く~にゃん雑記帳

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<舞鶴引揚記念館> 「世界記憶遺産」登録に向けリニューアルオープン

2015年10月02日 | 旅・想い出写真館

【展示室などを全面改装、戦争知らない世代にも分かりやすく】

 「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)が9月28日リニューアルオープンした。記念館の開館は27年前の1988年。引き揚げ者の衣類や生活用品、手紙、絵画など多くの資料を収蔵・展示しており、市はユネスコ世界記憶遺産の登録を目指している。加えて今年が引き揚げ開始から70年目の節目に当たることから、戦争を知らない世代にも引き揚げの実態を知ってもらおうと展示室などを一新し、平和学習の場としてセミナールームも新設した。入館者にはオープン記念として絵はがきがプレゼントされていた。

 終戦時、海外に取り残された軍人や一般人は660万人以上。軍港だった舞鶴は下関、門司、佐世保、浦賀などとともに引揚港に指定され、1950年(昭和25年)以降は国内唯一の引揚港となった。58年まで13年間にわたって受け入れた引揚者は66万人余、遺骨も1万6000余柱に上った。館蔵の資料は「舞鶴への生還―1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」としてユネスコに登録申請中で、まもなく登録の可否が決まる見込みだ。

 

 激動の時代を物語るモノクロ大画面のタイムトンネルをくぐる。まず目を引いたのが「白樺日誌」。舞鶴市出身の瀬野修さん(1908~95)がシベリア抑留中に白樺の皮をはいでノート代わりにし日々の様子や心情を綴ったもの。ペンは空き缶の先を尖らせ、インクは煙突の煤を水に溶いて代用した。ラーゲリ(収容所)内部を再現した模型の周りでは来館者たちが語り部グループ「語りの会」の女性の説明に耳を傾けていた。旧ソ連兵の厳しい監視の下で、抑留された日本兵が粗末な服装で身を寄せ合って寒さをしのぎながら黒パンを分け合う。

 

 

 端野いせさん(1899~1981)は息子新二さんの無事帰国を信じて岸壁で待ち続け、歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなったことで有名。そのパネル写真の下には新二さんの戦死を伝える「死亡告知書」、新二さんの学生服、いつ帰ってきても家が分かるようにと玄関に掲げられていた表札などが展示されていた。抑留者の所持品の中には収容所内で開かれた演奏会で吹いたトランペット、出生の際に日本から持っていった尺八、木材の破片を材料として作った麻雀パイなどもあった。

 

 舞鶴港に入港した引揚船は延べ346隻、その大半は貨物船だった。それらの引揚船の模型が展示室の壁面にずらりと並ぶ。記念館背後の小高い引揚記念公園の展望広場に登ると、引揚船が入港した舞鶴平湾(たいらわん)が一望できた。眼下右手には復元された「平引揚桟橋」。引揚者が帰国の第一歩を印した場所だ。展望広場には「平和の群像」や「異国の丘」「岸壁の母」の歌詞を刻んだ石碑が立つ。広場に至る坂道には「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」など、太平洋戦争の全国各地の部隊や戦友会、遺族会などによって植樹された桜並木が続いていた。

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