボール=焼き物のボール
が一般的だったが、よく割れた。
手玉のみが象牙製のクレー
ボール。西部開拓時代。
古いクレーボールでは4番は
セージ色の物もあった。
ただ、焼き物ボールはよく割れた。
そのために西洋紅白玉と同じよう
に全象牙製も高級品では作られた。
(西部開拓時代/1880年代製)
しかし、象牙玉には致命的な
欠点がある。クラックが入り
やすい事もそうだが、それよ
りももっと重大な問題があった。
それは重心が中心に無い事と、
玉と玉がぶつかることと手入れ
の磨きにより玉が摩耗して
どんどん小さくなる事だ。
私が四つ玉を始めた頃には古い
象牙の紅白玉もあったので
物は試しと撞いてはみたが、
玉の大きさも紅白各玉で異な
るし、玉によっては重心が偏心
している物もあった。
よくこれでプレーできたなぁ
と思ったが、昔の人はごちゃ
ごちゃ贅沢は言わなかったの
だろう。
最初アメリカのプールボールは
クレーで作られ、高級品は西欧
を真似て象牙で作られた。
だが、どちらも天然素材加工品
であり、実用上は問題があった。
そこで懸賞をかけて開発された
のがセルロイドという原初合成
樹脂=プラスチックだった。
登場は1869年。
これはビリヤードボールに即
使われたり、映画フィルムに
使用された。
世界初の実用化プラスチックは
ビリヤードのプールボールの
為に開発されたものだった。
ただ、セルロイドはニトロセル
ロースと樟脳の化合物で可燃性
が高く危険だった。
原初の合成樹脂といえる。
1909年にはフェノール樹脂の
ベークライトが発明され、以降
様々な化学合成樹脂が発明され
た。
丸い地球のプラスチックのはじ
『ハスラー2』(1986)
1961年の前作『ハスラー』の続編。
全米一の撞球師であるミネソタ・
ファッツと38時間におよぶ伝説の
勝負をしたエディ・フェルソンの
25年後を描いた物語。
映画作品は原作とはかなり内容を
変更している。
この作品により、ポール・ニューマン
は長く逃していたアカデミー賞に
輝いた。本作での演技は白眉だ。
プールゲームは14.1ラック=スト
レートプールからスピード重視の
ナインボールに主流が変わっていた。
時代は変わっていたのだ。
ファッツとの勝負の後にマフィアの
圧力により業界から引退していた
エディは酒のセールスで一定の
財をなしていた。
そんな時、街の居酒屋のビリヤード
テーブルで賭け玉をするビンセント
(トム・クルーズ)と出会う。
賭け金を気にせずに勝負を求める
若者ビンセントにエディは若き日
の自分を重ねるのだった。
そして、その非凡な腕を持つ現代
若者であるビンセントを博打打ち
勝負師の撞球師として育てる旅
に出ようと決心するのだった。
アトランタでの旅の総仕上げの
全米大会。準決勝まで勝ち進んだ
エディは旅の途中で別れたビン
セント準々決勝で対戦した。
かろうじてエディはビンセントに
勝つが、実はそれはビンセントが
わざと負けて、下馬評で敗者と
予想されていたエディに密かに
大金を賭けて儲けていたのだった。
その獲得金8000ドル(当時の日本
円で160万円)をエディに渡すビン
セント。
エディは真剣勝負と思っていたの
にかつての愛弟子にハッスルを
かまされていたのだった。
観客がため息をつくような接戦
を演じてギリギリのところで玉を
外してゲームを盛り上げたのも
すべて演技だったのだ。
それを知ったエディは、自尊心が
傷つけられた。
そして準決勝。
エディは試合途中で2番ボールに
映った自分の姿を見て、動きが
止まる。
エディはボールに映る自分の
姿を見て、大会を棄権する。
会場がざわめく。
会場で見守るビンセントに彼が
取った勝ち金を叩き返し、真っ向
真剣勝負を要求するのだった。
なんのタイトルも掛け金も無い
純粋な真剣勝負を。
この決定的なシーンでの撮影は
画像を見るとお気づきになるだ
ろう。
現実にはあり得ない映像である
事を。
「裏焼き」なのだ。
ボールに映るエディの姿は逆に
なっているのである。
これはエディの目線でボールに
映る自分を眺めたような構図に
なっているのだが、シャツも
キューを持つ手もすべて逆写し
となっている。
つまりこのカットは、普通に
カメラに向かってキューを構え
るポール・ニューマンを撮影し
て、その映像をボールの映像に
重ねて合成した映像カットなのだ。
この不整合は映画館で公開時に
気づいた。あら裏焼き、と。
厳密には裏焼きではなく、裏焼き
と同じ現象になる現実逆転の映像
である、と。
だが、これは製作者が観客に
仕掛けた巧妙なトリックショット
なのだ。
この作品のテーマでもある、裏と
表、双子の見分け方、真の姿の
見極めがいかに人生を左右する
かという事の。
その仕込みを映像表現で製作者が
さりげなく映像に織り込んだ巧妙
