失敗したなぁ。
先日、友人とサテンに行った時、
バーガーではなくピザトースト
にすればよかったなぁ。
喫茶店の定番、それはピザトー
スト。
これは東京の喫茶店が考案した。
それとナポリタンよね。ケチャ
ップ味の(笑
パスタ屋さんのナポリタンは
トマトソースで、サテンは
ケチャップ(笑
高校の時によく行った池袋ロマ
ンス通りの蔵王って喫茶店では、
サービスでトーストが食べられ
た。
あれは結構腹っぺらしには助か
ったぜ。
あと、ブクロでは国鉄駅構内の
立ち食いエリアの「素うどん」と
ど真ん中にあるアメリカンテイ
ストの店の「ハムカツサンド」
がうまかった。
ハムカツ屋では必ずミルクセーキ
を飲んだ。
その立ち食いエリアは21世紀に
入ってもそのマンマの店舗で
残っていたので、広島からの
都内出張の時に驚いた事があ
った。
JR構内大改修によって今は消滅
した。薬屋?みたいのになってる。
いつものたまり場は立教大のそば
の喫茶店で、いろんな高校の子た
ちが集まっていた。
そこで中学の頃の同級生たちと
顔を合わして談笑する。
広いテーブル占領して勉強して
いるグループもいたりした。
私は女子大附属の子や立教附属の
昔のバスケ部仲間、豊島岡女子の
子たちとはその喫茶店で待ち合わ
せしていた。
とんでもない仕打ちをするうち
の高校の教師をぎゃふんといわ
せる作戦を立案したのもその店
だ。
謀議だね。共謀共同正犯の子たち
は他の高校の子たちも多かった。
都会の喫茶店。
それは憩いの場。
スタバとかドトールとかのカフェ
というのは、他人行儀っぽくて
あんまし好きではない。
謀議の店広げられないし(笑)。
学生街によくあった喫茶店。
そいつがいいのさ。
渋いマスターやおばちゃんのいる
店ね。
私が生まれて初めて自分
一人で喫茶店に入ったの
は中目黒だった。
山手通り外回りに面した
店。1970年、小学校4年の
時だ。
そこでジュースとサンド
イッチを食べた。
当時横浜に住んでいたが、
週一で生まれた家のそば
の歯医者に通院していた
のだ。東横線に乗って。
一人でバスや電車に乗って
移動するのは小学校低学年
からやっていた。
私の世代では普通だ。
今でも東京のちびん子たち
は、ランドセルが歩いてる
のか?というおちびさんの
女の子でも、山手線に乗って
私立の小学校とかに通ってる。
また、私より上の世代は、
都電に乗って都内どこでも
行っていたようだ。都内は
地下鉄よりも都電が縦横無尽
に走っていて、どこにでも
行けたから。
初めて一人旅をしたのは
5歳の時だった。1965年。
東京駅から新大阪駅まで。
新幹線に一人で乗っただけ。
大阪府庁勤めの母方の大叔父
の家に遊びに行った。大学
では野球選手だった人。後に
政治家になった。その後教育
関係者になり、天皇から勲章
貰ってた。
おじさんが大阪城と通天閣に
連れて行ってくれて、私が大
好きだった阪神タイガースの
帽子を買ってくれたのがとて
も嬉しかった。子どもがいな
い家庭だったので私の事はい
たく可愛がってくれた。
その阪神の帽子は神奈川でずっ
と被っていた。
翌年、その帽子を被って広島
三原の父方の実家に一人で行
った。
新大阪まで新幹線で、あとは
在来線で。
三原の家で阪神の帽子がなく
なった。
訊いても「知らんよ」と親族
は言う。
あとで母が問い合わせると、
「あがーなもんここでは被らん
でええんじゃ。カープの帽子
だけ被っとればええ」との事。
帽子は?と母が尋ねると
「そがーなもん捨てたで」との
回答だった。
昔から今もそうだが、相変わ
らずだ。昔も今も何も変わって
いない。
人の心とかはお構いなしだ。
日本全国いろんな土地柄がある。
私は悪口を書いているのでは
ない。事実を書いている。
中目黒駅の改札を出て左を見た
この風景は50年前とあまり変わ
っていない。
多少ビルが高く新しくなった
程度で、大昔からこのような
感じだった。
私が上目黒(青葉台)に住んだ
のは幼稚園入園前までだが、住
