【なのに、大極殿を模した平安神宮の社殿は屋根全体が緑釉瓦!】
瓦はおもしろい。全く同じ文様を持つ古代の軒瓦が何百キロも離れた場所から出土したりする。これは「瓦当笵(がとうはん)」という瓦の型がわざわざ運ばれたことを示す。非常によく似た文様の〝兄弟瓦〟が見つかることも。その出土によって、同じ文様の図面を基に作られた型で瓦が生産されたことが推測できる。瓦技術は6世紀後半、飛鳥寺を建立する際に初めて百済から伝わった。出土する瓦の種類や文様、量などから、仏教文化の発展状況や建物を造った人の地位、勢力の大きさなども教えてくれる。まさに歴史の生き証人だ。
その古代瓦の収集・研究で知られるのが奈良市の帝塚山大学。付属博物館と考古学研究所が共催して、古代瓦に関する市民大学講座を4月から連続開催している。9日に開かれた5回目の講座では、同大学の卒業生で現在、京都市文化財保護課で文化財技師を務める鈴木久史氏が「平安時代の緑釉瓦」をテーマに講演した。
緑釉瓦は瓦に鉛を主成分とする釉薬を施し緑色に発色させたもの(写真は平安京豊楽殿跡から出土した重要文化財の緑釉軒瓦)。奈良時代から作られ、平城京・東院などの宮殿や大安寺、西大寺などの官寺の屋根を飾っていたが、大量生産されるのは平安時代に入ってから。平安京内では政治の中枢・大極殿、外国使節をもてなす豊楽殿、国家的儀式を行う神泉苑、国家鎮護を祈願する東寺と西寺の5カ所の建物に貴重な緑釉瓦が使われていた。出土したのは軒先を飾る軒丸瓦や軒平瓦が中心。このことは緑釉瓦が奈良時代と同様、屋根の縁取りを強調するような使われ方をしていたことを示す。ということは、大極殿を模して造られた平安神宮社殿の屋根が全面緑釉瓦で葺かれているのは間違いということになる。
平安時代の緑釉瓦の生産は官による一元的な監理の下で行われ、生産地は洛北地域に限定されていた。一方、緑釉の陶器類も元々官営工房で生産されていたはずだが、次第に東海、東濃(今の岐阜県東部)、近江など各地に拡散していく。尾張国で緑釉陶器の生産が始まった背景について、鈴木氏は「嵯峨天皇の存在があり、その流通には嵯峨源氏が関わっていたと推定することができる。利権が大きく関与していたのではないか」と推測する。
だが、その緑釉など施釉陶器の生産も平安後期、平清盛が日宋貿易を始めて輸入陶器が入ってくるようになると次第に衰退していく。緑釉瓦の生産も11世紀に入って様相に変化が出てくる。絶大な権力を誇った藤原道長は52歳で出家して法成寺(ほうじょうじ)を建立するが、その金堂に緑釉瓦が葺かれた。法成寺は官寺と異なり、いわば貴族の私寺。しかも、その緑釉瓦を生産・供給したのは洛北ではなく丹波だった。緑釉瓦や緑釉陶器の生産・流通の背景にはその時々の権力が働いていたというわけだ。