渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

全餅連

2021年12月30日 | open


全国餅つき文化保存連合会の一員
として、本日大量に餅をついた。
餅ついて、二輪車で尻餅つかない
為(嘘

今から外国人の友人宅に届ける。
つぶあん、こしあん入りがあり。

あんこ無しのほうはいそべ焼きに
すると美味いのだけど、あれは
やはり江戸の切り餅に海苔巻く
ほうがイケるよなあ。
四角い東京餅のほうがあれはよい。

まあ、外国の人も日本の伝統的な
食文化を味わってくれたら嬉しい。


日本刀 「三原」派の流れ

2021年12月30日 | open


備後国の日本刀である「三原」派
は、本阿弥による五箇伝中心主義
から長く「脇物」として下作の
ように扱われて来た。
だが、戦国期に著しい切れ味を示
す事が知れわたると、武将たちは
こぞって「三原」の刀を求め始め、
「三原」は備前と並び備後刀とし
夥しい数が製造された。
出来の良い「三原物」は瑕疵無く、
結果、「古三原」は天皇の御物に
さえなっている。

三原の城と町が登場したのは戦国
末期であるので、それ以前の時代
に「三原」と銘ある刀剣は現在の
三原の地で作刀された物ではない。
これは物理的に確実だ。
どこかの三原と呼ばれた「未発見
の土地」で鍛刀された。
しかし、刀剣界には中央集権主義
が蔓延しているため、未だに「古刀
三原は今の広島県三原市で作られ」
などと解説している刀屋や書籍が
多い。大デタラメだ。その頃の現
三原はただの海である。

それらは、脇物として五箇伝以外
の地方刀剣を格下に見下す視点が
正確な公正な研究や検証をしよう
としない心根に直結している。
その一つに、「三原」の刀工群の
来歴を大和鍛治に見る誤認がある。
これも、大和伝が日本刀の祖に近い
存在なので、そこに持って行きたが
る粉飾といえる。
「三原正家公式」とするウェブサイ
トがあるが、これも権威主義を笠に
きる噴飯物だ。三原正家を大和の
偉い鍛治で天平年間に生存したと
し、うちはその子孫で尾道の町を
肩で風切って歩いていた、と自慢
する。
こうした邪な発想こそが真実の
歴史を隠蔽しねつ造する。
歴史的な事実としては、広島藩庁
から呼び出された尾道五阿弥の
当主はお調べに対し「三代より
以前はよくわかりません」と言上
し、詫びている。
先祖を粉飾僭称する事は死罪に
値する時代の厳しい詮議に対し、
尾道の鍔工だった五阿弥は答えて
いるのだ。
しかし、近年、自由主義の時代と
なり、尾道五阿弥は、自家を三原
正家直系とし、市内に勝手に石碑
まで建て、さらに最近ではネット
で「公式」として来歴を「家伝」
として公表している。
「当流にはそう伝わっている」と
するねつ造武術流派と全く同じ事
をしている。
これらの共通性は、「先祖を中央
の権威者だった」とする事による
権威付けで威張りたい事に目的が
あり、正当な学術的調査や物理的
な文献史学や考古学的検証は避け
る。全ては「と伝わっている」と
いうものだ。
こうした自己自慢の欲求に基づく
発想は、日本の歴史の公正で正確
でアカデミックな解明の阻害とな
るので、存在が社会的に害悪なの
だ。
尾道五阿弥については、浅野家の
公式取調べにおいて「来歴不明」
と確定している。
現代は引き立てられて打首になら
ない時代だからと、家歴の脚色と
粉飾が過ぎるのは、さすがに宜し
からぬ行為だ。
それは、日本刀の存在と日本の歴史
と伝統文化をも侮辱する。
それでは、いくら自慢げに「肩で
風を切」ろうにも切れない。
また、武家政権時代に武士を前に
肩で風切って歩けたのか、歩いた
のか?と問いたい。
尾道市中は浅野家三原城士の管轄
だ。そこでそれをやったのか?と。
出鱈目の言は推参にも程がある。
ちなみに尾道市は市中の石碑に
対して「歴史的事実とは無縁」と
公式見解を示している。
五阿弥の末裔(自称)は「日本刀
発祥の地」とまで大風呂を広
げる刻印を為すまで至っている
からだ。
それは、勝手に「卑弥呼誕生の
地」の石碑を建てるに等しい。
「我が家にはそう伝わっている」
で何でも許される訳がない。
現代でも社会的に公序良俗の観点
から宜しくない利己的な行為だ。
江戸時代なら首が飛んだ事だろう。

