今年も日本のメーカーはダメです。
だんだんYUZOと化して行く
本間ちゃん(笑
正論が正当とは評価されない
暗黒の時代。
現代はまさにその時代だ。
だが、そうした傾向性は1980
年代のレースシーンにも存在
した。正論主張者が排除される
構造は確実にあった。
ただ、ましだったのは、今の
時代よりもずっと正論を正論
としてきちんと捉えて、そし
てそれを活かそうとした人た
ちが今よりも大量にいた事だ。
企業のトップ陣営の中に。
今はほぼどの業界の企業でも、
そうした血の通った脳の力を
持つ人間は見かけない。
表層の上辺だけ、数字だけを
追うのが仕事だとか勘違いし
ているのが企業のトップ陣営
に巣くっている。身体を腐ら
せる病原菌のように。
総じて「若い世代」だ。
駄目っすね、そもそもの素地
が。
歴史から深く学ぼうとしない
連中ばかりだから。
本間ちゃんの言うように、こと
しも日本の二輪メーカーは世界
の舞台でドツボでしょう。
自分で泥沼に足踏み込んで、何
で足が汚れてんだべ?みたいな
んだから、助からないす。
日本のオートバイは競技車両も
公道市販車も2010年あたりまで。
古い90年代ー80年代のほうが
二輪としては優れている。
これ、確実。
理由?
作った人が違うから。
鮨職人でも、先代が名人で、その
跡取りが手前勝手な好き放題や
っていたならば、味も当然変わ
るし、そのうち身代暖簾が傾く
のは必定。
今、日本の二輪メーカーがそれ。
世界の本間利彦。
世界トップクラスの速さながら
(ヤマハの金谷さん以来の世界
トップレベルの人かも)、マシン
開発の才能が抜群である男。
今は一介の個人的ゴルフ修行人。
ところで、内戦や天災等で苦し
むミャンマーの子どもたちの為
に現地に彼は小学校を建てた。
そういうロードレーシングライ
ダーがこれまで日本にいただろ
うか。
戦後高度経済成長時代の人に
はお馴染みだが、現代の人た
ちにはちんぷんかんぷんの物
が今の時代には結構ある。
今ではマッチなどもその一つ
だが、もっと決定打がある。
完全絶滅危惧種だ。
それが牛乳瓶と紙のフタ。
そもそも、牛乳瓶の牛乳がそこ
いらでは売ってない。
小学校の給食でさえ、私が小学
生の頃の1970年頃には三角の
透明パックになってストローで
飲んでいた。低学年の頃は給食
室から牛乳をケースで運んだ。
当時でさえ、牛乳瓶は各家庭
への朝の配達牛乳や駄菓子屋
のような店舗や銭湯などにしか
無かった。
やがて三角ビニールパックは紙
パックに替わった。たしか1970
年代初頭ではなかったか。
1970年時点では、横浜ではまだ
透明三角パックが主流だった。
そんな昭和40年代の時代には
ごく普通に存在していた牛乳
瓶と紙のフタ。
今ではマッチのように絶滅し
かけている。
牛乳瓶のフタは私は集めなかった
が、今ではコアなマニアがいる
らしい。
牛乳瓶のフィルムを剥がすのは
煙草のフィルム剥がしと似てい
るが、多少コツが要った。
そしてそのフィルムは画鋲を刺し
たら直進性が向上するので、手投
げ玩具となった。教室の壁に投げ
て刺す。滅法面白い。
私の小学校では禁止になった。
ならばと技を向上させて、画鋲
のみ単体で投げてかなりの距離
でも刺さる打ち方を習得した。
ちょいと技が要る。手裏剣打ち
と同じように技で画鋲を打ち放
つ。投げるのではない。打つ、
のである。インジも手裏剣も
投げるのではなく打つのだ。
投げるのは石ね。当時市街地で
敷石剥がして投げていた全学連
や野次馬のサラリーマンの見学
連のように、石は投げる。イン
ジと手裏剣は打つ。
それも危険だからと禁止になった。
だったら本格的にだと、一斗缶の
蓋を平に叩きのばして、四角い
ギザを尖がり三角に全周鉄鋏で
カットして手製手裏剣を作った。
人体に刺さると動脈を切ったら
死亡する。ブリキ板のフタの半
分くらいまでベニヤなどには刺
さった。
男たちの間で大流行した。
だが、禁止になった。
授業中に教壇に投げて刺した
バカがいて、学校で問題にな
った。
作ったのは誰だとなり、私は
校長と教頭に大目玉をくらい、
反省文を書かされた。指導内容
は、危険すぎるもので玩具とは
認められないとの趣旨だった。
有害な物を作るのは健全では
ない、とのことだった。
そうかえ?じゃあ今も原爆や
水爆作ってる物理学者は全員
極悪人だな、とガキなりに確
信した。
学級委員は辞任しなかった。
圧倒的得票で毎年学年全期の
うち二期は学級委員だった。
強制的に辞めさせる決まりは
整備されていなかった。戦後
民主主義が未成熟だったから
だろう。
今の時代はファシズムの時代
だから、学校当局の腰巾着の
ような奴しか学級委員とかに
はならないみたいだけどね。
我々の時代は小学校から大学
まで、プロテストの時代だ。
反動権力への抵抗戦線こそが
人民の正義だった。
それは小学生においてさえも。
その後、日本酒の王冠のコルク
栓を蹴って外して王冠のみで
カーリングのようなビリヤード
を机の上でやる事を考えた。
大流行した。
禁止になった。バクチだからだ
との事で。
学校にメンコ、ベーゴマは持ち
込み禁止だったが、王冠は指定
されていないので、考え出した
教室での対戦ゲーム開催だった。
休み時間に。
かなり白熱した対戦が展開され
て面白かった。相手の王冠を指
定枠内に当て落としたらいただ
き。
指でデコピンのように弾いて
相手の王冠を弾き飛ばす。
複数人でやった。ワーワーと
盛り上がりながら。
でも禁止。
またおまえか、となった。
学級委員は辞任しなかった。
バクチだからだめだってさ、と
の事で、校庭でワンバウンドの
ドッチボールみたいなゲームを
二重の四角エリアでやるボール
ゲームとして考案した。
お先真っ暗だねという事で、
ガンバコという名称にした。
大流行した。改良版の新ガン
バコも隆盛を極めた。
ただ、「光化学スモッグ警報」
が発令されて、校庭から建物内
に避難するのがたびたびだった。
子どもたちの休み時間は、公害
という公的な害悪によって阻害
され、さらに健康にまで被害が
及ぶのが現実社会だった。
国家と企業という国の行く末を
牛耳る日本社会の権力の欺瞞的
な大嘘により、子どもを含む国
民全体が苦しめられていた。
それは小学生だろうとピシャリ
と見抜いていた。
我々は歌った。
「知らなかったよ 空がこんなに
青いとは」
と。
それは横浜の小学校の卒業式での
合唱曲になった。
人々は苦しめられていた。
老若男女を問わず。
誰に?
そこなのだ。
空がこんなに青いとは
おかしぃ〜(笑)。
事言えないんだけどさぁ。
備中足守藩の武家屋敷の土間と