く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を陰で支えた日本人たち」

2012年09月08日 | BOOK

【北出明著、交通新聞社刊】

 第2次世界大戦勃発時、リトアニア駐在の日本人外交官、杉原千畝(1900~86)はナチスドイツに追われたユダヤ人に日本通過ビザを発給、多くの命を救った。その偉業は知れ渡っているが、それを支えた人々がいたことはあまり知られていない。著者は「杉原の行為を人知れず陰で支えた人々の存在も忘れてはならない。特に杉原に恩義を感じているユダヤ人社会の人々にもそのことを知ってもらいたい」と本書執筆の狙いを記す。

   命のビザ
 

 著者は1944年三重県生まれ。大学卒業後、国際観光振興会(現国際観光信仰機構、通称日本政府観光局)に就職、ジュネーブ、ダラス、ソウルの在外事務所に勤務した後、コンベンション誘致部長などを担当し退職。ある時「日本交通公社(現JTB)70年史」の「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」の項を読んでいて、JTBから振興会に出向していた元上司「大迫辰雄」の名前を見つける。「当時毎週1回の割で二十数回にわたって日本海を往復、添乗斡旋にあたった」とあった。

  シベリア鉄道でウラジオストクにたどり着いたユダヤ人を敦賀まで運んだのは日本海汽船が所有していた「天草丸」。もともとはロシア船だったが、日露戦争で日本海軍が拿捕し民間に払い下げられた。この客船を舞台にJTBが彼らの逃避行を助けていたというわけだ。日独同盟関係の中で、人道的見地から難民輸送業務を引き受けた背景にはJTB育ての親といわれた「高久甚之助」の意思が働いたのではないか。著者はこうみる。

 大迫氏は乗船中にお世話したというユダヤ人7人からもらった顔写真を大切に保管していた。著者はその7人の手掛かりを得たいと、杉原ビザを手に敦賀を経て米国に渡った〝杉原サバイバー〟とその家族に会うため渡米する。その中には杉原の恩に報いるため2000年マサチューセッツに顕彰碑を建て、その年、大阪での「杉原千畝生誕100年記念式典」に招かれた男性や、手書きの杉原ビザが記載された両親のパスポートを杉原の生誕地、岐阜県八百津町に寄贈したNY在住の娘さんたちがいた。敦賀までたどり着きながら日本通過ビザがなく、いったんウラジオストクに送り返されたユダヤ人たちがいたという新事実も判明した。ただ肝心の7人の消息は不明だった。

 ユダヤ難民の多くは神戸港か横浜港から最終目的地に向かった。彼らを運んだ船の大半は「日本郵船」所属だった。2000年5月ワシントンのホロコースト記念博物館で特別展「逃走と救出」が開かれたが、同年3月6日付日本経済新聞によると、日本郵船はかつて難民を輸送した〝縁〟で同展に資金面で協賛することになったという。同社はその記事の中で「ユダヤ人を差別することなく運んだのは会社の誇りの一つ」とコメントを寄せている。

 最後に日本郵船元社員で、1940年5月、サンフランシスコまでの約2週間、ユダヤ人約200人の食事の世話をしたコックの「今村繁さん」を紹介している。「最初の2日間はすべて消化の良いものを作りました。……毎朝4時前に起きジャガイモ、タマネギなどの食材を細かく切る作業をしました」。ユダヤ人の代表が下船の直前、パーサーにこう言い残した。「飲まず食わずの状態で逃げてきた私たちにとって、この船で受けた厚遇は一生忘れられません。出された料理は全ておいしかったです。お陰で生き返ることができました。どうか、食事の世話をしてくださった料理当番の方々に私たちの感謝の気持ちをお伝えください」。パーサーからこの話を聞いて、今村さんは「コック冥利に尽きると思いました」という。今村さんはその後、ホテルオークラで宴会の責任者だった時、「蝶理」の役員歓迎食事会で主賓の杉原千畝を見かけたそうだ。

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