「古三原」の刀を詳細に観察すると
それは決して大和ではなく、備中
青江や備前鵜飼派(宇甘派)の雲生
らの作法の影響を受けている事が
看守できる。ヤマト気質よりも
そちらのほうが格段に強い。
また、備後刀で法華一乗を「三原」
の祖とするのも時代が合わないの
で疑義がある。
さらに、国分寺助国を「三原」の
祖とするのは、なんら連綿性の確
証は無い。

そして、「古三原」は、まさしく
青江や備前鵜飼に近似なのだ。
さらに時代が下った末三原におい
ては、そうした作域ではなく、
安芸大山宗重派や周防二王派に
瓜二つになってくる。
「古三原」は備前鵜飼派の影響
(もしくは同派系統)を受けた
備後刀工群が国分寺尼寺跡から
芦田川沿岸に派生し、古代山陽道
沿道に点在して隆盛をみたその
一系脈なのではなかろうか。
さらに、後代には備後刀工群の
作風と安芸大山の延道彦三郎宗重
派と周防二王派との作域の共通性
も見逃せない。
二王は大和派の流れと、これまた
「三原」と同系の「伝説」を有し
ているが、大胆な仮説を言うと、
これも「古三原」と同じ後世の
創作ではなかろうか。大和国で
仁王像の扉の鎖を断ち切ったと
いう伝説と共に。

そして、あくまでも私が実見する
限りでは、古三原と鵜飼は似てお
り、さらに両者には粟田口等の
京鍛治の作域手癖が見られるので
ある。鎬を中央付近に持って来る
日本刀の発達史の中での大和気風
は「古三原」には見られない。
鎬地狭く、むしろ備前のそれを
現出させている。
また、鉄の鍛えと働きにも山城の
作域の特徴が現れているのである。
直刃も柾目も「三原」は少ないが、
一見直刃に見える古式小乱れを
以て「直刃→大和伝」としている
のだとしたら、あまりに早計過ぎる。
また、備後地方には大和国からの
仏閣が多い故大和鍛治も僧兵の
武器需要と共に大和から備後に
下向した、とする説も、何ら文献
史学的な根拠を示しておらず、想像
の域を出ないもので、それを三原=
大和伝とするには、実際の「三原物」
を実見していなさ過ぎる。
まず、実作がどうであるか、だ。
そして、それは決して大和伝が中心
の技法列伝としては存在しないので
ある。
鑑定でよく判らなければ「三原逃げ」
というのがあるが、刀剣の真贋の
目利きとしては、非常に宜しくない
態度だ。限界性はあろうとも、正鵠
を射る事から逃避してはならない。

「三原」も鵜飼と同じく道統の
ルーツは大和ではなく京都なので
なかろうか。
さしあたり、三原のルーツは大和
本国から直ではなく備前鵜飼(宇甘)
派かと思われる。
また、青江鍛治と古三原の近似点
も、実刀精査の面からは見逃せない。

岡山県岡山市北区御津の宇甘川。
私も仕事でよく通ったが、実に
美しい土地だ。





心得違い

2021年12月30日 | open


私の差料の一つは天正年間の古刀
であり、樋が掻いてある以外は
特別な事はしていない。
これは日本刀である。

だが、空気切りの試合人の中には
多少刃筋が狂おうとも、笛のよう
に風切り音が派手に鳴るような
特殊設計と加工をした鋼の延べ
板を試合用に使用している者も
幾人もいるという事実を先程知っ
た。

よこしまですね。
倫理観に欠けます。
やってはいけない事をなりふり
構わず目的の為に実行する。
まるで原爆投下を正当性ある行為
と主張しているのと同質の人間的
悪意を感じます。

伝統武芸を研修研鑽して学び取ろう
とする事の中身が、空気切り試合
でトロフィーを得る為に特化され、
それを正当化して実行する。
試合自体は自己研鑽の成果をみる
にはよいものなのに、そこにその
ような奸計を持ち込むのは道を
外したみにくく汚い行為だと思い
ます。
勿論、日本の伝統的武芸や武道
でも武術でもありません。
あるのは狡猾な邪(よこしま)な
心と、武士の心とは無縁の目先の
打算でしかない。
そして、それはどこまで行っても
ハリボテ。

だから、いつまで経っても、畳表
一つまともに剣技で切れなくて、
切れないのに空気切りのごまかし
しながら大層な分かったような
自分ができる剣士かのように虚偽
を繕っているんだろうなあ。
真実から目を逸らせているから、
エアポーズは踊りのように「上手く」
なっても、全く真の刀法ができて
いない。
できていないのに、年月経てば免状
は上に行く。
そこで先生と呼ばれて、また勘違い
に拍車がかかる。

