く~にゃん雑記帳

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<天橋立> 蕪村や与謝野寛・晶子も詠んだ日本三景

2015年10月28日 | メモ

【芭蕉の歌碑や岩見重太郎仇討ちの石碑も】

 丹後半島の付け根にある天橋立。さすが日本三景と1つといわれるだけあって、多くの文人墨客が訪れては歌に詠み、絵を描いた。雪舟は『天橋立図』(国宝)を描き、俳人・画家の与謝蕪村は『天橋図賛』を残した。天橋立には蕪村や与謝野寛(鉄幹)・晶子などの歌碑が立つ。

 

 蕪村の生まれは摂津国(今の大阪市都島区)といわれるが、母親が丹後・与謝の人だったことから与謝を名乗ったそうだ。1754年、蕪村39歳の時、宮津の見性寺に住職竹渓を訪ね、約3年半滞在した。「はし立や松は月日のこぼれ種」。天橋立神社のそばに立つ句碑(上の写真㊨)に刻まれた句は、この「丹後時代」に橋立を訪れた時に詠んだものといわれる。蕪村は宮津を離れる時「せきれいの尾やはし立をあと荷物」の句を残し京都に向かった。

 

 与謝野寛・晶子は寛の父親が丹後の加悦(かや、現与謝野町)出身だったため、天橋立にも度々足を運んだ。1930年には2泊して寛が45首、晶子が60首を詠んだ。仲良く並ぶ歌碑(写真㊧)には「小雨はれみどりとあけの虹ながる与謝の細江の朝のさざ波」(寛)と「人おして回旋橋のひらく時くろ雲うごく天の橋立」(晶子)が刻まれている。

 松尾芭蕉の古い句碑もある(写真)。「一声の江に横たふやほととぎす」。天橋立の南側にある智恩寺(日本三文殊の一つ)に江戸中期の1767年に建立されたものが、明治時代になって天橋立に移設された。芭蕉が天橋立を訪ねたという証拠はない。だが、名高い芭蕉の塚がないのを宮津の俳諧愛好者たちが残念がって建立したそうだ。碑に刻まれた句自体も芭蕉が江戸・隅田川の風情を詠んだものといわれる。

 

 句碑・歌碑の近くに「岩見重太郎仇討ちの場」という石碑が立つ(写真㊧)。岩見は江戸時代の初めに活躍したと伝わる剣豪で、父の仇の3人をここで討ち取り本懐を遂げたという。岩見には天橋立で毎夜参拝者や通行人を襲っていた「元伊勢籠(この)神社」の狛犬の足首を切って その夜行を止めたという伝説も残る。この元伊勢籠神社は天橋立の北側に鎮座する丹後の一宮。日本最古の系図『海部氏系図』(国宝)が伝わることでも知られる。その神社に伝説の狛犬がいた。鎌倉時代の作といわれ、重要文化財に指定されている。普段目にする狛犬と違って、前後の脚が太くどっしりした重量感が印象的だった。

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