早朝、散歩から帰ってきて、
足と体を洗った犬が私にすり
寄って来て、背中をくっつけ
て寝転んで寛ぎ出した。
その時、パソコンのイヤホン
を踏んずけていたので言葉を
かけてそれを引っ張り出した。
その時言った。
「ちょいとごめんよ」
言ってからはっと気づく。
あら、江戸弁だ、と。
私の日常語だ。
この「ちょいと」は標準語の
「ちょっと」とほぼ同義の江
戸言葉だ。大小の小を表すだけ
ではない独特のニュアンスが
ある。口語では「ほら」とか
「まあ」というのと同じ意味
を持つ。
そして、「ごめんよ」は別に
謝っているのではない。エク
スキューズミーの意味である。
「ちょっと間違えた」とか言う
と、中国地方では「ちょっと
じゃなかろう」と怒ったりする。
これは感覚としてそう捉える
ようだ。
こうした江戸東京言葉は、関東
以外、とりわけ中国地方では
正確に理解されにくい。
「ちょっと」は数量での小・少
にしか捉えられないのだ。
「ちょっと待って」という話し
言葉は「ほんの少しだけ待って」
としか捉えられないのが中国
四国地方の特徴だ。
「ちょいとごめんよ」というの
は、人混みをかき分ける時にも
「ちょいとごめんなさいよ」と
いうように江戸言葉では言った
りする。別段少し謝っているの
でも本当に謝罪しているのでも
何でもない。直訳するとまさに
エクスキューズミーなのだ。
この「ちょいとごめんよ」につ
いて、読み書きはできないが
日本語(大阪弁限定)の会話が
ペラペラの外国人の知り合いは
「その言葉は何か嫌な感じが
する」と言う。
何故かと問うと「自分が悪く
ないのに謝っているようだ」
との事。
なるほど、と思った。
江戸東京言葉に馴染みが無いと
そう捉えるのか、と。
つまり、西日本の人たちと似て
いる感覚なのだろうな、と。
つい先日、店内でドアを開けて
別室に入ろうとしたら同時に他
のお客さんとノブに手が掛かり
そうになった。
私のほうが早かったので「ごめん
なさいよ」と言って先に入ろう
としたら、向こうが言下に頭を
下げて「ごめんなさい」と言った。
私が謝ったからと受け取って自分
も謝るという言動だったのだろう。
「ごめんなさいよ」を謝罪と捉え
たのだろう。
頭を下げられたので多少こちら
が面食らった。
この場合の私の言う「ごめんな
さいよ」は「失礼、お先に」の
意味だ。謝罪ではない。
言葉の捉え方が異なる事が如実
に現れた現実シーンだった。
「失礼」と標準語を使ったほう
がよかったな、と感じた。
訪問時の御挨拶の「ごめんくだ
さい」や退出時の「ごめんなさい
ませ」も通じないかもしれない。
「ごめん」は「御免」から来た
言葉で、通行手形のような意味
であり、何かの謝罪で許しを請
う意味ではない。謝りでも使う
が、元来は意味が違う。
去る時も、武士が「さらば御免」
と言うのも、町人や渡世人が
「それじゃあ御免なすって」と
言うのも、別段謝罪している訳
ではない。土佐弁でいうところ
の「ほいたら」と同義である。
スペイン語のアディオスのよう
なものだ。
「さようなら」も武士言葉の
「左様なら」から来ている。
それも「そのようなら」では
なく、「では」という意味だ。
庄内の武士言葉の「しぇば」と
同じだ。
それが転じて江戸の口語では
「じゃあね」になった。
古い広島弁では「へーじゃーの」
だ。
古い方言はその地方でも若者
たちは使わないし通じない。
「はよーこけーきてへたりん
ひゃあ」(早くここに来て
お座りなさいな)という備後
弁などは今の広島県東部の人
たちは使わない。
私も居住地は広島県だが、言語
形成過程が広島圏域ではないの
で「けえ」という方言が「来い」
という命令形であった事はつい
3年ほど前に初めて知った。
「持ってけえ!」と言ってる
言葉が「持って行け」かと理解
してしまいシチュエーションの
中で意味不明だった。広島弁
の「けえ」は、「そうじゃけえ」
の「けえ」で「~だよ」という
時のみの言葉かと思っていた
からだ。
そうではなく、「(お前から取
り上げるから=かつあげの強奪
をするから)持って来い」の
意味だったのだ。
標準語でないと異国の人間には
通じない。
私は広島県においては異邦人だ。
これは永遠に。エトランゼである。
生まれ育ちは東京なのだからこの
歴史的事実は覆しようがない。
異国の地に今たまたま住んでいる
