く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市埋蔵文化財調査センター> 秋季特別展「平城京を掘る」

2013年11月12日 | 考古・歴史

【センター発足30周年記念、発掘調査の成果を公開】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(奈良市大安寺西)で秋季特別展「平城京を掘る」が始まった。宮殿や役所が置かれた都の中心、平城宮は1959年から奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が継続的に発掘調査を行ってきた。一方、貴族や庶民が居住する周辺の平城京の発掘は、土木建設工事に伴うものが多いことから83年に発足した同センターが担当してきた。特別展はそのセンター発足30周年を記念して企画された。12月27日まで。

 

 会場は「掘り出された建物」「暮らしの用具」「楽しみ」「まじないの世界」「運び込まれたもの」など9つのテーマに分け出土品を展示している。入り口のガラスケースの中には色鮮やかな三彩施釉瓦(上の写真㊧)や朱色が付着した軒平瓦。当時、総瓦葺きの建物は離宮や役所、寺院などの礎石建物や大路に面する築地塀に限られていた。このため、この三彩施釉瓦の出土から付近に離宮または外国使節の饗応使節があったと想定されている。

 大きな屋根板や柱、1枚板の扉、床板、窓枠材、巨木を刳り抜いた井戸枠、直径1m近い陶製の井戸枠なども展示されている。屋根板や扉、床材などは井戸枠に、柱は護岸用にそれぞれ転用されていた(上の写真㊨は床板を転用した井戸枠=西大寺旧境内から出土)。物資に乏しかった当時はリサイクルの意識が今以上に高かったのだろう。井戸からは鉄製の吊り金具が取り付けられた木製の釣瓶も見つかった。外面に文字を刻んだ刳り抜き井戸枠も2つ出土。そのうちの1つには「此船主冨福来」とあった。井戸枠を船に見立てて住人の安泰を願ったものとみられる。

 

 木製の木履(きぐつ)や下駄、櫛、帯金具、檜扇(ひおうぎ)、暦など日常の暮らしに深く関わるものも多く出土した。櫛には悪霊をはらう呪力があると信じられ、井戸から横櫛が祭祀遺物と一緒によく見つかる。竪櫛(上の写真㊧の右上)は歯が粗いことから馬櫛の可能性があるという。檜扇(写真㊨)も井戸から出土したもので、13枚の骨板で作られ、表裏合わせて7枚に万葉仮名などの墨書があった。奈良時代に作られた檜扇はメモ帳も兼ねていた。

 

 平城京からは独楽(こま)、サイコロ、碁石など娯楽の道具も出土している(上の写真㊧)。独楽はいずれも砲弾形で、軸がない鞭(ぶち)独楽。棒の先に付けた布などで独楽の側面を叩いて回す。サイコロは六角柱の両端を六角錘に削り側面に数字を墨書きしている。西大寺旧境内からは籤(くじ)引きに使ったとみられる木簡が見つかった(写真㊨)。僧の位の「法王」「法師」「紗弥(しゃみ)」と「我鬼」(餓鬼)と記されており、「法王」なら大当たり、「我鬼」なら大外れだったようだ。籤引きの木簡は長屋王邸からも見つかっている。

 「まじないの世界」のコーナーには人形(ひとがた)や人面墨書土器、人形が納められた壷、出産時の胎盤を納めた胞衣(えな)壷、土地を鎮める地鎮のために埋葬した三彩火舎などが展示されている。壷に入っていた人形2点(下の写真㊧)はいずれも折り畳まれ、うち1点の右脇腹には木釘が打ち込まれていた。「悪霊に病がうつるように念じたのではないか」という。

 

 このほか、青緑色の釉薬がかかったイスラム陶器や唐三彩、新羅土器、播磨国で作られた鬼瓦、塩が入ったまま運ばれてきた製塩土器、美濃国の刻印がある須恵器、甲斐国で作られた土師器の杯なども展示されている(写真㊨)。

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<浦上キリシタン事件> 長崎・浦上から大和郡山に信徒86人が〝流配〟!

