く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<追手門学院大阪城スクエア> シンポジウム「ASEAN経済共同体と日本」

2015年10月07日 | メモ

【石川幸一・亜細亜大学アジア研究所所長が基調講演】

 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉の閣僚会合が大筋合意し、巨大な自由貿易圏の誕生に向けて動き出した。東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国による「ASEAN経済共同体(AEC)」もいよいよ今年の年末に発足する。そんな中、追手門学院大阪城スクエア(大阪市)で6日「ASEAN経済共同体と日本~統合深化を分析する」と題するシンポジウムが開かれた。追手門学院大学創立50周年記念事業の一環で、同大学オーストラリア・アジア研究所の主催。

 

 まず亜細亜大学アジア研究所所長の石川幸一教授が「ASEAN経済共同体の現状・課題・展望」と題して基調講演した。ASEAN10カ国の人口は約6.3億人で中国、インドに次ぐ。GDP(国内総生産)は2.4兆ドルで日本のほぼ半分だが、「(15年後の)2030年頃には日本の経済規模を抜くのではないか」。加盟国の経済格差は大きい。ミャンマーの一人当たりGDPはシンガポールの僅か60分の1。だが「その格差と民族・宗教・文化などの違いが市場および生産基地としての多様性につながる。若い人が多く、大半の国で(生産年齢人口の比率が上昇していく)人口ボーナス期が続くのも大きな魅力」。

 ASEANは2年後の2017年に創設50周年を迎える。では、なぜ今AECを創るのか。「21世紀に入り中国に加えインドが台頭し、中印間で埋没しかねないという危機感が背景にある」とし、「特に外国投資の減少を懸念しており、2002年に実現したAFTA(ASEAN自由貿易地域)に続き一層の市場統合を目指していることを内外にアピールし、外資を誘致するのが大きな狙い」と分析する。AECは物品の貿易に加えサービス、投資、熟練労働者の自由な移動を目指す。ただし、EU(欧州連合)のような共通通貨や第三国に対する域外共通関税などは目標として掲げていない。

 基調講演に続き「ASEAN統合を分析する」をテーマにパネルディスカッションが行われた。パネリストは石川氏に加え日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員の鈴木早苗氏、毎日新聞論説副委員長の藤田悟氏(元マニラ支局長、アジア総局長)の3人。追手門学院大学経済学部の近藤伸二教授がコーディネーターを務めた。

 鈴木氏がまず触れたのは中国とASEAN加盟国の一部が鋭く対立する南シナ海での領有権問題。ASEANは中国との間で法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範」の策定について協議中だが、交渉の進展ははかばかしくない。その大きな理由として「中国が南シナ海での実効支配を強めていることがある」。加盟国の足並みもそろっていない。中国に対して強硬なフィリピンやベトナム、中国との経済関係が密接なタイやカンボジア、穏健派のマレーシアやインドネシアと、3つのグループで対応が分かれているという。またベトナムとフィリピン、フィリピンとマレーシアの間ではそれぞれが主張する領有権も重なり合っており、領有権問題はASEAN内部で解決すべき課題の1つにもなっている。

 ASEANが最終的に目指すのは経済共同体と政治安全保障共同体、社会文化共同体の3つで構成される「ASEAN共同体」。藤田氏はその基本精神が「多様性の中の統一」というキーワードで支えられていると指摘する。「ASEANの一番の大きな特徴は対立より協調を重視し、一致できるところから着実に合意を重ねていくこと。それがベトナム戦争やカンボジア紛争など長い紛争の歴史から生まれた教訓でもある」。険悪な日中・日韓関係を引き合いに出しながら「なんと巧みな外交戦略だろうか。非常にうらやましくも感じられる」とも話していた。そして鈴木、藤田両氏は中国などを念頭に「決してASEANの分断を図ろうとすべきではない」と口をそろえた。

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<奈良県高取町> 第7回「町家のかかし巡り」 31日まで

2015年10月06日 | 祭り

【メーン会場では「薬の町」をテーマに推古天皇の薬狩りの様子を再現】

 かつての高取藩の城下町、奈良県高取町で秋恒例のイベント「町家のかかし巡り」が開かれている。2009年に始まり今年で7回目。会場は近鉄吉野線壺阪山駅から中世の面影を残す石畳の「土佐街道」沿いで、町民手作りの案山子200体余が出迎えてくれる。31日まで。

 

