く~にゃん雑記帳

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<斑鳩 藤ノ木古墳の銅鏡展> 国宝の銅鏡、銀製玉類など〝里帰り〟展示

2013年11月07日 | 考古・歴史

【斑鳩文化財センターで12月1日まで】

 奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで「斑鳩 藤ノ木古墳の銅鏡展~鏡副葬の意義をさぐる」が始まった。目玉は藤ノ木古墳の石棺内から出土した国宝の銅鏡。併せて地元の斑鳩大塚古墳や新沢千塚古墳群(橿原市)など県内の古墳から見つかったさまざまな銅鏡も展示している。会期は12月1日まで。

  

 藤ノ木古墳の銅鏡は1988年の第3次調査で2体の人骨や大刀、金銅製の装身具、大量の玉類などとともに発見された。2人の被葬者の頭部付近から計4枚が出土した。これらの副葬品は一括して国宝に指定されており、文化庁が所蔵し奈良県立橿原考古学研究所の付属博物館(橿原市)に保管されている。

 今回の銅鏡展には当初、銅鏡4枚全てが展示される予定で、ちらしにも「四面の銅鏡の里帰り展示」となっていた。だが、残念にも展示された実物は1枚だけで、残り3枚は斑鳩町所蔵のレプリカによる展示となった。担当者によれば、橿考研の顕微鏡検査でひび割れなどが目立つ3枚の状態が思わしくなく運搬中の破損など万一を考慮して〝里帰り〟を断念せざるを得なかったという。

 銅鏡には2種類ある。中国から渡ってきた「舶載鏡」と、それを模して国内で作られた「仿製鏡(ぼうせいきょう)」。藤ノ木古墳から出土した4枚は2枚が舶載鏡、残り2枚が仿製鏡だった。今回展示中の銅鏡は「画文帯仏獣鏡」という仿製鏡で、直径が16cmと舶載鏡に比べるとやや小型。石棺内で長く水に漬かっていたせいか、緑青で表面が濃い緑色になっていた。

   

 弥生時代に中国から渡来した銅鏡は姿形を映す調度品としてというより、宝器的・呪術的な性格が強くなり権力の象徴として取り扱われた。墳墓や古墳の代表的な副葬品として、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀末)には「三角縁神獣鏡」をはじめ多量の銅鏡が埋葬された。椿井大塚山古墳(京都府木津川市)では32枚以上、黒塚古墳(奈良県天理市)では34枚が出土、さらに桜井茶臼山古墳(桜井市)では81枚分の破片が見つかっている。

 その後、中国で鏡作りが衰退すると国内で仿製鏡が生産されるようになるが、銅鏡の副葬枚数は次第に減って古墳時代中期(5世紀)には1枚から数枚程度に。斑鳩大塚古墳や新沢千塚109号墳からは2~3枚が出土している。後期(6世紀)に入ると、さらに少なくなって大型の平林古墳(奈良県葛城市)や烏土塚古墳(奈良県平群町)などでも1枚しか出土していない。

 藤ノ木古墳は6世紀後半の築造にもかかわらず、石棺内から4枚が出土、うち3枚が北側被葬者の頭部そばで見つかった。当時生産や使用がほとんど行われなくなっていた埴輪も使われていた。こうした銅鏡の多葬や埴輪祭祀の採用について、同センターでは「伝統的な大和王権の葬送儀礼を意識的に取り入れているととらえることもできる。日本の古墳文化を考えるうえでも藤ノ木古墳は重要な古墳といえる」としている。

 同展には国宝の銅鏡4枚全てを一堂に展示できなかった代わりに、首飾りに使われた銀メッキの大型空(うつろ)丸玉や勾玉(まがたま)など計12点と橿考研所蔵の復元大刀(全長136cm)も展示している。なお、橿考研付属博物館は残り3枚の銅鏡を現在特別に公開しており、斑鳩文化財センターは〝おわび〟として銅鏡展への入場者に同博物館の招待券を配布している。

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