2013年11月11日 | 考古・歴史

【長田光男・大和郡山市文化財審議会長「全国では20藩に3300人余」】

 「浦上キリシタン事件―浦上キリシタンと大和郡山藩」と題する歴史講演会が10日、奈良県大和郡山市の薬園八幡神社参集殿で開かれた。大和郡山市まちづくり会議(砂川正興代表)の主催で、講師は市文化財審議会会長を務める郷土史家・長田(おさだ)光男氏。地元の人にもあまり知られていない興味深いテーマとあって、多くの市民が詰めかけ熱心に聞き入った。

  

 この事件が起きたのは1870年1月(明治2年12月=旧暦)。その2年前の日米修好通商条約を皮切りにした日本の欧米諸国への開国に伴って、各地には外国人居留地が生まれ教会堂が建てられた。だが「長年施行されてきた禁教令はまだ効力を失っていなかった」(長田氏)。明治政府は「五榜(ごぼう)の掲示」(5枚の立て札)の第3札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ」と記して、江戸幕府時代のキリスト教統制策をそのまま受け継いだ。

 その方針に基づいて目を付けられたのが長崎・浦上村のキリスト教徒。まず指導的立場の信徒114人を捕らえて萩、津和野、福山に流配、次いで3300人余を北陸、東海、近畿、中国、四国など西国の雄藩20藩に移送した。この人数は浦上村のほぼ全村民に当たるとみられる。長崎駐在の欧米の外交官らは政府や長崎県に抗議を繰り返したが、受け入れられなかった。

  

 大和郡山藩預かりとなったのは戸主10人とその家族など76人の計86人。戸主は船で大阪に着いた後、「縄で数珠つなぎにされ生駒山を越えて大和郡山まで連れてこられた。まさに罪人扱いだった」。その後到着した家族たちも戸主と同じく雲幻寺(現・良玄禅寺)=上の写真㊧=に収容された。約4カ月後、金崎という2階建ての旅館(所在不明)に移されるが、頑強に改宗を拒む男性5人は別に南大工町の牢屋に閉じ込められた=写真㊨は大和郡山藩の牢屋跡(現・天理教中郡山分教会)。

 そのうちリーダー格の1人は三の丸の会所(現・やまと郡山城ホール)に移され、6日間、一匙の粥すら与えられなかったこともあったという。その後、信徒たちは4組に分けられ市内4カ所に収容される。ただ信徒たちへの待遇は「最初お客様扱いのように大事にされた」という。残酷な扱いを受けたという他藩預かりの信徒たちに比べるとかなり優遇されていたようだ。政府が派遣した巡見使の報告「巡視概略」も「居内出入湯屋往来随意ニ致サセ処分寛ニ過ギ……」と管理の甘さを咎めている。

 それを機に信徒の扱いも厳しさを増す。津藩預かりの信徒155人のうち23人が大和の古市(現・奈良市古市町)に送られ、さらに1872年5月には大和郡山藩預かりの信徒と合流して郡山城下三ノ丸に移された。同年12月には12~20歳の男女25人が家族から引き離され東大寺大仏殿付近に移されて改心を迫られ、子どもは紙製品作りにこき使われた。また郡山に残された信徒は大峰山麓の天川郷に送られ、「強壮な男子は銀鉱の採掘やら、石炭の運搬やらに駆使された」(浦川和三郎著「切支丹の復活」所載「旅の話」)という。

 

 流罪同様に西日本各地に送られた信徒がようやく解放されるのは1873年の春のこと。2月24日にキリシタン禁制の高札撤去の太政官布告が出され、3月14日には「異宗徒帰籍ノ事」が発令される。太政官は17県に預かりとなっていた不改心の信徒1938人の釈放帰村を指令した。いわゆる「キリシタン放還令」である。大和に移送されていた信徒104人は神戸から船に乗り、5月30日、浦上に着いた。故郷を追われて約3年5カ月後のことだった。