だけの事だし、事実そうした扱い
をあらゆるシーンで受けている。
広島をなんとか良い方向にと私
が思って言っても「そがーに広島
を悪う言うんなら、あんた広島か
ら出て行きんさいや」とつい先週
も言われたし、SNSでも「横浜へ
帰れ!」とか叩かれていた。
自分が住む町や県を良くしようと
不正行為や悪しき習慣を是正せん
と指摘したら「出て行け」となる
のだ。国へ帰れ、と。
つまり、異邦人なのである。
住民票を広島県に置こうが、広島
県人とはみなされない。
カープを応援せんといけんじゃろう、
なのだ。公共放送のCMでやって
いるように。批判は受け付けない。
自己切開、自省はそこには存在し
ない。ある一方方向に同調しない
と排除排斥対象なのだ。
そして、現実問題としては、その
異国言葉である方言は、日本の
全国区の言葉ではない。
「ちょいとごめんなさいよ」と
私が言うと「あいつは謝っていた」
と吹聴する人たちが住む地域も
あるとしたら如何ともし難い。
実際に「そいつぁ勘弁してもら
おう」と言ったら「許してくれ
とあいつは謝っていた」という
意味でSNSで吹聴された事が
広島県ではあった。
まるで違う。
「そんなことは金輪際願い下げだ。
お断り申し上げる」という意味だ。
東京人は仲間内でもひやかしたり
すると「勘弁してくれよぉ~」と
かよく言う。
ピンクドラゴンの高橋誠一郎店長
は東京下町生まれの池袋育ちだ
が、私がひやかしではなくさすが
だなと思って絶賛する事があると
「勘弁してくださいよ~」と笑い
ながらよく言う。
これは「ごめんなさい、許して
ください」と謝っているのでは
ない。「よしとくれよ」だ。
だが、広島県などでは「勘弁して
くれろ」と東京人が言うと、それ
は詫びを入れて許しを請う事かと
勘違いされるようだ。
言葉の行き違いである。完全に
対話が成立していない事を示す。
やはり、地言葉は地元人にしか
通用しない。
これは東京江戸弁においても。
「ちょいとごめんよ」の掛け
言葉が謝罪の詫び入れかと思わ
れたらたまったもんじゃない。
地元言葉は地元だけにしか通じ
ない。
見知らぬ人はどこの出身育ちか
分からないのであるから、そう
したシチュエーションでは標準語
で会話するのが日本人として当然
の常識だろう。
日本人は小学校の時から学校で
母国語として標準語を習うので
あるから、共通語として標準語
を日本語として使用すべきで
あるのだ。
私は普段「わしがやっちゃるけえ」
などとは絶対に言わない。仲良い
間柄でも。
また「おいらがやりやすぜ」など
とも決して言わない。
「私がやります」だ。標準語を
使う。公的な仕事の場などでは
「わたくしがやります」だ。
気心知れた気の置けない東京人に
対しては東京ことばで「あたしが
やります」とは言うが。
口語としては「あたし」は使うが
「わし」は自分の言葉ではないの
で一切使わないし、公的な場では
「私」を使う。東京人が多用する
「うちら(俺らの丁寧な言い方)」
も公的には仕事の場面などでは使
わない。「わたくしども」である。
さらに畏まると「弊社」であり、
「御社」も使うが、これは商談で
は最高形式の場以外では使わない。
常用商談では裃を着用しての構え
た交渉のように捉えられるケース
が多いからだ。これは地方にもよ
るが。御社は使うこともあるが、
自社の事はあえてくだけて「わが
社」であり、相手の会社は会社名
を言って表す。適切な日本語では
ない「さん」を企業名の後につけ
て。これはイレギュラーな日本語
の用法だ。「TBSさん」などと言う。
東京は人に優しい。地方に比べて。
東京で暮らす一千数百万人は江戸
時代から東京地区に住していた人
の割合よりも地方から出てきた
人たちのほうが多い。
いろんな場所から来た人たちが
東京都民になっている。
いわばアメリカ合衆国のような
ものであり、それらが皆「同国人」
として肩を寄せ合う。排除はしない。
だが、地方においては、その土地
で生まれ育った者以外は「イテキ」
とみなす。そして排除する。表面
では友好を装いながらも徹底的に
根底では「異端」とみなす。
そうした現実は、21世紀の現代に
あっても日本は各地に残存してい
る。
これは現実だ。
おいらぁ正直なとこ言うと、江戸弁
という弁当を三食食っていてぇよ。
そいつぁおいらにとっちゃ松花堂
弁当より幕の内よりうめぇぜえ。