今、自分が使っている刀で畳表を
切れますか?
切り結びの剣戟=斬り合いにその
「刀」が使えますか?
使えないとしたら、それを持って
いる事も、それでやって試合とかの
旗上げに一喜一憂している事も、
すべてニセモノです。贋物。
それは武技ではないし、日本刀で
もない。
まして、邪な得物を用いて旗上がり
を目論むなどというのは、それを
剣士とは呼べない。
大ニセモノです。

剣道の竹刀が重量に厳しいレギュ
レーション規定があるように、
日本刀を使った空気切り競技でも
試合には厳格な重量規定があれば
いいのに。
二尺三寸五分なら鞘払い900グラム
以上、とか。試合前に検量して。
違反した刀は使用禁止、試合後の
検量で違反発覚の場合は出場停止、
みたいな。
剣道のほうは、それは厳格にやって
います。勝つ為に何でもやるような
卑怯な軽い竹刀を使わせない為に。
公正妥当を剣道では期しています。
邪な竹刀使用は許さない。

日本刀を腰にする剣士は、真実の
人であってほしいと切に願います。

ワニ

2021年12月30日 | open






まあ、葛城だけでなくワニ族も金属
生産だと思うよ。
木材って素手で伐採して素手で材木
に加工できると思う?
鉄がなければなんにもできない。
鉄の製造から利用まで一貫した
システムを構築していたのがワニ
なのでは。
白兎に騙された頃は、あれは産鉄
集団の勢力員数の数え調査と信じ
込まされてヤマトにやられたんだけ
どさ。それとその騙しへの報復譚。
事の後に美化して白兎を助けた
ヤマトのミコトを良い人ぶった
伝承にしてしまっているけどさ。
ヤマトから派遣の出雲攻略傀儡化
の担当者のミコトを。同時派遣の
担当者のミコトたちとの確執も
伝えてはいるが、それさえも別
な複数の担当者を悪者の「兄」と
して描いている。出向者の間の
イニシアチブ争奪戦さえも美化の
御伽噺としてしまう手口は古代
権力者のプロパガンダの常套手段
だ。そして「神話」化させる。

わがワニ族は太陽信仰と製鉄技術
を持ってこの列島に1世紀頃やって
来た。大元は扶余族だ。
今のロシアのバイカル湖のそばに
いた。イエス誕生以前の頃は。
氏族は列島でのちにワニ→春日→
小野と名を変えて行く。

交通事故注意

2021年12月30日 | open
















年末。
この時期各地で重大事故が起きるの
は毎年の事ですが、くれぐれも十分
に運転にはご注意ください。



渋谷のとんかつ屋

2021年12月30日 | open


今は東急渋谷駅のキャッツアイ
だけが虚しく残る渋谷の国道246
青山通りのガード。駅舎は無い。
かつて、このガードのこの画像で
左側のガード下には1960年代から
営業していた古いとんかつ屋があ
った。
私は職場の後から入ったけど上司
になった同僚に連れて行ってもらっ
た。年は一回り上。
元早稲田大学のブント叛旗派で
青学に亡命政権で行ってた人。
早稲田という大学はナチス革マル
の暗黒支配により、カクマル以外
のセクトには拉致リンチが強行され
るので、ある時期以降は、各セク
の活動家はよその大学に亡命して、
そこで活動するしかなかった。
私の先輩である同志も拉致されて
椅子に縛りつけられ、千枚通しで
カクマルにぶすぶすに刺された。
彼とは第五インターナショナルの
建設を画策していた。オランダを
足掛かりに計画を具体的に進めて
いたが頓挫した。
青学は中大と並ぶ共産同=社学同
叛旗派の拠点でもあったので受け
入れ先として機能していた。落語家
の今の円楽などは青学の叛旗派の
お偉いさんだった。
こうした現象はどこの大学でもあ
り、明学大からは中核派を旧ブント
マル戦前衛派が深夜の火花散る
鉄パイプ同士でのゲバルトにより
叩き出し、明学大の中核派は横浜
国大に全員亡命した。
だが、その報復で中核派の拠点大学
の法政大からはマル戦前衛派は中核
からゲバルトで叩き出されて、明学
亡命し駐屯していた。
こうした現象は各大学にみられた。