 近鉄郡山駅から西に徒歩数分のカトリック大和郡山教会の前庭に「切支丹流配碑」(写真㊧)が立つ。高さ4m余りで、男子40人(郡山での出生者も含む)と女子47人の流配者全員の氏名が刻まれている。同時に基壇には「九名の殉教死者を出しながらも頑強に棄教を拒み……」(写真㊨)と書かれ、銘板には死者6人の名が刻まれている。ただ、長田氏は他の文献などからみて郡山での死者は「4人ないし5人」と指摘する。

 浦上キリシタン事件は放還令による信徒の帰村でひとまず終結するが、「この段階ではキリスト教の布教は黙認されただけだった。信教の自由が公然と認められるのは明治22年発布の大日本帝国憲法を待たねばならなかった」。長田氏は事件の背景について「キリスト教の説く原理と明治政府の企図した神道国教化の政策や近代的天皇制国家樹立への理念とが噛み合わなかったことによるものだろう」と結んだ。

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<菊花展3題> 丹精込めた菊細工・懸崖作り・三段仕立て……

2013年11月10日 | 花の四季

【京都府立植物園】(15日まで)

 

 

【奈良県大和郡山市役所】(11日まで)

 

 

【大神神社=奈良県桜井市】(18日まで)

  

  

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<イソギク(磯菊)> 晩秋の海岸を彩る鮮やかな黄花

2013年11月09日 | 花の四季

【千葉・房総~東海地方・伊豆諸島に自生】

 キク科キク属の多年草で、日本固有の野生菊の1種。その名の通り、海岸沿いの日当たりのいい斜面や岩場に生え、10月~12月初めに黄色い小花を密に咲かせる。別名に「イワギク」や「アワギク」。主に千葉県の房総地方から東海地方にかけての太平洋岸や伊豆諸島に自生する。

 観賞用に栽培される一般的なイエギクとは違って、舌状花と呼ばれる花びらが外側に並ばず、直径5ミリほどの頭状花をいっぱい付ける。草丈は30センチ前後で、葉には白い縁取りが入る。写真のように頭状花の周囲に白く短い花びらを付けるものもある。これはイソギクとイエギクの交雑種で「ハナイソギク」と呼ばれている。

 イソギクとよく似た仲間に、四国の徳島県から高知県にかけて分布する「シオギク」や紀伊半島の和歌山県や三重県の海岸部に分布する「キノクニシオギク(キイシオギク)」がある。シオギクはイソギクに比べ頭状花がやや大型だが、花自体の数は少ない。キノクニシオギクの大きさはイソギクとシオギクの中ぐらい。

 イソギクの群落としては千葉県いすみ市にある国指定の天然記念物「太東(たいとう)海浜植物群落」や銚子市の犬吠埼、静岡県下田市の爪木崎などが有名。ただ、このイソギクも自生種が次第に減少してきた。北限といわれる茨城県では県のレッドデータブックに絶滅種として掲載され、愛知県では絶滅危惧Ⅰ類、千葉県でも準絶滅危惧種になっている。「磯菊の咲くや師とある舟溜」(杉山葱子)。

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<茶の木人形> 江戸期から現代までの約150体が一堂に!

2013年11月08日 | メモ

【ふるさとミュージアム山城で12月8日まで】

 「茶の木人形」はその名の通り、茶の木を素材に主に茶摘女(ちゃつみめ)をモチーフとした木彫りの人形。江戸時代に始まり宇治土産として人気を集め、一時は将軍や大名、皇室に納められるほどたった。だが、今では地元でさえその存在があまり知られていないという。その古今の「茶の人形」を一堂に集めた展示会が京都府木津川市のふるさとミュージアム山城(府立山城郷土資料館)で開かれている。題して特別展「宇治茶の郷(さと)のたからもの―茶の木人形と永谷家の製茶機械」(12月8日まで)。

 

 「茶の木人形」は茶の古木を活用して一刀彫りし彩色したもの。茶木はあまり大きく育たず、材質が硬くて加工が難しいのが特徴。このため人形の大きさも大半が3~10cmほどと小さい。一方、茶木の代わりに楠や椿、桜など他の素材で茶摘女を彫ったものもある。これらは区別するため「茶摘人形」と呼ばれており、双方を合わせて「宇治人形」と呼ぶこともある(上の写真㊧の左端の大きな人形が「茶摘人形」)。

