この論文、めちゃくちゃ面白い。
地球の自転が2000年前には早か
った事まで計算値に組み込んで、
天岩戸の該当日食がどれである
のか、自然科学と文献史学の両面
から検証アプローチを試みている。
いいね~。こういう学究。






広島から東北に移住した友人がい
理由はこれ。

東北がパラダイスならば、北海道


に。

悪魔の釣りを楽園を超えて天国で



これはうまそうだ。




アットゥシ


映画『キャバレー』(1986)では

ターキーはフラスクの平ボトルも

角川映画『キャバレー』で出て来た







貴方は名古屋の名所、喫茶マウンテン
ポール・ニューマン(1925-2008)
リベラル派の俳優ポール・ニューマン
はオハイオ州クリーブランドの郊外に
あるシェイカーハイツという自然豊か
な小さな町で生まれた。今でも人口
は2000人ほどだ。
クリーブランドについては、記憶に
面白いものがある。
それは、ニューマンの代表作でもある
『ハスラー』(1961)の作品で、DVD
の日本語吹き替え版にのみニューマン
の故郷のクリーブランド行きのバスの
発車案内がバスセンターの中で女性の
声で放送されるのだ。
英語原語でもバス発車の案内放送は
あるのだが、「クリーブランド」と
いうのは聴き取れない。言っていない
のかと思う。
もし、日本語吹き替えのみでクリーブ
ランドという地名を吹き替えシナリオ
に追加で出したとしたら、本書きの
ライターはかなりのポール・ニューマン
ファンだったのではなかろうか。
(映画『ハスラー』についての考察)
↓
この世紀の名作『ハスラー』の
続編が25年後に公開された『ハス
ラー2』(原題「ザ・カラー・オブ・
マネー」)だ。
そこでのニューマンの演技は鳥肌
が立ちそうな程の名演を見せる。
せりふ回しが物凄い。声の音圧や
緩急や強弱高低が。
これは取るのではと思っていたら、
アカデミー賞主演男優賞を『ハス
ラー2』で獲得した。
物語のテーマは前作の1961年版
『ハスラー』(原題「ザ・ハス
ラー」)と同じテーマだ。
ビリヤードの世界から足を洗い、
密造酒まで扱う酒卸しの業者と
してエディ・フェルソンは多少
の財を成す壮年期になっていた。
だが、たまたま自分の事務所の
下のバーの馴染みのママに密造
酒を卸す商談をしている時に、
銭金関係なくプールで勝負をした
がる若者と出会う。
それがビンセント(トム・クルー
ズ)だった。
エディはビンセントが金を賭けず
とも勝負を望む姿に驚く。
そして、若き日の自分を重ねて、
ビンセントに勝負師としての教え
を授けようとする。アメリカ東
海岸を旅して修行させるのだ。
だが、弟子であるビンセントに
は最終的に裏切られる。
なんと師匠に対してハッスルの
八百長バクチをかますことを
考えが至らないビンセントは
やらかしたのだ。それをすれば
師匠が喜ぶかと思って。
てんで解っていないバカ。
エディの彼女であるバーのママ
はビンセントの事を「あのチン
ピラ」とまで罵った。
そして、八百長バクチで儲けた
8000ドルを賭けてエディと
ビンセントは勝負する。
本当は銭金ではない。銭は賭け
ても人の尊厳を踏みにじっては
ならない。それは死んだかつて
の恋人サラに教えられた事だ。
エディはそれこそを若きビン
セントに教えたかった。
んが。ビンセントはパッパラ
パーでまったく理解能力が
ない。エディはたびたび頭を
抱えていた。
金は賭けても心は賭けない。
金で心を売り渡す事もしない。
人から心を奪う事もしない。
純粋に勝負に徹する。
エディはそれを微細な駆け引き
としてのハッスル旅をする事で
教えたかったが、最終師弟対決
という顛末になってしまった。
そしてビンセントはおちょくる。
「俺には勝てっこない」と。
エディにはブランクがあり過ぎ
たからだ。
ビンセントの言いざまは旅に出る
前にエディが小さなスポンサー
ドをしていたハスラーのユダヤ
人がエディを口汚く罵倒する
のと同じ態度になっていた。
だが、エディの撞球師の腕とし
ては、修行旅の途中、25年ぶり
にキューを握って撞いたナイン
ボールでは、いきなり1マス目
からマスワリをエディは出して
いた。
ビンセントは「さすがだ。OK!
ボス」と言って感動していた。
最終決戦で「俺に勝てっこない。
負けたらどうする気だ」とおちょ
くられたエディは、「また次が
ある。そのまた次も。いくらで
も這い上がる」と答える。
そして、笑顔でブレイクしながら
"Hey, I'm back!" と叫んで
ヂ・エンド。
戸田奈津子の字幕翻訳は「カム
バックだ」としているので、相
変わらず映画作品がまるで解っ
