渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

玉屋で寝る

2022年02月04日 | open


これは世間で一般的ではないが、
1960年代、70年代、80年代の
撞球師たちは長撞きした後には
玉屋で眠った。
仮眠だ。再オープンまでの閉店
時間に店内で眠る。
そして、起きて歯を磨き顔を
洗い、飯を食いに行ってまた
玉屋に戻る。
3時から開く銭湯に行ってから
また戻る時もある。

玉屋では、長ソファーや長椅子
や普通の椅子に座ったまま眠る
事もあるが、マスターがOK出す
なら玉台の上で寝る。
私も目黒の玉屋ではマスターと
横の台同士で眠っていた。
寝汗をかくので、玉台にはシート
をかけてその上にキューケースを
枕にして眠る。
硬いコンクリートの上だろうと、
板の間の上だろうと、ジャングル
の中だろうと、土の上だろうと
眠れる種族しか玉屋では眠れな
い。
台の上で眠ると背骨が伸びて気持
ちよい。

こうした玉屋での撞球師たちの
過ごし方は、世間では一般的では
ない。
私が通っていた80年代でも、そこ
らの店内の片隅で誰かしら横にな
って寝ていた。ソファーや長椅子
で。
マスターもそれをとやかくガミガミ
言ったりもしない。それが玉屋だ。
食事は大抵は近所の蕎麦屋かラー
メン屋から出前だ。
どこのマスターやママさんも電話
で言うセリフは同じだ。
「ビリヤードですけど」と言う。
これが定番。全国的な定番。
そして、蕎麦屋が持って来るカツ丼
や親子丼、中華丼の美味い事。
蕎麦屋の店員は、大抵、何分か
玉を見て油を売ってから帰る。

そうした日常風景が1980年代末期
あたりまでは街中の玉屋にはあっ
た。
だが、嬉しいもので、馴染みになる
と、昔風の付き合いをしてくれる
玉屋のマスターは今世紀になっても
地方には生存していたりする。
何度か、四国の馴染みの店では、
閉店後に店で仮眠を取ってマスタ
ーと一緒に朝飯を食いに行ったり
した事が地方に転住赴任後にも
あった。なんだか懐かしかった。

都内では、店に泊まらず帰ろうか
となると、朝イチの東急線のロー
カル駅(といっても品川区目黒区)
などでは無人改札状態だった。
一応切符は買うが、降りる時には
「フリーボール」などと言いなが
ら切符を改札ボックスの上に友人
と投げ捨てたりして改札を出てい
た。東急不動前とか。二輪のメグ
ロがあった所の駅。
そして、友人の不動前山手通り
に面したマンションで仮眠して、
起きたらまた玉屋に行く。
うちのほうに泊まる時には逆
パターンだ。

キューは置きキューもしていたが、
私はメインのリチャードブラック
やショーンなどは持ち歩いていた。
TADの坊主(ストレート)やアダム
やその他のキューが店での置
キュー(笑
何故キューを持ち歩くかというと、
いろんな店に行くからだ。
そして、また同じ日に常連店に
まるで常宿のように舞い戻る。
これ、休みの前などは確実にこれ
だった。
そして、台の上で眠るのだ。

映画『ハスラー』では、エイムズ
の店に入った時にエディは相棒の
チャーリーに言った。
「見てみろ。玉台はハスラーの
死体を置く棺桶だ」
と。
これは、上掲の画像の1967年の
撞球師武内鉄男の姿がまさにそれ
なのである。
息をしている時は玉を撞く時だけ。
撞球師はそうなる。
他では死んでいるのだ。
玉撞きの時だけ生き返る。
死なないゾンビよりも始末が悪い
種族が撞球師であり、ロクデナシ
の代名詞といえるだろう。

最近の目をキラキラさせて健全
ぶって健康マニアみたいな種族
がやる玉撞きは、どうにも性に
合わない。それが健全なスポーツ
だと解ってはいても。
昨夜も、まるで試合のように
コツコツと丁寧に安全にスタン
ショットで取り切ったら、相方が
言う。
「らしくない。やんちゃではない
玉。らしくない」と。
確かにそうだ。
玉をいくら入れても、撞いてる
本人もちっとも楽しくない。
「東京ヤンチャーズとかいう野球
チームでも作るか」と言ったら
相方は笑っていた。
次のマスからは、途中で9番を
バンバン落とした。引き玉の手玉
や押しの手玉キャロム、コンビ、
手玉グランドマッセ戻しでの9落
とし。試合では絶対にやらない
賭け玉の玉筋。
バンバン落とした。
そして、平玉配置にしたら普通に
全て通常通りに取り切る。
ただ、同じ取り切りでも、心の中
の在り方が違う。
過去に私と撞いた上級者は私の事
を「一発野郎」とか呼んだりし
ていた。別な人は「一八屋」とも。
一か八かの玉を躊躇なく撞くから
だ。
だが、私より年上の上級者の人たち
は言っていた。
「でも、そういう玉筋は嫌いじゃ
ない。最近殆どそういう玉撞きは
見なくなった」と。