 

 「茶の木人形」を始めたのは江戸初期の茶人・金森宗和(1584~1656)とも、江戸後期の宇治茶師・上林清泉(1808~70)ともいわれる。清泉自筆の「宇治人形由緒書」には宗和が宇治人形を考案したと記す。ただ宗和が茶木を素材に製作したという利休像が天寧寺(京都市)に伝わっているものの、茶摘女を彫った「茶の木人形」はこれまでに見つかっていない。

 特別展では「茶の木人形」を中心に約150体が展示されている。その多くは宇治市在住の人形研究者・田中正流(まさる)氏と「茶の木人形」に魅せられ自らも制作に取り組む仏師・大岩広生(こうしょう)氏の収蔵品(下の写真㊨は田中氏の作品)。展示作品には姉様被りに赤い前垂れ、茶花柄の着物姿のものが多い。清泉の作品はふくよかな瓜実顔が特徴で、紅をさした口元がにっこり微笑みを見せる。上の写真㊧の清泉の人形はおなかが上下2つに分かれ〝香合わせ〟用になっている。

 

 展示会企画担当者によると「茶の木人形」の一部には背面に紐を通す穴が開いており、江戸時代から明治時代にかけて〝根付〟としても活用されていたという。今でいう携帯用のストラップ。清泉作の人形にも懐紙入れに結ばれた人形があった。清泉の次男・上林楽之軒(1836~1909)の作品は茶摘女のほか利休や大黒様、達磨大師などバラエティーに富む。

 大正から昭和の初め、人形づくりは農家の副業としても奨励され、1927年(昭和2年)には宇治で土産品製作講習会が開かれた。その講習会に参加し後に人形の知名度アップに貢献したのが桂楽峯(1894~1965)。1933年(同8年)には自作の人形が京都御所で昭和天皇の天覧に供した。出展依頼を受けた楽峯は「斎戒沐浴して一室を修祓し、数百年を経た茶の古木を利用して3体を製作した」という。天皇はその直後、50体をお買い上げになった。その時の「御買上通知状」やその人形(予備製作品)=上の写真㊧=なども展示されている。

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<斑鳩 藤ノ木古墳の銅鏡展> 国宝の銅鏡、銀製玉類など〝里帰り〟展示

2013年11月07日 | 考古・歴史

【斑鳩文化財センターで12月1日まで】

 奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで「斑鳩 藤ノ木古墳の銅鏡展~鏡副葬の意義をさぐる」が始まった。目玉は藤ノ木古墳の石棺内から出土した国宝の銅鏡。併せて地元の斑鳩大塚古墳や新沢千塚古墳群(橿原市)など県内の古墳から見つかったさまざまな銅鏡も展示している。会期は12月1日まで。

  

 藤ノ木古墳の銅鏡は1988年の第3次調査で2体の人骨や大刀、金銅製の装身具、大量の玉類などとともに発見された。2人の被葬者の頭部付近から計4枚が出土した。これらの副葬品は一括して国宝に指定されており、文化庁が所蔵し奈良県立橿原考古学研究所の付属博物館(橿原市)に保管されている。

 今回の銅鏡展には当初、銅鏡4枚全てが展示される予定で、ちらしにも「四面の銅鏡の里帰り展示」となっていた。だが、残念にも展示された実物は1枚だけで、残り3枚は斑鳩町所蔵のレプリカによる展示となった。担当者によれば、橿考研の顕微鏡検査でひび割れなどが目立つ3枚の状態が思わしくなく運搬中の破損など万一を考慮して〝里帰り〟を断念せざるを得なかったという。

 銅鏡には2種類ある。中国から渡ってきた「舶載鏡」と、それを模して国内で作られた「仿製鏡(ぼうせいきょう)」。藤ノ木古墳から出土した4枚は2枚が舶載鏡、残り2枚が仿製鏡だった。今回展示中の銅鏡は「画文帯仏獣鏡」という仿製鏡で、直径が16cmと舶載鏡に比べるとやや小型。石棺内で長く水に漬かっていたせいか、緑青で表面が濃い緑色になっていた。