その渋谷ガード下のとんかつ屋、
殊の外うまかった。
初めて行った時、ソースに気づいた。
これリンゴと玉ねぎ擦って煮込んで
るでしょ?と店主に訊いたら、それ
を言い当てた客ぁ初めてだ、と言っ
ていた。
カツは薄かったが、とにかく美味し
い店だった。
きったない古いカウンターだけの
狭い店。
でも、味は最高だった。
今は無い。
渋谷駅大開発で廃業したようだ。
残念。

その初めて行った時の連れて行って
くれた当時の職場の同僚は私と共に
映画「釣りバカ日誌 5」に映って
いる。


その映画の紹介記事はこちら。


正月の花

2021年12月30日 | open


正月の花を生けり。





資質

2021年12月29日 | open
 
戦争にも戦闘にも争闘にも闘争
にも
殴り合いにさえ疎い脳内妄
想の病者
は、情勢も状況も刻一
刻と変化し、
過去の取り決めも
確認事項も遺棄さ
れたり変質し
たり追加されたり改変され
ると
いう事に頭は回らない。
知力が覚束ないから理解がで
きない。
まして、表に発した裏での取り
交わ
し事情の真実などには到底
考えが及
ばない。
無論、それは高度な政治判断で
相互合意による和解収束と、
外への
擬似的情報発信による鎮
静化行動という
真実さえも見抜
ない。
それらの脳が幼稚な愚者は過去
事例をいつまでもバカの
一つ
覚えで掲示して鬼の首
を取ったような
つもりにな
る。バカだから馬鹿の
覚え
かできない。それのみ。
当事者たちが高次元に対処した
世界
観とは全く別物の世界にう
ごめく
知力の低い俗人。
当然、知力だけでなく政治力も
経済
力も戦闘力も軍事力も無
いだろう。
ある者はそれはしない。
公けの場で確実な違法犯罪行
為を
続けているという自覚
ない暗愚は救われない。
しかし、そんな哀れな愚者にも、
この暖かい社会は救済の手を差
伸べてくれる事だろう。
だが、汚濁の場での愚者の寄り
合い
がその救済かと思い込むと
したら、
救われる術は存在しな
い。
あとは、医師の処方を待つばか
りだ。
 
一方、戦史は傭兵と民兵以外の
隊ではどこでも学ばせる。
自衛隊などはかなりきっちりと
争の歴史を学習させる。
古今東西のあらゆる戦争の歴史
おいて、条約は常に一方的に
破棄
されて来た。
「綺麗な戦争」などは存在しな
い。
愚かな事だが、これが歴史の事
だ。
こちらはこちらで、かなり意地
い事がそれぞれの「正義」と
して
敢行される。
これもまた暗愚の極みだ。
そして、戦争は「準備」される。
誤報を誤報としてではなく垂れ
しにする。
その行動が国家において開始さ
たら、段階が戦争準備段階に
入っ
たと確定できる。



目黒川

2021年12月29日 | open


目黒川。
この川の横を走る山手通りにある
病院で私は生まれた。
父がいて母がいる。
だからこの世に生まれた。
これの意味は大きい。


綺麗に見えるがどぶ川。
落ちたら死にますよ、程の。




中目黒のあたりは狭い運河みたいだ。


これは昭和初期の目黒川。


世の中に汚染も公害も無かった頃。
一部足尾銅山や水俣の慢性的公害
はあったが、公害が全国で深刻に
なったのは戦後の高度経済成長に
よるものだった。
小学生時代には横浜では光化学
スモッグ警報が出ると、空襲の
ように避難して屋内で待機した。

戦前は都内も全国どこも川は綺麗
で、目黒川でも染め物の晒し洗い
をやったりする程に清流だった。
なんたって、サンマが海から遡上
して目黒で獲れるくらいなもん
でして、ええ(笑

これは戦後昭和30年代の目黒辺り。
鎗ヶ崎から中目黒方面。
各方面から来る路面電車は中目黒
が終点だった。路面電車は基本的
に旧江戸府内を縦横無尽に敷設さ
れていた。江戸の果てが電車の
果て。電車は明治時代に開通した。


現在。


中目黒近辺は戦前から山手側は
御屋敷街だったが、目黒川沿い
は下町のように小さな工場が並
ぶ工業エリアだった。
今の山手通りの両脇にはずらっと
小規模な金属加工工場と商業店舗
が並んでいた。これは昭和40年頃
まで、中目黒はそうした景色だ
った。今は工業施設や企業の多く
は埼玉や神奈川の奥地に移転して
いる。