それでも、嫌な事もあったりも
する。
ある地方の店で今はもう廃業した
店主が、私が行くといつも賭け玉
しかもちかけて来ない。プラチップ
使って。
ある時、難球配置で回って来た。
私はグランドマッセで的玉に当て
てから、手玉をレールにドンドン
と何度か沿うようにヒットさせて
から9番をねじ込んだ。
店主はとんでもない嫌な顔をして
プラスティックのチップを払った。
次から、その店では突然マッセが
禁止になった。キューを立てたら
「あ!それやめて」と店主が叫ぶ。
何故?と訊くと、あんたはラシャ
を破くから、と。ラシャなどは
破いた事は無い。一度も。
第一、直立に近い立てキューで
ラシャなどは破こうにも破けない。
マッセ日本一の肥土軍作先生は
「あーたのマッセはラシャは破か
ない。絶対に破けない。どんどん
やってくれ」と自分の店では私に
仰っていた。
マッセが禁止ならば、キャロムは
できない。一切。
また、ポッケでも、一見さんの
ど素人ではない常連にマッセ禁止
を告げる店などは無い。
その店主はTADというキューの
メーカーもジョーポーパーの事も
存在さえ知らなかった。
友人がそこでカタログで扱って
いるのを見て、ポーパーのケース
注文したら、メッヅをメーカー
から引いて来て、「これにしとき」
と言って押し付けた。
何かと、とことんせこすぎる。
私は友人の件があってから、その
店主のいるその店には一切行かな
くなった。

その店主、店に来た女子中学生に
お触りして親の訴えでパクられて
新聞に載っていた。
そして、しばらくして店は別人に
売り渡していた。
店主が代わってからの新店には
何度も行ったが、中の造作も変え
て、新しいオーナーのマスターも
ママも気さくな人で、なかなか良
い店だ。
なんとなく、昔風味の玉屋の味。
そういうとこがいいよ。玉突き
屋は。

プールプレーヤーには二種類の
種族がいる。
撞球がとても上手い撞球者か、
撞球がとても巧い撞球師かだ。
前者は健全健康くんで、目がキラ
キラしていて爽やかだ。
後者は大道将棋の真剣師や麻雀師
同じ目をしている。



キャンプツーリング ~愛知県伊良湖~

2022年02月04日 | open



学生の時、バイク仲間たちと
大集団
で愛知県の伊良湖にキャ
ンプツー
リングに行った。
最高の場所だった。



海沿いの森の中にあるキャンプ場。


夜、キャンプ場ではなく、あえて
近所の
ビーチにテントを張って
そこで
寝た。絶景だった。
いやあ、二輪野営旅というのは
いいもんだ。



プールホール

2022年02月04日 | open

アメリカの町には必ずプールホール
がある。
そして専門店でなくとも、飲食店
ではプールポケット台を置いてい
る店が多い。












こうした感じの店はアメリカでは
一般的だ。


このアメリカの店は、今は閉店
した日本の赤坂のグリーンテー
ブルという店によく似ている。


かつて、町に玉撞き場が消滅した
ので、有志でクラブを作ってクラブ
ハウスを持っていた時期がある。
5年続けたが、メンバーそれぞれ
が忙しくなり、結婚や転職転勤が
相次いだのでクラブハウスの維持
が難しくなり物件契約解除した。
最大時には18名のメンバーがいた
が、最後には創設メンバーの6人
のみとなった。ギリギリ。
そして、子育て本腰期間に数名が
入ったのでクラブはあれども、
実費のかかかるクラブハウスは
運営を取り止めた。
それでも、まるまる5年というの
は長いほうだった。
お店ではないので、月額会費で
維持。24時間撞き放題だった。
競技台を2台設置。1台は激渋台
にセッティングして訓練台として
いた。
飲食寝泊まり自由。パラダイス
空間を仲間たちは手に入れていた。


自宅にこういうルームがあれば
最高だが、なかなかこうした部屋
を持つのは難しい。


ビリヤードパーラーは街にこそある。
東京にどれだけ玉撞き場があるかと
いうとこんな感じ。


ビリヤードホールはシティにある。
それは、都市生活者と撞球が米国
でも日本でも溶け合っているから
だ。
都市の息吹はプールホールがある
かどうかで、ひとつのシティ度が
測れるようにも思える。






けやき通り

2022年02月04日 | open

中杉通り(杉並区)