   

 弥生時代に中国から渡来した銅鏡は姿形を映す調度品としてというより、宝器的・呪術的な性格が強くなり権力の象徴として取り扱われた。墳墓や古墳の代表的な副葬品として、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀末)には「三角縁神獣鏡」をはじめ多量の銅鏡が埋葬された。椿井大塚山古墳(京都府木津川市)では32枚以上、黒塚古墳(奈良県天理市)では34枚が出土、さらに桜井茶臼山古墳(桜井市)では81枚分の破片が見つかっている。

 その後、中国で鏡作りが衰退すると国内で仿製鏡が生産されるようになるが、銅鏡の副葬枚数は次第に減って古墳時代中期(5世紀)には1枚から数枚程度に。斑鳩大塚古墳や新沢千塚109号墳からは2~3枚が出土している。後期(6世紀)に入ると、さらに少なくなって大型の平林古墳(奈良県葛城市)や烏土塚古墳(奈良県平群町)などでも1枚しか出土していない。

 藤ノ木古墳は6世紀後半の築造にもかかわらず、石棺内から4枚が出土、うち3枚が北側被葬者の頭部そばで見つかった。当時生産や使用がほとんど行われなくなっていた埴輪も使われていた。こうした銅鏡の多葬や埴輪祭祀の採用について、同センターでは「伝統的な大和王権の葬送儀礼を意識的に取り入れているととらえることもできる。日本の古墳文化を考えるうえでも藤ノ木古墳は重要な古墳といえる」としている。

 同展には国宝の銅鏡4枚全てを一堂に展示できなかった代わりに、首飾りに使われた銀メッキの大型空(うつろ)丸玉や勾玉(まがたま)など計12点と橿考研所蔵の復元大刀(全長136cm)も展示している。なお、橿考研付属博物館は残り3枚の銅鏡を現在特別に公開しており、斑鳩文化財センターは〝おわび〟として銅鏡展への入場者に同博物館の招待券を配布している。

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<サラシナショウマ(晒菜升麻)> 真っ白な無数の花を20~30cmの穂状に

2013年11月05日 | 花の四季

【若葉はおひたしなど食用に、根は解熱・解毒の生薬に】

 北海道~九州の山野に広く分布するキンポウゲ科の多年草。 草丈は1~1.5mほどで、夏から秋にかけて花穂を長く伸ばし、白い小花を密に付ける。その花姿はまるで試験管ブラシ。花には両性花と雌しべがない雄花がある。

 「サラシナ」は春先に若葉を摘んで水に晒しアクを抜くと、山菜としておひたしなど食用になることから。「ショウマ」は漢方の生薬名「升麻」から。根茎を乾燥させ粉末状にして解毒や解熱、消炎剤として用いる。葉が麻に似ていることから「麻」の字が入ったようだ。サラシナショウマは「ヤサイショウマ」や「ヤマショウマ」などの別称を持つ。

 同じキンポウゲ科の仲間にオオバ(大葉)ショウマやイヌ(犬)ショウマなど。オオバショウマの変形種にキケン(鬼瞼)ショウマと呼ばれるものもある。葉の形が鬼の顔に似ていることから、そんな変わった名前になったようだ。キンポウゲ科以外にも「ショウマ」と付いた植物は多い。ユキノシタ科にアカ(赤)ショウマやトリアシ(鳥足)ショウマ、ヤクシマ(屋久島)ショウマ、ヒトツバ(一葉)ショウマ、バラ科にヤマブキ(山吹)ショウマ、メギ科にはトガクシ(戸隠)ショウマなどがある。

 サラシナショウマは根茎の表面が黒く、他のショウマ類から取った根茎と区別するため、クロ(黒)ショウマやシン(真)ショウマと呼ばれることもある。香川県では絶滅の危険性が高まっているとして絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。「草陰に待ってたような趣のサラシナショウマ咲きいたりけり」(鳥海昭子)。