な計算ずくのシーン、映像描写なの
である。
非常に深い。
それと多くのアメリカのプロが
出演している事も見られた。
テクニカルアドバイザーを務めた
マイク・シーゲルも会場で玉並べ
をしているシーンで登場している
し、エディが大会で負かす相手も
本物の有名なプール選手だ。
そもそも、旅の途中で対戦する
やんちゃなグレイシー・シーズンズ
が全米で有名な暴れん坊選手の
キース・マクレディ本人が演じて
いる。演技ではなく素の無礼な
態度のキャラクターそのもので。
紳士淑女の競技であるキャロム
ビリヤードの世界では絶対に許さ
れないような失礼無礼な態度を
取る選手はプールには多かった。
いくらビリヤードの真似事をして
も、所詮プールは博打玉撞き師
たちのギャンブリングゲームの
域を脱していなかったのだ。
日本ではその悪影響を悪い形で
覚えた競技選手が今でも何人か
プロとして業界にいて動画配信
などしている。非常に態度が悪い。
どんなに玉が上手くとも、それは
玉が上手いというだけで、撞球の
歴史性やあるべき姿を知らぬ、
考えぬ、それには興味がない
人間なのだろう。
玉が上手かったらどうだというの
か。
映画『ハスラー』は、それでは
人間は駄目なのだ、という事を
人に問いかける社会派映画作品
だった。あの1961年の作品では、
人間は心が落ちぶれると人の命
や尊厳までも軽んじて悪魔に
心を売り渡す、という事に対して
警鐘を鳴らす深い文芸作品として
人の心の灯について描かれていた。
途中、ギリシア神話の「パン」の
銅像が出ててくる。
そのシーンはとても意味が深い
のだが、観た人でどれほどの人
がそのさりげないシーンに込め
られた製作者の意図を理解でき
たのか。
パンの逸話のように、風が葦を
通り抜け、悲しげな旋律を鳴らす
だけだ。
あいかわらず、撞球の中でも
プールゲームはただの博打玉と
してしかやられていない25年後
だったのだ。
多くの箴言は前作の1961年の
『ハスラー』のほうが多く、作品
としても深い。
アカデミー賞受賞確実と見られて
いたが、その年には『ウエスト
サイド物語』というとてつもない
名作があったためにオスカーを
逃した。
それでジンクスになったかのよう
に、ポール・ニューマンはオスカー
とは無縁のまま四半世紀が過ぎて
いた。まるでエディ・フェルソン
のように。
『ハスラー』(1961)によって全米
にビリヤードではないプールブーム
が巻き起こった。
日本でも公開時に戦後第一次ビリ
ヤードブームが起きた。
日本の場合はプールではなくビリ
ヤード=穴なし四つ玉キャロムが
大流行した。アメリカンポケット
はアメリカ合衆国でさえ「博打玉」
であり、ビリヤードといえば西欧
式の穴なし玉当て競技のキャロム
が主流だった。
日本でポケットビリヤードが一般化
するのは1986年の『ハスラー2』の
公開による超絶爆発のビリヤード
ブームが発生してからだ。
この1987年以降のビリヤードブーム
は日本の歴史を一変させた。
それは1971年の爆発ボウリング
ブームに似ていた。
1971年、日本人の人口のほぼ誰も
がボウリングをやった。
1987年のビリヤードブームも、
たとえば高校生男子がクラスに
20人いたとしたら18人くらいは
プールゲームをやった経験がある
のでは、という程のブームだった。
街のビリヤード場では台待ちが
3時間4時間は当たり前であり、
市街地には和製英語の「プールバー」
が雨後の筍のように登場した。
プールバーという名称はロスアン
ゼルスクラブというバー付き
プールホールの商標登録で、
その権利は大久保の新関建設が
有していたのだが、商標などは
おかまいなしに爆発的にプール
バーが誕生開店していた。
元々は建設会社が黒字減らしの
ためにポケット台付きのバーを
一等地に開店したら、それが映画
の影響で思わぬ大ヒットとなった
というのが歴史の実体だった。
ただし、ロスアンゼルスクラブが
日本のビリヤード(ポケット)の
世界に対して成した功績は大きい。
多くの日本人に街での撞球をする
楽しさを広めたからだ。
さらにはロスクラブから新たな競技
選手も育ったし、日本の女子プロ
の育成にも寄与した。
ロスアンゼルスクラブは、バブルが
崩壊する前に先を見越して撤退
した。
日本の空前絶後の戦後第二次ビリ
ヤードブームは、バブル経済の崩壊
と共にサーッと消滅した。
ブームというものに乗って、ただ
流行りで玉を転がしていた人たち
もすぐに玉突きに飽きて去った。
ビリヤードブームが去って良かった
事は、それは場にいけばいつでも
どこでも玉が撞けるようになった
事だ。
だが、余波があった。
玉屋自体が軒並み消滅して行った
のだった。戦後直後から続く老舗
までもが。
いやあ、気まぐれな客を相手に
する商売は恐ろしい。
まさに水物、水商売だ。