目黒川沿いは昔から桜の名所でも
あるが、落ちたら死ぬぞ的などぶ川
なのに、最近では桜見物クルーズ
があるらしい。


広島市内にも水上クルーズがあるが、
それはサツキマスも遡上する清らか
な広島市の市街地の川での事。
こちらのわが目黒川はまるでどぶ川
運河である。浴びた水飲んだら死ぬ
だど。


夜景とかは綺麗なんだけどねえ。

都内の川では、渋谷川というのが
あったが、暗渠になっている。
渋谷駅前から原宿を流れて、古川橋
の旧大名屋敷街あたりに注ぐ。
途中から渋谷川(しば川)は古川と
名を変え、麻布の赤羽橋を抜けて
江戸湾に出た。
麻布赤羽橋は、幕末に清河八郎が
幕臣佐々木只三郎に斬殺された
あたり。

清河は斬られて当然の事をして
いた。
幕府が将軍上洛に向けて京都警護
の為に募った浪士隊を丸ごと乗っ
取って倒幕のテロリスト部隊にし
ようと京都まで行ってから下知を
勝手に出した。幕府役人は仰天し
て即、浪士隊を江戸まで戻らさせ
た。
その時に、京都に残って天皇と
将軍を警護し、京都の治安維持
にあたろうとしたのが新選組だ。
その壬生駐屯の浪士隊は京都守護
職松平中将の御預かり組となった。
会津藩に元々あった藩兵部隊の
名を取って新選組と名乗った。

清河は新政府成立後には勲功の人
として従四位が贈されているが、
幕末江戸期には、今で言うなら、
清河は過激派テロリストである。
連合赤軍や丸ノ内企業爆破のグル
ープ反日武装戦線「大地の牙」
や「狼」と全く同じなのだ。時代
の中にあっては。
まあ、もっとも、京都を火の海に
して京の民を虐殺し、混乱に乗じ
て天皇を拉致して世の中を牛耳ろ
うとしていた勢力が武力で明治新
政府をでっち上げで作った。捏造
した錦旗を使って。
そうしてやった事を正義として今
でも日本の教科書では国民を洗脳
教育している。
勝てば官軍。何でもアリだ。
幕末の倒幕派は人道も武士道も無視
したテロリストであり、英国公使館
(大使館)焼き討ちなどもしている。
また、戦争では武士としての作法
も精神も捨てて、私利私欲で敗残
の兵に対して非人道的、非武士道
的な措置を実行していた。
近藤勇への切腹ではない斬首など
はその典型例だろう。
今の日本国は、その幕末の無慈悲
なテロリストたちの末裔が牛耳っ
ているのが事実だ。
戦前などはもっと洗脳教育はひど
くて、新選組や足利尊氏などは
国賊として洗脳教育していた。
また、旧幕府側の藩=県の部隊は
明治から昭和20年までの各戦争に
おいても、危険度が高い戦線に
まず投入された。東北や越後の
人々は差別され、死んでこいの
方式で真っ先に投入された。
それが大日本の「聖戦」の姿で
あった。
幕末の非道なテロリストの末が
やりそうな事だ。
国権を私して人々を苦しめ国を
牛耳る族を亡国の徒と呼ばずし
て誰を呼ぶ。彼らこそ国賊であ
る。
そして、彼らは多くの日本人民
を死に至らしめた。
ある日突然、赤い紙切れ一枚で
家族を引き裂き、死を強制した。
幼い私の母と母の妹は、「おとう
ちゃん、行かないで、行かないで」
と泣いてすがったが、祖父は
「お国の為」と振り払い出征した。
そして南方戦線で米軍機の機銃
掃射で「名誉の戦死」をした。
祖国の家族のもとに届いたのは
戦死の知らせと勲章一つだった。
そして、母と母の妹はててなしご
として育ち、戦争には行かなくて
済ます事ができた特定の層から見
下される子ども時代を祖母と共に
ひっそりと過ごした。
好きでててなしごになったのでは
ない。国がそれを強制したのだ。
そして、「名誉の戦死」をした者
の家族を戦争に行かなかった戦わ
ない奴らがあざ笑った。
祖父の戦死の知らせが来た時、
子どもたちの前では平静を装って
いた祖母が、一人奥の部屋で嗚咽
を押し殺すように泣き崩れている
のを母は鮮明に覚えていると言う。
泣くことさえも許されない世の中
にされていたのだった。