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<ツリフネソウ(釣船草)> 赤紫色の可憐な花姿を帆掛け舟にたとえて

2013年11月04日 | 花の四季

【ホウセンカやインパチェンスと同じ仲間の1年草】

 ツリフネソウ科ツリフネソウ属の1年草。日本から朝鮮半島、中国東北部にかけて分布する。夏から初秋にかけて長く伸びた花柄の先に赤紫色(たまに白花)の3~4cmほどのかわいい花をつける。その花姿が帆掛け舟を吊り下げたように見えることから、その名が付いた。花器の〝釣船〟に似ていることに由来するともいわれる。

 ツリフネソウ属にはツリフネソウのほかにキツリフネ、ハガクレツリフネ、エンシュウツリフネ、ワタラセツリフネ、東南アジア原産のホウセンカなどがある。いずれも蒴果(さくか)で、花後に実が熟すと弾けて種子を遠くに飛ばす。最近よく見かけるアフリカ原産のインパチェンス(アフリカ・ホウセンカ)やニューギニア・インパチェンスも同じ仲間。

 ツリフネソウは黄花のキツリフネと区別するため「ムラサキ(紫)ツリフネ」と呼ばれることもある。山間の湿地や水辺に生えることから「ノ(野)ホウセンカ」や「ヤマ(山)ホウセンカ」の別名も。「ゆびはめぐさ」や「ゆびさしばな」などと呼ぶ地方もある。子どもたちが花を指にはめて琴を弾く真似をしたりして遊んだことから、そう呼ばれたようだ。

 根には解毒作用があり、中国では腫れ物や吹き出物の患部に塗るなど古くから民間薬として利用されてきた。アイヌの人たちはツリフネソウを「オフイマキナ」と呼ぶという。「放尿する草」を意味しており、利尿剤として活用してきたそうだ。ツリフネソウは徳島県で絶滅危惧種、東京、愛媛、鹿児島で準絶滅危惧種になっている。仲間のエンシュウツリフネは環境省のレッドデータリストに絶滅危惧Ⅱ類として登録されている。

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<奈良県立万葉文化館> 「多武峯縁起絵巻」(談山神社蔵)全4巻を公開!

2013年11月03日 | 考古・歴史

【中大兄皇子・藤原鎌足の蹴鞠の場面・密談・入鹿討伐などが生々しく】

 奈良県立万葉文化館(明日香村)で2日から県指定文化財「多武峯(とうのみね)縁起絵巻」全4巻の特別公開が始まった。絵巻は談山神社(桜井市)の所蔵で、室町時代後期の作品。法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠での中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)の出会い、多武峯山中での密談、そして蘇我入鹿を討伐した「乙巳(おっし)の変」の場面などが生々しく描かれている。鎌足を祭神として祀る談山神社では3日「けまり祭」が行われる。絵巻公開は12月8日まで。

 

 絵巻は絹本着色で、縦幅は48.2cmと通常の絵巻より広い。横幅は上巻1・2、下巻1・2の4巻合わせて約19mもある。もとは上下2巻だったが、元禄13年(1700年)の修理の際に4巻に改めた。絵を描いたのは絵師として最高位の宮廷の〝絵所預(えどころあずかり)〟だった土佐光信(土佐派中興の祖)とみられ、絵の中に配置された43カ所の漢文の詞書(ことばがき)は公卿一条兼良の自筆といわれている。

 この絵巻は談山神社の前身である多武峯寺の由来を描いたもの。ただ全体のほぼ4分の3を藤原鎌足(614~669年)の生涯に当てており、寺の縁起というより鎌足を顕彰した伝記の感が強い。上巻1は鎌足の誕生に始まり、蘇我入鹿が山背大兄王ら聖徳太子の子孫を滅ばしたこと、そして有名な蹴鞠での2人の出会いが描かれている。詞書によると、中大兄皇子の沓(くつ)が鞠を蹴った拍子に脱げ落ちると、入鹿はその様子を見て笑う。一方、鎌足は沓を拾って皇子に渡す。これを機に2人は親密になる。

