※この原稿は今月1日送信しようとしたところ、なぜか送信できなかったものです。企画展はすでに終了しています。
【斑鳩町教委、約6000点を3年がかりで調査、町指定文化財に】
法隆寺西側の西里地区にはかつて社寺などの建築・修理を手掛ける匠の専門集団が多く住んでいた。そのうちの一つに江戸時代活躍した大工棟梁の安田家がある。その安田家から古文書や絵図など約6000点の寄贈を受けた斑鳩町教育委員会は3年がかりで調査した結果、学術的に価値が高いことが判明、昨年12月、町の文化財に指定した。それを記念した企画展が斑鳩文化財センターで開かれている。
安田家は江戸幕府の大工頭、中井家の配下で禁裏御所(京都御所)や城郭など多くの作事・普請に携わった。中井家の中井正清(1565~1619)は徳川家康に重用され、畿内・近江国の大工を束ねて二条城、伏見城、江戸城、名古屋城、御所、知恩院、法隆寺、日光東照宮などの造営・修理に当たった。安田家はその正清の下で宗三郎が名古屋城や東照宮などの造営で棟梁を務めたとみられる。この後、宗兵衛、杢兵衛、武太夫信成、武太夫和茂、武太夫休茂、治部太夫幹茂と、明治初めの中井家による大工支配の解体まで大工職を継いだ。多くの棟梁家が京都に居を移す中で、最後まで西里に留まり続けたのが安田家だった。
企画展では江戸初期の「日光山東照大権現御造立上棟之記」や「東林寺棟札」「東大寺大仏殿建地割図」(上の写真㊧)、「禁裏御上棟絵図」から、中後期の「二條御城御天守御修復御入用帳」(写真㊨)や「仁和寺御台所屋根取絵図」などまで33点の史料を展示中。このうち東大寺大仏殿建地割図は江戸時代の大仏殿再建に際して作成された計画図のうち最も古いと推定される貴重なもの。二条城の入用帳は修復の経費をまとめたもので、延べ593人の大工と154人の木挽(こびき)が動員され、21貫余の銀と15石余の米を要したことが記されている。
巨大な鉄湯釜(1619年)と風折烏帽子(1855年)も目を引いた。鉄湯釜は中井家の第2代正侶の後見役、中井利次が法隆寺の末寺で大工の拠点だった東林寺修南院に寄進したものという。烏帽子(上の写真㊧)は箱書きに安田治部太夫幹茂が御所造営の上棟式に際して新調したとある。棟梁は御所の上棟式に参列し、朝廷から国名を含む官途名である受領名を与えられることが慣例になっており、幹茂も「下総少掾」の名を頂いた。「安田家に伝わる人形」(写真㊨)はその時の幹茂の姿ではないかと推測されている。