 高取は古くから薬の町として栄えた。観光と町づくりの拠点「夢創館」の一角には「くすり資料館」もある。そこで今年はメーン会場のテーマを「薬の街高取町」とした。日本書紀に記されている高取・羽田の山野での推古天皇や王臣たちによる薬狩りの様子や、置き薬の売薬風景などを手作りの人形などで再現している。5月頃から試行錯誤を重ねて作り上げたそうだ。

 

 別会場ではサザエさん一家とちびまるこちゃん一家による「家族対抗かるたとり」や牧場の風景を再現したものなどもあった。中には道端で草取り中のものや脚立に上って庭木を剪定中のものも。そのあまりのリアルさに、つい「ご苦労さまです」「暑いですなあ」と声を掛ける人もいた。主な会場6カ所を回ってスタンプを押すと抽選で毎日10人に粗品を進呈するスタンプラリーも開催中。

 

 3~4日にはちょうど秋祭りの「高取だんじり祭り」も開かれていた。町内の6地域、上子島・下子島・清水谷・上土佐・下土佐・観覚寺からだんじりが1台ずつ出て、ちびっ子たちに曳かれ土佐街道などを巡った。だんじりの屋根には数人の男性たちが乗って、太鼓と鉦(かね)に合わせ勇ましい掛け声を上げていた。太鼓の音や打ち方が各だんじりで少しずつ違っていたのが印象的。それと、にぎやかな祭りに付き物の露天が1店も出ていなかったのは少々不思議な感じがした。

  

 

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<マリーゴールド> メキシコ原産の〝聖母マリアの黄金の花〟

2015年10月04日 | 花の四季

【別名「万寿菊」「孔雀草」、大型のアフリカン種・中小型のフレンチ種】

 メキシコなど中米原産の1年草で、春から秋にかけて次々と長く咲く。マリーゴールドは〝聖母マリアの黄金の花〟を意味する。キリスト教の「聖母の被昇天」「聖マリアの誕生」など聖母マリアの祝日にはいつも咲いている花として、その名が付いたといわれる。キク科タゲテス属。タゲテスは美の女神タゲスに由来する。

 花色は黄、橙、赤など暖色系が中心。大別すると「エレクタ」種をもとに品種改良された「アフリカン・マリーゴールド」と、「パツラ」種をもとに改良された「フレンチ・マリーゴールド」がある。アフリカン種の呼び名は17世紀にイギリス軍がアフリカ遠征の際に現地に持ち込まれ栽培されたことによるという。草丈が高く、花径も7~10cmと大型の品種が多い。別名「センジュギク(千寿菊)」。

 一方、フレンチ種は最初にフランスの王宮で栽培されたことによる。草丈30~40cm、花径3~6cmほどで中小型の品種が多い。日本には江戸時代前期に渡ってきた。こちらの別名は「マンジュギク(万寿菊)」や「コウオウソウ(紅黄草)」。アフリカン種とフレンチ種を掛け合わせたものは「アフロフレンチ・マリーゴールド」と呼ばれ、花が大きく草丈が低いのが特徴。

 フレンチ種には「クジャクソウ(孔雀草)」という美しい呼び名もある。ただ、同じキク科の多年草クジャクアスターや、1年草のハルシャギク(別名ジャノメソウ=蛇の目草)もクジャクソウと呼ばれることがあるので少々紛らわしい。「地下墓室(カタコンベ)出でマリーゴールド眩し」(久根美和子)。

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<コウノトリの郷公園> 餌やりの時間になると飼育鳥以外に野外からも

2015年10月03日 | 旅・想い出写真館

【24羽のうち野外から15羽、アオサギやシラサギも】

 国の特別天然記念物で、兵庫県の県鳥でもあるコウノトリ。その雄姿を一度間近で見ておきたいと先日「兵庫県立コウノトリの郷公園」(豊岡市)を訪ねた。ちょうど1日1回の餌やり時間の午後3時を過ぎていたが、それでもまだ20羽近くが屋根のない公開飼育ケージ内に留まっていた。その日集まったのは24羽。うち9羽がケージ内で飼育中のもので、残りのコウノトリ15羽は野外からやって来たという。

 コウノトリの郷公園は豊岡市街の東方の田園地帯にある。隣接する「豊岡市立コウノトリ文化館」に実物大の親子や巣の模型があった。その巣の上で記念撮影すると幸せが訪れると評判を呼び来場者に人気という。コウノトリの郷公園が初めて試験放鳥したのは10年前の2005年。その3年後の08年には野外での繁殖・巣立ちに成功した。2012~15年の最近4年間に野外で巣立ったのは合計41羽に上り、毎年10羽前後が巣立ちしている。豊岡近辺を中心に各地の野外で暮らすコウノトリは合計83羽。これとは別に96羽が飼育されている。コウノトリの野生復帰は本格軌道に乗り始めているようだ。