民がとても優しかったのをよく
覚えている。かなり覚えている。
良い思い出も嫌な思い出も忘れ
ない。まるで映像シーンのよう
に思い出す事ができる。
(不思議と覚えているのは声
なんだよね。これは50年以上
経とうと脳の中に残っている)
風景も、町の雰囲気も、変わって
いいものとよくないものがある
のだろうか。
人のえげつなさとかがある土地
は、そんなもんはとっとと変わ
ったほうが良いのだが、地方の
田舎は根っこからそれなので
変わりようがないし、変えよう
とも地元の人たちはしもしない。
田舎は永久にイナカだ。
社会的な後進性とかではない。
発展や発達や変革や革新や刷新
等々とは無縁の別物なのだ。
建物インフラが新しくなったら
発展かと勘違いしている。
根本から違うよね、それって。
人性の悪しき部分を捨象して
いく自己切開無き土地柄は、
未来永劫なにも変わらない。
文明開化さえ到来していない。
私が生まれて初めて自分で
立って二足歩行した場所は
新宿御苑だった。
江戸時代から広さ変わらず。
信濃高遠藩内藤殿の下屋敷跡だ。
大名の屋敷ってどんだけ広い
んだよ、とか思う。
広島藩四十六万五千石浅野家
の家老が治める三原三万石と
変わらぬ三万三千石が内藤家
の石高なのに、大名になると
さすがに別格だ。
屋敷の敷地内で銃猟が出来る
ぞ。鴨射ちとか。
新宿御苑は戦後になって一般
開放された。
私が初めて歩いたのは戦後15
年程の頃だった。
東京は東京大空襲で10万人が
死亡し、100万人が罹災し、
焼け野原になった。
だが、たった15年後には街は
復活していた。
戦後の日本人、本当に頑張って
くれた。
東京1945年。
東京1960年。
私が生まれた年の12月。
幕末の義士たちよ 集合せよ!(雪組公演)
宝塚歌劇団の人たちにはスマホ
首が一人もいない。
これは宝ジェンヌたちが人体
構造と機能を深く理解して、正
しい立ち方、歩き方をしている
事を示している。舞台上だけで
なく、普通に歩く時も。
さすがである。
一方、武道や武術をやる人たち
の中には、非常に不健康で、首が
完全に前に出てかつ前傾している
スマホ首の人たちがかなり多い。
人体骨格と運動機能についての
知見に乏しいからだ。血流は良く
ないし、様々な内臓疾患の起因
となる。筋肉も歪む。
また、ひどいのになると、整体
等で有能と自らYouTubeなどで
宣伝している整体師で、ひどい
スマホ首の人間がいたりする。
本人がそのような姿勢骨格に
変形しているのに、その者が
施術をしてドヤ顔している。
滑稽だ。
宝塚を見習ってほしい。
武道も歌劇も日常生活も、
まず、立ち方、歩き方からだ。
ミュージカルは配役がそれぞれ
小坊主たち。
のだ。
女性アイドルは全員が聖子ちゃ
んカットにした。ほぼ全員が(笑
松田聖子を超える存在は松田聖子
以外にはいない。
キョンキョンのショートは自分
った人。厚木のヤン坊。
プライベートでも原付スクーター
のではないよ。お椀ヘル被っ
てた。原付はメット要らない
時代でも。実際に見ると顔が
めちゃくちゃ小さい。可愛い
おサルさんみたいな感じ。
最初はこの髪型でデビューだった。
冷酷な卑劣漢のギャンブラー、
ゴーシュのボスの列車強盗団の
銃はフロントサイト削り落とし
幕臣黒田重兵衛。三船敏郎。
のみ)、また、生放送をカバー
できないのか、ローカル局で
も放送してない。かなりカル
チャーショックだった。
1973年の事。
まで続いていた。いや、ほん
とに。
まんまこの風景だ。1980年代で
も。
これ。それより外は江戸時代も
今も変わらない。田園地帯だ。
牛はかなり後年まで見かけた。
1973年時点では市内の農家に
牛がまだいた。
アメリカ西部開拓よりも速度は
惹かれて行くチャールズ・
ブロンソンのリンク。
人像を描いていた。
『レッド・サン』でこそ描
かれている。
レッド・サンとは日本の事だ。
主人公はブロンソンでもドロン
でもなく、三船敏郎なのだ。
べし、観るべし、観るべし。