日本の主権を握る幕末過激派の
末裔たちの作ってきた日本は、
ちっとも美しい日本ではない。
それをさらに取り戻そうとする
なんて、なにをするのよ。それ。

渋谷川のルート。




渋谷川の暗渠部分には原宿キャット
ストリートと呼ばれるエリアもある。


50年ほど完全暗渠だったが、2014
年に枯渇した渋谷川を掘り起こして
復活させようというプロジェクト
が実行された。


パリをイメージさせたいのか。


しかし、河川復活でどんなに活性
化させようとも、それが人為的な
掘割であるならば川とはいえない。
これが川と呼べるのかどうか。
こらまた落ちたら死ぬよ系だが、
目黒川はまだ目黒川として汚れた
川でも川は川だ。
しかし、渋谷川は暗渠後に完全に
水が途絶えて死滅した。
それの復活って・・・。
なーんか何かが違う感じがする。



美人の法則

2021年12月29日 | open


美人の法則というものがある。
それは、美人は歳をとっても美人
である、という事だ。
若い時からの美人は時が過ぎても
美人のなのだ。これ不思議。






酒井和歌子さんも柏木由紀子さん
も70プラスいくつかの時。てか
現在。柏木さんのほうが歳上。
二人とも、なんだこれ?なのだ。
これ、ザ・女優マジック。


但し、世の中、美人が正義ではない。
どう転んでも顔の作りは美人でな
ない、というよりブス系?に入るの
になぜかどうにも可愛いという存在
の人たちがいる。
松本ちえこさんなどは典型だった。


決して美人ではない。








だが、私が中学から高校時代、
人気だった。私も私の周りも大好
きだった。
特に中延女子高に通っていた頃の
彼女がとんでもなく可愛かった。
品川の中延女子は文京区のうちの
学園の女子高に制服がよく似てい
た。箱ヒダのスカートに白い独自
ブラウス。
今は制服丸変えが全国潮流なので
昔の良いデザインを残す高校は少
ない。女子高のボレロタイプなど
は絶滅したのではなかろうか。
しかし、学習院や雙葉とかは伝統
を守って昔ながらの制服だ。

この頃の松本ちえこが大人気で
めちゃ可愛いのだが、見方によっ
てはムーミンだ。


映画「博多っ子純情」の時の松本
ちえこのかわゆさ。
これ、作品を観ていても、可愛い。
ぶさかわとはこの人が始まりなの
ではなかろうか。
しかし、後ろの男子高校生たち。
ゲバヘル(笑
時代なりか。




突っ込むとたーーいッ!
どこに?(笑

男が突っ込むとこは決まっとーばい。




強大な権力に対してぶっ込むのさ。
怒りの斬撃を。
くろがねの魂の鉄鎚を。


美人

2021年12月29日 | open


1968年夏。
いとこたち3人で小学生だけで東京
から関西に旅をした。新大阪までは
新幹線を使った。グリーン車を利用
したがガラガラで、乗客はわれわれ
ともう一人、女性だけだった。
私たちは宝塚に行くのが目的だった
が、宝塚絡みの偶然か、その車内の
女性は八千草薫さんだった。
そらあーたもう、超絶お綺麗でした。


八千草さんは京都で降りた。
撮影だったのかも。当時37才。
昔の37才はおばちゃんだが、八千草
さんは娘さんのように若く美人だっ
た。
その美人さというのはただの美人で
はない。透き通るような感じ。
ただ、車内の冷房が強すぎるから
なんとかならないかと車掌さんを
呼んでいた。女優さんぽかった。
京都で降りた時、ホームに出てから
八千草さんはサングラスをかけた。
真っ白の上下、下はややミニ。
私たちのほうを見てニコリと笑って
バイバイと八千草さんのほうから
手を振ってくれた。
映画のワンシーンみたいだった。


あれはもう谷口監督の奥様になって
10年も過ぎていた時の事だ。
谷口監督は黒澤明監督とも親友で、
戦前に早稲田大学時代に東野英治郎
たちと演劇で左翼的表現をして特高
から弾圧されて大学を中退した。
黒澤明もプロレタリア映画表現者だ
った。私の高校の先輩だ。

とにかく、茜さんのお弁当。
めちゃくちゃ綺麗だった。
その新幹線で八千草薫さんの美貌に
打たれた68年の9年後の1977年春先、
ヤマハはのちのスクーターブームを
作る革命的な原付バイクを発売した。
それまで、50ccのスクーターは
存在しなかった。
これは45年後の今に続くスクーター
ブームの先駆けだった。
宣伝のメーカーイメージキャラクタ
は八千草薫さんだった。


主婦層をターゲットにした画期的で
衝撃的なCMだった。
「やさしいから乗れます」という
「優しさ」という文言を使ったの
もヤマハのこれが史上初だった。
簡単という意味と人に優しいと
いう意味で、これも今の「地球に
優しい」という妙な造語の魁だ。
ヤマハの先駆性がよくわかる。