 

 上巻2では専横ぶりが目に余る入鹿の対処について皇子と鎌足が山中で相談し、皇子は「もし天位に就くことができたなら、臣の姓を藤原に改めよう」と言う。密談した場所を「談岑(とうのみね)」といい、後に「多武」の2字を用いるようになったという経緯を記す。続けて645年のクーデター「乙巳の変」の顛末を生々しく描く。

 「入鹿が入って座に着くと、中大兄は12の通門を全て封鎖させて、長槍を手に大極殿の側に隠れ、中臣の連は弓矢を持った」「中大兄と中臣は剣を抜き入鹿の肩を切り裂いた」。驚いた皇極天皇に息子の中大兄皇子は「鞍作(入鹿)は天皇家を尽く滅ぼして、皇位を傾けようとしております」と奏上する。

 

 入鹿殺害の場面については諸説を上げて詳細に記している。「一説に中臣の連が太刀で入鹿の肩を切り落とし、次に中大兄が剣で首を打ち落とした。すると、その首は高御座(たかみくら)の戸に飛んでいった。また一説に首が飛んで御簾(みす)に食らいついたといい、首が石柱にかみつき40回飛び上がったともいう」。入鹿の父・蝦夷は翌日「誅戮が我が身に及ぶのを知って」火に飛び込む。「かくして蘇我の氏族は1日にして全て滅び去り、人々は喜び躍って、みな万歳を唱えた」。

 下巻1は鎌足に対する論功行賞が続き、669年、天智天皇から大職冠の位と藤原姓を賜わり、その翌日に死去する場面で鎌足の伝記が終わる。下巻2でようやく多武峯寺が登場する。鎌足没後、長男の定恵(じょうえ)和尚が唐から帰国し、お墓を摂津国から多武峯に移すとともに十三重の塔を建立する。興福寺の起源にも触れ、定恵和尚の弟の右大臣藤原不比等(659~720)が創建したことなどを記している。(絵巻の写真はいずれも部分)

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<奈良・元興寺> 秋季特別展「散華(さんげ)の美」開催

2013年11月02日 | メモ

【江戸時代の散華や版木、近年の〝美術散華〟など約250点】

 「古都奈良の文化財」として世界遺産になっている元興寺(奈良市中院町)で、秋季特別展「散華の美」(10日まで)が開かれている。散華は法会で仏様を供養するために撒かれるもので、もともとはハスの花びらなど生花を使っていたが、いつの頃からか蓮弁を模した色紙になった。芸術性の高いものは特に〝美術散華〟と呼ばれる。この特別展では奈良や京都を中心に全国各地の寺院の散華や江戸時代の多色刷り版木など約250点を一堂に展示している。

  

国宝の元興寺極楽堂。特別展「散華の美」は国宝「五重小塔」や重文「阿弥陀如来像」などを展示した向かいの総合収蔵庫3階で開かれている

 散華は江戸時代以前から思い思いの絵柄を描いた作品が作られていたが、近年は各寺にゆかりのある日本画家や版画家の原画をもとに木版で印刷した美術散華も増えている。展示中の散華にも東山魁夷、荒川豊蔵、平山郁夫、棟方志功、前田青邨、杉本健吉、小倉遊亀、片岡球子、丸山石根、梅原猛、田村能里子ら著名人の作品が並ぶ(下の散華は杉本健吉氏作の薬師寺の散華)。

  

 元興寺は毎年、2月の節分会と8月の地蔵会のとき、国宝の極楽堂(曼荼羅堂)で散華を行っている。散華はこうした恒例の法会のほか、開祖の御遠忌や落慶法要、晋山式などを記念して作られることも多い。展示中の散華で古いものには長谷寺の「弘法大師1000年忌勅会曼荼羅供散華」(1834年)や「興教大師700回忌散華」(1844年)、法隆寺の「聖徳太子1300年御聖諱法要散華」(1921年)などがあった。

  