てない。
エディが口にしたのは I’ll be back
でも comeback でもないのだ。
もうすでに戻っているのである。
心の在りようが。
サラに教えられた往年の目覚め
たエディ・フェルソンに。
それは、酒売りのエディ・フェ
ルソンではなく Fast Eddie の
不死鳥のような蘇生なのだ。
ただ、『ハスラー2』では、残念
ながら、旅の途中で、妙な色気
を出したりするビンセントの恋
人の泥棒のカーメンにエディは
「ふしだらな恰好をするな」
と躾けるが、ビンセントもカー
メンもまったく何でエディが
そうなのか理解できない。
それどころか、最後の最後まで
ビンセントはエディの真意を
理解しようとはしないただの
賭け玉撞球人と成り果てて
しまっていた。人の尊厳をも
踏みにじるような。
この先、ビンセントは救われ
るのか。
エディは、皮肉にもビンセント
の駄目さ爆発ゆえ、大切な事
を思い出した。
さて、ビンセントは・・・。
多分、この先も変わらないよう
な気がする。
「俺はもっと瘦せたほうが
いいかい?」とエディをカモっ
た場末の玉突き屋をウロチョロ
する小銭稼ぎの詐欺師のような
人騙しのハスラーになること
だろう。
『ハスラー』(1961)と『ハスラー2』
(1986)のエディ・フェルソンとビン
セント・ローリエでは、根本の人
の資質に差があり過ぎる。
ただ玉突きが巧いだけが人として
価値あるものではない。
その事を両作品は視聴者に冷酷に
突き付けるのだった。
映画「アメリカン・ドリーマー(1971)
予告編(出演:デニス・ホッパー )
アメリカン・ニューシネマの
デニス・ホッパーの監督作品。
アメリカン・ニューシネマは
当時の時代背景を知らないと
理解不能の映画だったり、展開
や結末が意味不明に思えたり
するかも知れない。
メッセージ性が強く、娯楽作品
とはいえないからだ。
そして、大抵、主人公は最後に
は死ぬ。強大な「力」に潰されて。
それは映画作品の物語の中で現実
世界を描いていたからだろう。
不条理な現実世界を映像作品に
する事で、単なる反体制とか
そのようなレベルではない広範
に及ぶ問題のえぐり出しを「淡々」
と描くのだ。
1960年代後半からのサブカルの
台頭がまだカウンターカルチャー
としてのアンチテーゼを有して
いた時代の新手法の描写映画が
アメリカン・ニューシネマだ。
代表作は『イージー・ライダー』
や『明日に向かって撃て!』等。
そして時代は70年代に入り、
全世界的な「敗北と敗北感の
共有の時代」、「内向性精神閉塞
の時代」となる。
これらの世相は音楽シーンにも
影響を及ぼした。日本などはその
典型だ。没社会的な音楽に人気
が集中した。
さらに、1980年代に入ると、日
本のサブカルは完全商業主義的
趣味的領域の欲求補完の為だけ
に機能するものになってしまう。
パンクが気を吐いたが、打ち上げ
花火のようなものだった。
そして、混迷の1990年代、日本
は経済氷河期。アメリカは予定
通り「定期的に戦争を起こさな
いと成立継続しない国家」として
の「通常通り」の戦争を始める。
ベトナム戦争介入以来だ。
そして、21世紀に入り、アメリカ
はまた「予定通り」に戦争を開始
して国家を潤した。捏造テロを
稚拙な自作自演でやらかして。
合衆国で生まれたネオコンによる
歪んだ「グローバリズム」の波は
日本にも押し寄せ、徹底的な格差
社会を「勝ち組、負け組」の虚構
概念で貫徹し始めた。
1960年代と決定的に現代が異なる
のは、そうした資本や権力の動き
に対して、若者たちが従順に尻尾
を振る事で「良市民」ぶりたがる
傾向性がマジョリティを形成した
事だ。
これは、戦略的に国家が長期戦略
で「作出」した国民そのものであり、
今世紀に入り20年経過した現在も
それが続いている。
デニス・ホッパーの銃はFAL。
自動小銃はFALで決まりだ。
FALが軍用自動小銃の決定版。
FALは撃った事無いけど(笑)
70年前の骨董品だが、今また
「砂漠の戦争」ではベルギーの
FN FALが見直されて、サード・
パーティーの銃器会社が精度の
高いNC加工で、ダスト・ディス
チャージ機能を付加させて復活
させている。
傭兵たちにはショートバージョン
FALが大人気だ。

なんで丸いのでしょうね。

これでしょ?

丸いのは宇宙の真理なのかもなぁ。





ごくフツーに道の脇に白樺がある
ものなぁ。
道路なんて何だかずっとまっつぐ
だしよ~。
とにかく広いす。
怖いのはガス欠とクマだな(笑)。
ここはなんだか、映画『イージー・
ライダー』のラストシーンの道路
みたいな感じだ。