ただ・・・。
テレビで毎日流れるCMを見ていて
正直思った。
こんな綺麗な主婦なんているかーい!
と。世間一般のそこらの主婦はきっち
りとおばはん一直線だど、と(笑
東京は大阪ほどではないけれど。


私がレーシングチームからチーム
オフィスへの通いの足として借り
ていたのはこの色だった。無償で
これ使えと出たばかりの新車を
貸与してくれた。

このパッソルを見た時、たまたま
東京に来ていた母が「これいいじゃ
ない。ちょうだい」とか言ってた。
チームからの借り物だからダメだと
言たら、「ふーん、そう」とか
言っていたが、母は転住したばかり
広島に戻ったらヤマハを買って
いた(笑
それまでは母はスズキの原付に乗って
いた。
歳は八千草さんのほんの少し下だが、
今も母はヤマハのスクーターに乗
っている。
太極拳もこなすしインプレッサも
転がすし、今でも時事問題を私と
議論する。全くボケてない。
ありゃ100才コースだな。

八千草さんが亡くなった時、母と
テレビ番組を見ていたら、若い時
の八千草薫さんの写真が多く紹介
されていた。
綺麗だったねえという話になった
が、「あら、あたしと変わらない
じゃない」とか言う。
それね、ヨーロッパと広っぱ程
違いますから。

不良少年

2021年12月29日 | open

私は補導常連の不良といっても、
こっち系ではかった。


こっち系。無頼ですね。
坊主に木に吊るされたりはしな
かった。
むしろ高慢な坊主は懲らしめた。



地下鉄化

2021年12月29日 | open



東京の私鉄の地下鉄化がどんどん
進んいる。
どうも馴染めない。
町から私鉄沿線の風景が消える
からだ。

昔の野口五郎の歌に「私鉄沿線」
というのがある。
最初の出だしの歌詞はこうだ。
 
 改札口で君のこと
 いつも待ったものでした
 電車の中から降りてくる
 君を探すのが好きでした

この風景からある事が見える。
それは私の生まれ故郷の東急東横線
の中目黒のよう駅ではないという事。
なぜならば、改札口では電車から
降りてくる人は見えない。
ホームが大昔から高架だから。

東急東横線中目黒駅。
1927年(昭和2年)開通。


2010年


1967年


1963年


1936年


野口五郎の「私鉄沿線」の駅は
中目ではない。開設当時から(笑
ただ、地面と同じ高さの場所で
住宅街の中を走る東京の私鉄沿線
は、そこに何かいい知れない温も
がある。
風景に人々の息づかいが聞こえて
きそうな。























東京都内の東急線沿線って、いいよ。
町が。



ブクロ

2021年12月29日 | open

池袋ロマンス通り。

ここで高校の時14回補導された。
今のトー横キッズとは違うよ。別物。
まあ、いわゆる「不良少年」ですけ
どね。非行少年ではない。
そのうち私服とも顔馴染みになった
りしてさ。
ある時、高1の時連れてた彼女に対
して説教してやがんの。
「君はいい学校に行ってるんだか
ら、こんな奴と付き合っちゃダメだ」
(ママ)と。
まあ、可愛いお嬢様ガッコの子だっ
たけど、中学の時のバスケ部で一緒
だった彼女だ。バスケ部の女子は
全員可愛いの不思議な法則あり。
彼女たち関東大会で準優勝してた。
てか、こら私服、お前余計なお世
だ。


ぶらんでーと東武の屋上から建設中
のサンシャインの夜景を学校帰りに
二人でよく眺めてた。サテン帰りに。
「きょうは何階まで出来たね」なんて
言いながら。
ブクロわが街。

ピンドラ

2021年12月29日 | open


誠一郎店長と久しぶりに電話で
話をした。
うちのメンツが九州からドカーン
と弾丸で高速走って・・ではなく
シコーキで誠一郎さんに会いに
行くというので、その段取りの件。
ピンドラがずっと応援してくれて
いるレーシングライダーだ。

店長高橋誠一郎さんは日本刀の人
であると同時に、ハーレー以外に
もガンマに乗ってたりもした。
ピンクドラゴンの人が2ストガンマ
というのもあれ?とは思うが、
とにかく、突き抜けが好きなのが
ピンクドラゴンなので、マシンは
差別しない。トラも好きだし。
これ、私がピンクドラゴンに惹か
れる理由の一つで、彼ら「原宿
を作った」男たちは、伊達や酔狂、
流行りや廃りでは生きていない。
それは山崎さんの思想でもあり、
そうした「ロックは永遠」「50's
は流行ではない」というピンドラ
の深いコンセンサスが魂のコアだ。