1987年。このけやき通りに面して、
お洒落なビリヤード場がオープン
した。
プールバーとも違うヨーロッパ
のレストラン風。
まだレトロブームは来ていなかっ
たしその言葉も無かったが、いわ
ゆる後年呼ばれたレトロな広い
店内とシックなビリヤードテーブル
が何台も置かれた店だった。
銀座のライオンビアホールが
撞球場になったような雰囲気の
店。
銀座ライオンビアホール。
明治の文豪たちも愛したホールだ。

中杉通りのビリヤード場は料金は
高かった(笑
バブルが弾ける前に閉店したよう
な記憶があるが、その後に閉店
だったかも知れない。
赤坂見附駅前の大繁盛の店も月額
300万の赤字だった程に東京の
物件賃料は高い。店を存続させ
る事そのものが厳しいが、面積
に比して収益が低いビリヤード
場などは、自分の持ち物件でな
い限り撞球場で経営が成り立つ
例はほとんど見ない。これは
全国的に。
当然、集客営業としては、1時間
あたりの集客収益が広い場所を
占有してたった平均二人のみの
ビリヤードよりも、それの6倍
以上の収益効率のダーツ設置など
に転向して行く。

ただ、静かな勝負をしている玉台
の横で電子ダーツでデロデロピー
とか、何故か大騒ぎする連中ばか
りのダーツをやられていると、
とても感じが悪い。
ビリヤードテーブルを置いてある
店でダーツもある店は、撞球の
真剣撞きには向かない「お遊び
レジャーの店」であり、撞球場
ではなくアミューズメントという
位相に該当するといえる。
「ノーバー、ノーピンボール
マシーン、ノーボウリングレー
ンズ、ジャストインプール」
それが真の撞球場だ。
いわゆる玉屋。
碁会所でタンバリンステージが
横にあってワーワーやってたら
嫌でしょ?
そんな碁会所は存在しないけど。
ビリヤードでは、経営難からか
面積比で収益率の良いダーツを
置く店がごちゃまんと増えてい
ます。
そこ、撞球場ではない。
ダーツもダーツで、真剣なスポーツ
としてならば、ダーツだけの店に
したほうが良いのではと思うが、
分煙化と同じで、ビリヤードと
ダーツは本質的には同居できない
という事が理解されていない事が
多い。
日本固有のプールバーでは1986
年時点で店の片隅にダーツはあっ
たが、玉台の空き待ちで使う程度
だった。
アメリカの場合、純粋玉屋にも
ドリンク販売機やバーがあるが、
アメリカでは、「飲食店には
プールテーブルがある」という
感じだ。グリルにはプールテー
ブルがある。
そして、そのパブのような店で
若者も老人も酒を飲み飯を食べ、
そしてプールゲームをする。
そうした日常がアメリカには
ある。
なので、上手い下手は関係なく、
アメリカ人のほとんどが玉を
撞ける。オバマ元大統領も玉撞き
大好きだった程だし。
日本の場合は、皇族が撞球を嗜む
が、これは明治から続く社交の
常識としてキャロムビリヤードを
されるのであり、町撞きなどは
しない。

天皇の「御玉突所」


撞球は元々はフランスとイギリス
の貴族のゲームだった。
日本では幕末に長崎に西洋人が
建物の二階に設置したのが始ま
りだった。遠山の金さんが長崎
奉行だった頃。
当時、紅白のボールで穴入れした
り、穴無し台で後年のキャロム
をしたりしていたが、残された
絵図にはホッケーのような用具
でテーブル上の玉を打っている
物もある。
ビリヤードが現在のような玉撞き
になったのは1800年代中半以降
かと思われる。

ビリヤードはホッケーやラクロス
の親戚だった。




やがて19世紀に棒で玉を撞く競技
に変化した。


さらに後にフランス人がキュー先
に革を着ける事を発案した。
そして滑り止めのマジックパウダー
が発明され、英国人によってヒネリ
と押しと引きの技術が開発された。
ゆえに今でもビリヤードでのヒネリ
撞きの事をイングリッシュと呼ぶ。
卓上ゲートボールホッケーのよう
だったビリヤードは、さらに穴入れ
系と玉当て系に分岐して、それぞ
れ別々に発達した。


なお、地球上で人類初のプラス
ティックが発明されたのは、ビリ
ヤードのボール用に素材を開発
したためだった。
それまではビリヤードのボール
は象牙を丸く削るか陶器のボール
だったが、よく欠けるために新素
材を懸賞募集したところ、プラス
ティックという化学樹脂が史上
初めて誕生したのだった。
現在の合成樹脂の起点はビリヤード
にあり。
人類史の発達に撞球は貢献した。
合成樹脂が無い世の中は現在では
想像もつかない。