Efren "Bata" Reyes Super Shots Compilation !!! 8 Ball, 9 Ball Pool
ウイリー・モスコー二は偉大な男。
エフレン・レイエスはどてらい男。
愛称のバタはフィリピン語でガキ
ンチョの意味だ。
つまり、ビリー・ザ・キッドと同じ
ようなニュアンス。
ウィリー・モスコーニは畳み込む
ような圧倒的な実力で勝つプレー
ヤー。ピースメーカーのファニング
のように。
エフレンはしなやかなショット
ながら、観る者を魅了するスーパー
ショットの連続で勝つ。
ゆえに「マジシャン」とも呼ばれて
いた。
観客と場を沸かせないのはプロでは
ない。
プロスポーツのビリヤードは、ただ
玉を入れてれば良いというものでは
ない。
日本人のプロはそのあたりのエンター
テイメント性が著しく世界的に低す
ぎる。
プレー以外のエンターテイメントで
はなく、ガチのしびれる試合の中で
それを決めるのがプロフェッショナル
だ。
メジャーリーグでも日本のプロ野球
でもサッカーでもそうだ。
目先の玉入れだけやっていて、玉数
を増やすのがプロだと勘違いして
いるプレーヤーが日本には多すぎる。
勝ちにこだわり過ぎての殻閉じ者に
見えて仕方ない。その道のプロプレ
ーヤーなのか?と。
会場で大拍手喝采を呼び、観客をも
味方につけるプレーが日本人選手で
も行なう日が来ることを望む。
インタビューでエンタメやっても
駄目だしょ。玉で魅せないと。
第二次大戦前のこれが、
こうなる。50年で。
最晩年。
ウイリー・モスコーニ。
1913-1993。
世界チャンピオンを15回取った
不世出の男。
彼が14.1コンティニュアスで526
点ノーミスで撞き切った1954年
の記録は、未だに破られていない。
まだ撞けたが「疲れたからやめた」
という。
歴史上最強の世界王者ウィリーの
撞き方の特徴は、キュースピード
が速い事だ。
しかし、殺し玉も非常に巧みだ。
そして、意外な事に、「止まるな、
もっと走れ」とか「ストップ!ス
トップ!」等、よく手玉に話しか
ける。
感情的にも短気で起伏も激しい。
それは、晩年の老人になっても。
そして、玉は生きている。活き活き
している。
撞く生きた玉筋よりも彼の肉体の
ほうが持たなくなって、80才で
この世を去った。
彼以降、彼を超える人間は出てきて
いない。
エフレン・レイエス?
確かに世界一の巧者だが、ウィリー
に比べると足下にも及ばない。
そして、彼の時代には、とんでも
なく突き抜けた達人や名人たちが
ごちゃまんといた事だ。ウィリー・
ハピィにしてもそうだし、アーヴィ
ン・クレインやジェームズ・カラス
等々、化け物みたいなプレーヤー
が沢山いた。
だが、モスコーニのあとにモスコ
ーニ無し。
今でも世界一はウイリー・モスコ
ーニだ。
私が考えたスコアボード。
これだと、たとえば14.1ラック=
ストレートプールの対戦ならば、
82(赤)対103(青)という得点状態
を示している。
ナインボールやテンボールならば、
例えば5ラック先取り(15先まで可)
で、現在進行中のセットは2対3ラ
ック、総合セットカウントは8セット
対10セット、という得点状態になる。
ストレートプールならば165点、
15ラック先取なら15セットまで
カウントできる。
これ、かなり使えそうに思える。
そのうちこれを作ってみようかと
思う。
コンパクトなノート大の大きさの
木製ボードにして。
これはビリヤード用のスコアカウ
ンターのそろばんだ。
ビリヤードの種目のうち、穴無し
台のキャロムでは必須のカウント
そろばん。
アンティークショップなどでは
廃業したビリヤード場の備品が
時々出回る。
ビリヤード以外には使い道は無い
ビリヤード以外には使い道は無い
が、日本の家具職人の良い作りだ。
朝鮮と台湾は日本がかつて統治し
朝鮮と台湾は日本がかつて統治し
ていた。朝鮮半島などは完全に
日本に併合し、半島は「日本」
だった。
日本人が持ち込んたビリヤード
は戦後の返還後も韓国と台湾で
国民スポーツとして根付いた。
今では日本人は層として両国に
は完全に追い抜かれている。
80年代末期にポケットが流行り
出してからは特に顕著で、台湾
などは突き抜けた若い実力派が
多くいる。
韓国のビリヤード場。
キャロム台の向こうにそろばん
が見える。
今でもキャロム台がある店には
日本でもそろばんがある。
戦前から戦後昭和40年位までは
カウントさんというビリヤード
場の女性店員がスコアを声を出
して読んでくれた。
その呼び方は和式で、「ひとつ、
ふたつ・・・とう・・・ふたじ
ゅうろく、ふたじゅうなな」と
いう呼び方だった。四つ玉なら
2点、3点、5点なのでその加点。
戦前、ビリヤード場で撞球をする
旧制中学(現在の高等学校)の生徒。
カウントさん。
撞球場のカウントさんは美人が多
かったという。
看板娘というところか。
日本は明治初期から世界有数の
撞球王国だった。皇族や宮様の
華族をはじめ、士族も平民も皆
が撞球に親しんだ。鹿鳴館の撞球
室には6台のビリヤードテーブル
があった。
東京弁護士会の旧会館にも撞球室
にキャロム台があったのを私は見
ている。(会議室の大テーブルと
して利用されていたが、碁会室の
入口のガラスドアには撞球室との
大正時代の表示が残っていた)
そして、企業などの慰問室、休憩
室には撞球台があった。
これは、都内のある企業の社内
の部屋。撞球はスポーツとして
のみならず、国民的なレクリエー
ションとして日本では完全に定
着していた。
プール用のカウンターというのも
ある。
ボールに穴を開けて鉄棒に通す物
もアメリカには存在する。
我々撞球会では、子ども用のソフト
ボール位の大きさの軽い中が空洞
のプラボールをプールボールカラー
に塗装して、それに鉄芯を通して
2基用意し、クラブハウスの花台の
上の天井にネジ止めで設置していた。
カウントする時はキューを上に伸
ばしてそろばんボールを動かして
いた。
USA大会でよく使っている方式だ。
USA大会でよく使っている方式だ。
アメリカではプール用にこういう
スコアカウンターもある。日本で
は見ない。
コミカルでなかなか面白い。
これは黒板だ。
日本でも主流だった。
今は日本ではホワイトボードが
多い。
英米にもそろばん式のカウンター
もある。
英国式ポケットビリヤードの
スヌーカーでは独自のスコアカ
ウンターが使われている。
これなどはプールでも使える。
玉撞きのスコアカウンターは、
造りが面白い物が多くある。
自分用のミニスコアカウンター
を作るのも楽しいかも知れない。