かくいう私も70年代ツッパーであ
るが、高校の時の新宿怪人二十面
相通い時代から、私のコア部分は、
山崎さんの思想への心酔だ。
ブームではない。
これだよ、とマジでティーンの俺
は思った。
そして、セイちゃん。
昔は可愛い顔してた。俳優さん?
みたいな。
赤いスタジャンとか赤系が似合う
人でさ。

その高橋誠一郎さんから日本刀
関係から連絡を向こうから貰った
時には、あれ?この場所、もしか
して誠一郎って、あのピンクドラ
ゴンの高橋誠一郎さん?となり、
ちと動揺した。
私は誠一郎店長と直に話すのは初め
てだった。
ピンドラは、高校の時から製品含め
てずっと愛好者だった。だって、
創始者山崎さんの時代にピンドラの
社会に媚びない思想に惹かれていた
から。
ツッパリブームだからじゃない。
そこに漢を見ていたから。
健さんの孤高の突撃に似た。

で、その店長高橋誠一郎さん本人
からのダイレクト連絡が私にあっ
たのは、私の中では「えー?」だ
ったのだ。
これはバリ伝を実際に描いていた
チーフアシから連絡あって知己に
なった事や、ヤマハのある機種
最高責任者から私の存在がその車
種の誕生に大きく作用したと連絡
を貰った事や、バリ伝グンちゃん
のグンヘルの大元のヘルメットを
被っていた人で著名なライターだっ
ご本人から連絡貰って、今後も
バリ伝宜しくと言われた事と並ぶ
私にとっての晴天の霹靂だった。
だって、セイちゃんだもの(笑
ヤマハから私の存在により開発ヒン
トを「最初から最後まで」(統括
責任者の言ママ)得て、あるモデル
が誕生したというのは今でも信じ
られないが(笑
でも、それと並んで、ピンドラの
店長高橋誠一郎さんが直に私に
連絡して来たというの今でも
信じられない(笑
ま、バリ伝イニDのチーフもヤマハ
の人もそうなのだけど。
刀術家の町井勲先生も向こうから
連絡貰って大親友となり、今では
毎日のように連絡を取り交わして
いる。

来年は渋谷のお店ほうに行か
いとなあ。
実は今は閉店した原宿ではなく
渋谷の店には行った事が無い。
で、私が世話した誠一郎店長の
日本刀二口はこの上なく快調
だそうだ。よかった、よかった。
誠一郎さんは言ってた。
「刀の事やろうかなと思ってた
時に貴方を知ってしまったよ。
どうしてくれるんだ」と。
爾来、昵懇におつきあいして
いただいている。

世の中、偶然て怖いね。
おいらの生まれた時の家と誠一郎
さん邸は同じ町で目と鼻の先(笑
あるっても5分位だ。
そこから渋谷までは1キロちょい。
当然なにかと東急線には馴染みに
なる。
あのキャッツアイの壁の東横線
渋谷駅は好きだったけどなあ。
なんとなく駅の雰囲気がミラノ
ぽくて。

ちょい前の東急東横線渋谷駅。



こちらミラノ駅




ほんのちょい前までの東横線渋谷駅。
上に見える電車は地下鉄銀座線ね。
日本初の地下鉄。昭和2年12月27日
に上野-浅草間に開通。東洋初の
地下鉄。
東横渋谷駅は私が生まれた時から
これだった。
今はこの駅舎は無い。
地下鉄になってしまった。


これの真正面の最上階に五島プラ
ネタリウムがあった。
小学生の頃から東急のプラネタリ
ウムは行きまくりだった。
東横線は渋谷-横浜を結ぶので、
ハマっ子は渋谷によく出た。
また、目黒区内の人も中目黒あた
りはもうほぼ渋谷駅そばなので、
買い物や遊びは渋谷だった。
私の両親も渋谷が馴染み。
そして、父方の伯母は伊達町(現
恵比寿三丁目)に大きな敷地で
屋敷を構えていた。大邸宅。
戦後から婦人服のデザイナーを
やっていた。縫い子さん何十人
も抱えて。
うちらガキンチョは「渋谷のおば
ちゃん」と呼んでいた。
1960年代はシルクのスカーフを
なびかせてサングラスかけて車を
運転していて、おばちゃんちょいと
カッチョよかった。

渋谷はガキの頃から馴染みの場所
だ。中高時代は池袋と新宿が根城
になってたけど。