【中大兄皇子・藤原鎌足の蹴鞠の場面・密談・入鹿討伐などが生々しく】
奈良県立万葉文化館(明日香村)で2日から県指定文化財「多武峯(とうのみね)縁起絵巻」全4巻の特別公開が始まった。絵巻は談山神社(桜井市)の所蔵で、室町時代後期の作品。法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠での中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)の出会い、多武峯山中での密談、そして蘇我入鹿を討伐した「乙巳(おっし)の変」の場面などが生々しく描かれている。鎌足を祭神として祀る談山神社では3日「けまり祭」が行われる。絵巻公開は12月8日まで。
絵巻は絹本着色で、縦幅は48.2cmと通常の絵巻より広い。横幅は上巻1・2、下巻1・2の4巻合わせて約19mもある。もとは上下2巻だったが、元禄13年(1700年)の修理の際に4巻に改めた。絵を描いたのは絵師として最高位の宮廷の〝絵所預(えどころあずかり)〟だった土佐光信(土佐派中興の祖)とみられ、絵の中に配置された43カ所の漢文の詞書(ことばがき)は公卿一条兼良の自筆といわれている。
この絵巻は談山神社の前身である多武峯寺の由来を描いたもの。ただ全体のほぼ4分の3を藤原鎌足(614~669年)の生涯に当てており、寺の縁起というより鎌足を顕彰した伝記の感が強い。上巻1は鎌足の誕生に始まり、蘇我入鹿が山背大兄王ら聖徳太子の子孫を滅ばしたこと、そして有名な蹴鞠での2人の出会いが描かれている。詞書によると、中大兄皇子の沓(くつ)が鞠を蹴った拍子に脱げ落ちると、入鹿はその様子を見て笑う。一方、鎌足は沓を拾って皇子に渡す。これを機に2人は親密になる。
上巻2では専横ぶりが目に余る入鹿の対処について皇子と鎌足が山中で相談し、皇子は「もし天位に就くことができたなら、臣の姓を藤原に改めよう」と言う。密談した場所を「談岑(とうのみね)」といい、後に「多武」の2字を用いるようになったという経緯を記す。続けて645年のクーデター「乙巳の変」の顛末を生々しく描く。
「入鹿が入って座に着くと、中大兄は12の通門を全て封鎖させて、長槍を手に大極殿の側に隠れ、中臣の連は弓矢を持った」「中大兄と中臣は剣を抜き入鹿の肩を切り裂いた」。驚いた皇極天皇に息子の中大兄皇子は「鞍作(入鹿)は天皇家を尽く滅ぼして、皇位を傾けようとしております」と奏上する。
入鹿殺害の場面については諸説を上げて詳細に記している。「一説に中臣の連が太刀で入鹿の肩を切り落とし、次に中大兄が剣で首を打ち落とした。すると、その首は高御座(たかみくら)の戸に飛んでいった。また一説に首が飛んで御簾(みす)に食らいついたといい、首が石柱にかみつき40回飛び上がったともいう」。入鹿の父・蝦夷は翌日「誅戮が我が身に及ぶのを知って」火に飛び込む。「かくして蘇我の氏族は1日にして全て滅び去り、人々は喜び躍って、みな万歳を唱えた」。
下巻1は鎌足に対する論功行賞が続き、669年、天智天皇から大職冠の位と藤原姓を賜わり、その翌日に死去する場面で鎌足の伝記が終わる。下巻2でようやく多武峯寺が登場する。鎌足没後、長男の定恵(じょうえ)和尚が唐から帰国し、お墓を摂津国から多武峯に移すとともに十三重の塔を建立する。興福寺の起源にも触れ、定恵和尚の弟の右大臣藤原不比等(659~720)が創建したことなどを記している。(絵巻の写真はいずれも部分)