 漫画や童謡から題材を取ったかわいい図柄のものを〝稚児散華〟と呼ぶ。会場には里中満智子、やなせたかし、赤塚不二夫、ちばてつやさんたちの作品も並んでいた。変わったところでは1922年に飛行機からばら撒かれたという散華ビラ。京都・西陣の民間飛行士・安井荘次郎氏が太秦広隆寺の聖徳太子1300年御遠忌法要に合わせ上空から撒いた。その文面は「御法要が広隆寺で厳修されて居ります。此の時に際し太子の御徳を拝謝し、謹みて機上より数十万の京都府民諸氏に宣伝申し上げます」。安井氏はその6年後、墜落事故で亡くなったという。

 このほか、善光寺(長野)の「ダライ・ラマ法王招聘記念散華」、鎌倉宗教者会議の「東日本大震災~1年目の祈り~追悼・復興祈願祭散華」、一心寺(大阪)の「第11期骨仏開眼大法要記念散華」、法隆寺の「世界文化遺産条約登録記念散華」なども並ぶ。この展覧会はNPO法人美術散華保存会(奈良市)の協力で実現した。保存会の所蔵品に加え保存会が独自に制作した「三春の滝桜」「根尾薄墨桜」「大阪造幣局通り抜け」などの桜散華も展示されている。

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<箸尾戸たて祭り> だんじり4基、拝殿に向かって猛スピードで突進!

2013年11月01日 | 祭り

【石段すれすれでストップ、その後は伊勢音頭を声高らかに】

 奈良県広陵町にある櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)神社で31日、秋祭り「戸たて祭り」の宵宮が行われた。見どころは「弁財天」「南」「的場」「萱野」の4地区から繰り出した自慢のだんじりの宮入り。1台ずつ早打ちの鐘と太鼓に鼓舞されるように、猛スピードで拝殿に向かって突進した。石段ぎりぎりで止める見事な〝技〟に、境内を埋めた観客から大きな歓声と拍手が送られた。

   

 「戸たて」は漢字では「戸立て」または「戸閉て」。家の戸を立てて(閉めて)家族総出で祭りに参加したことにちなむ。だんじりは重厚な造りの2階構造で、上の前面に自治会や青年団の役員ら〝上乗りさん〟が黒の紋付袴姿で座り、下には鐘と太鼓の囃し方が乗り込む。鐘はお寺の梵鐘を小さくしたような高さ40cmほどの釣り鐘。神社の祭りに鉦でなく鐘の取り合わせがおもしろい。

 

   

 だんじりの屋根には大きな御幣のようなものが飾られていた。獅子の髪を表わしており、ヒノキを薄く削った大量のカンナ屑で作っているという。屋根前面にある木彫りの獅子噛みもこの飾りで覆われて全く見えなかった。だんじりが神社に向かう途中、寄付やお酒の差し入れがあれば、家の前で綱の曳き手が代わる代わる伊勢音頭を披露した。だんじりの四隅には御神火のろうそくがともっていた。

 

  宮入りは午後7時半から始まった。毎年順番が決まっているという。最初は神社のお膝元にある「弁財天」。拝殿脇の狛犬のそばで見物していたが、鐘と太鼓が早打ちになるや「ソーレッ」の掛け声と同時に突進してきた。迫力満点。30mほどの距離を十数秒でやって来た。止まるや手拍子に合わせて伊勢音頭。歌が終わると、曳き手は拝殿に折り重なるようになだれ込み、巫女さんのお祓いを受けていた(上の写真㊧)。

 

 その後、「南」「的場」と続いたが、「的場」には女性の曳き手も交じっていた(上の上の写真㊨)。緩やかなカーブを描きながら徐々にスピードを上げ、拝殿の石段すれすれにぴたっと止まった(上の写真㊧)。見事! その直後、上乗りさんは「完璧!」と満面笑顔で曳き手たちと次々にハイタッチを繰り返していた。最後の「萱野」の宮入りは午後9時近くになった。最初の「弁財天」が宮入りしてから既に1時間半。この間、境内では鐘と太鼓が鳴り止まず伊勢音頭の歌もずっと続いていた。

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