 

 文化館のパネル展示「コウノトリの飛来市町村」によると、北は青森県から南は鹿児島県の奄美大島、徳之島まで39府県258市町村に上る。奈良県ではただ1カ所、安堵町だけだった。国外では昨年3月に韓国東南部の金海市で、今年2月には済州島で目撃されている。足環の標識からそれぞれ2012年と14年に国内で巣立ったものと確認された。係員の話では、大陸から飛来し豊岡に棲み付いている1羽も含め、足環未装着のコウノトリが4羽いるという。当初巣立ち直後に捕獲できず足環を付けることができないケースがあったため、最近では巣立ち前に装着しているそうだ。

 

 餌やりは冷凍アジを解凍して大きなたらいに入れて与えるほか、生き餌として養殖したフナやニジマスを池の中で与える。毎日午後3時の餌やりタイムになると、野外からコウノトリのほかにアオサギ(下の写真㊧の右側)やシラサギ、さらにトンビやカラスまでやって来るそうだ。公開ケージで飼育中のコウノトリ9羽は風切り羽の一部を切っているため飛んでいかないという。野外で暮らすコウノトリの中には食事が終ると、さっさと去っていくものも。田園の中に立つ高い人口巣塔のてっぺんで1羽のコウノトリが羽を休めていた。

  

 

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<舞鶴引揚記念館> 「世界記憶遺産」登録に向けリニューアルオープン

2015年10月02日 | 旅・想い出写真館

【展示室などを全面改装、戦争知らない世代にも分かりやすく】

 「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)が9月28日リニューアルオープンした。記念館の開館は27年前の1988年。引き揚げ者の衣類や生活用品、手紙、絵画など多くの資料を収蔵・展示しており、市はユネスコ世界記憶遺産の登録を目指している。加えて今年が引き揚げ開始から70年目の節目に当たることから、戦争を知らない世代にも引き揚げの実態を知ってもらおうと展示室などを一新し、平和学習の場としてセミナールームも新設した。入館者にはオープン記念として絵はがきがプレゼントされていた。

 終戦時、海外に取り残された軍人や一般人は660万人以上。軍港だった舞鶴は下関、門司、佐世保、浦賀などとともに引揚港に指定され、1950年(昭和25年)以降は国内唯一の引揚港となった。58年まで13年間にわたって受け入れた引揚者は66万人余、遺骨も1万6000余柱に上った。館蔵の資料は「舞鶴への生還―1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」としてユネスコに登録申請中で、まもなく登録の可否が決まる見込みだ。

 

 激動の時代を物語るモノクロ大画面のタイムトンネルをくぐる。まず目を引いたのが「白樺日誌」。舞鶴市出身の瀬野修さん(1908~95)がシベリア抑留中に白樺の皮をはいでノート代わりにし日々の様子や心情を綴ったもの。ペンは空き缶の先を尖らせ、インクは煙突の煤を水に溶いて代用した。ラーゲリ(収容所)内部を再現した模型の周りでは来館者たちが語り部グループ「語りの会」の女性の説明に耳を傾けていた。旧ソ連兵の厳しい監視の下で、抑留された日本兵が粗末な服装で身を寄せ合って寒さをしのぎながら黒パンを分け合う。

 

 

 端野いせさん(1899~1981)は息子新二さんの無事帰国を信じて岸壁で待ち続け、歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなったことで有名。そのパネル写真の下には新二さんの戦死を伝える「死亡告知書」、新二さんの学生服、いつ帰ってきても家が分かるようにと玄関に掲げられていた表札などが展示されていた。抑留者の所持品の中には収容所内で開かれた演奏会で吹いたトランペット、出生の際に日本から持っていった尺八、木材の破片を材料として作った麻雀パイなどもあった。

 

 舞鶴港に入港した引揚船は延べ346隻、その大半は貨物船だった。それらの引揚船の模型が展示室の壁面にずらりと並ぶ。記念館背後の小高い引揚記念公園の展望広場に登ると、引揚船が入港した舞鶴平湾(たいらわん)が一望できた。眼下右手には復元された「平引揚桟橋」。引揚者が帰国の第一歩を印した場所だ。展望広場には「平和の群像」や「異国の丘」「岸壁の母」の歌詞を刻んだ石碑が立つ。広場に至る坂道には「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」など、太平洋戦争の全国各地の部隊や戦友会、遺族会などによって植樹された桜並木が続いていた。

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