kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

スーパーガラ公演「メダリストたちの競演」 ボーダーを超えて舞う実力者たち

2005-07-18 | 舞台
バレエもストーリーを知ってから鑑賞したほうがいいに決まっているが、本公演のようにすぐれた技術を持った人たちが少しずつ踊るというのも、下勉強が要らなくて楽だ。そして分かりやすくて楽しい。まさにメダリストたちの競演。88年に埼玉全国舞踊コンクールで第1位をとった志賀三佐枝はそれより前に牧阿佐美バレエ団に卒業と同時に入団していることから、もうダンス歴は20年以上になるのではないか。出演者の中でももっとも年配の部類と見えるが、よくもあれだけくるくる回れるものだと感心させられる。
ミュンヘン・バレエ団のプリンシバルをつとめるルシア・ラカッラの細さといったらない。腕も足もまるでカマキリか何か昆虫の様。しかし、ダンスは優雅でダイナミック。草刈民代もちゃんと踊るのを見たことがなかったのだが、相方のレモンド・レベックとの息もぴったり。レベック演じる白鳥が草刈演じるレダに纒いつく様はとてもよかった。
当たり前だが、どのダンサーも相方とのコンビネーションは抜群。ダンスに詳しい友人によると「見ずに手をつなぐのだから大変」だそうだが、それもそのはず。目線を一切合わせずにぴたりと手つなぎ、また放し、そしてもちろん相手を見ずに同じ振りを繰り返す。
すべての出し物が終わったとき、期待していたら全員が舞台に出てきて踊りたくった。ブラボー!
堪能した2時間だった。
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ハンス・アルプ展  岡崎市美術博物館は遠いがいいところ

2005-07-17 | 美術
どうも関係がある気がしていた。アルプとドイツ表現主義の面々が。それもそのはず、クレー、カンディンスキーらと「青騎士」年鑑の編集に参加していたという。あの明快な色使いはシュルレアリズムに影響を受け、あの何とも言えない不思議な形はダダイズムの影響だ。と、アルプをカテゴライズするのは簡単だが、詩人を目指していたアルプを説明するのは簡単ではない。
アルザス地方のシュトラースブルク(現在のストラスブール)に生まれたアルプは、ドイツ語とフランス語の二つの言葉を母語に持ち、ドイツ人/フランス人のそのどちらでもあり、そのどちらでもない。早くから造形芸術に興味を持ったアルプは同時に詩作にも没頭し、後に文学と芸術の垣根を超えた創作活動へとつながっていくのだ。だが、創作のための安住の地はナチスドイツのフランスへの侵攻のため、スイスに移り住んだり、アメリカ移住を志したりと安定しなかった。その中でもアルプは、ダダイストの友人ら(ブルトン、エルンスト、マン・レイ、ダリら)との交友をはぐくみ、旺盛な創作活動を止めなかった。そこで開化したのが「オブジェ言語」であり、「敷居彫刻」である。
オブジェ言語とは、「人間は万物の尺度ではない」(アルプ)ということを前提に人間をモノ化して、単純化する。たとえば口ひげ、“へそ”だけで他の何でもない日用品と同じ目線で人間を表現しようとする試み。また「敷居彫刻」は、金属の板をくり抜いて、いわば足すことによる彫刻制作を「ひく」ことによって表現。いずれも抽象的であるが、不思議とわかりやすく、ほのぼのと惹かれるフォルムだ。
ブランクーシの彫刻が研ぎすまされた自己に向かう洗練なら、アルプのそれは言わば異界(詩、日用品など)との融合。数々のトルソも一見およそ人間には見えないが、じっくり見ると人が膝づいて、あるいは四つん這いになっているように見えてくる。そして思わずにやりとしてしまう。アルプのフォルムの根底には自然界のそれが煌めいているからかもしれない。
最後に、ジャン・アルプと表記されることの多かったアルプがハンスとドイツ語式になった。アルプが出生した当時はドイツ領だったためそうなったのか。いずれにしてもバイリンガルに生まれたアルプの複雑な土地がらを表しているようではある。
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この爽快感が現実になれば  マラソン

2005-07-10 | 映画
一時期日本のテレビドラマで「障害者もの」が流行った。しかし、自閉症をあつかった作品はなかったのではないか。また、映画でも聾唖の忍足亜希子さんがあの美しいスマイルでいくつか出演している。でも、知的障害をあつかったものはやはり少ない。アメリカでは古くは「レインマン」 。ショーン・ペンの「アイ アム サム」もある。実際にダウン症の人が演じた「8日目」もあった。難しいのだろう。健常者が演じるのは。しかし、チョ・スンウはすごかった。
体は大人であるのに、幼児の心を持ったままの演技とはどのようなものか。脚本/監督のチョン・ユンチョルは、言う。「自閉症児は無愛想だと思われがちですが、実はそうではありません。正直で、気ままに行動する、天真爛漫な子どもとして、はつらつと描こうと思った」。そう、養護学校や職業訓練校が近い地域でや車内やホームでいろいろな障害児/者に会っているはずだ。しかし、「障害児/者」は皆同じだと、決まりきったパターンがあって、変化に乏しいと思ってはいなかったか。
主人公のチョウォンは走ることが好きだ。しかし、母親はこの子に何かひたむきになることを、「普通に」できることを見つけてやりたいという一心でマラソンを押し付けたのではないかと苦悩する。母親の願いは一つ「この子より一歳長生きすること」は悲痛だ。社会適応が困難な障害児/者の世話はたいていの場合母親が一手に引き受ける。映画でも父親は逃げ腰だった。しかし、その母子密着は母親の老い、死とともに残された障害者を独りぼっちにしてしまうという危険性を常に内包している。障害のある人が社会の中で、家族の中に閉じてしまわずに、生活していくというのは言葉では簡単であるが、現実では難しい。何せ、韓国でも自閉症児に対する特別な施療/策が社会的に講じられてまだ5年ほどというのであるから。そして、この日本でも障害児/者に対する目はとてつもなく冷たい。
母親だけに背負わせてはならない。チョウォンのようにマラソンを見つけられた人は幸せな方で、多くの人は差別を含む社会的困難さの中で日々生活を送っている。しかし、幸せなチョウォンの物語は悲壮感なく描かれていて、本作のさわやかな魅力を生み出しているのが救い。そして、本作は実際、自閉症児でありながら、3時間を切るマラソンレコードを出し、トライアスロンまで制覇した実在のペ・ヒョンジンさんの話がベースとなっているから嘘っぽくもない。
知的障害ではないが、「オアシス」でムン・ソリが演じたCP(脳性麻痺)患者の演技もすばらしかった。韓国映画の元気さは、イケメンスターのかっこ良い役だけで成り立っているのではない。それにしても、チョ・スンウのあの美しい瞳がうらやましい。
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斬新な陶芸、安寧の正体  加守田章二展

2005-07-07 | 美術
自分に合う窯を探して各地を渡り歩く作家は少なくないかもしれない。加守田は栃木県益子に居をおき、柳田国男で有名な岩手県遠野に足をのばし、新境地を開いたという。遠野時代の作品の原点は須恵器である。日本におけるロクロ技術の大成とその大胆な可能性に挑戦した作品群は、色合いはもちろん、形も、大きさもどこか懐かしく、大地に近づいた感さえ覚えさせる心地よさを醸し出している。
益子焼と言えば、普段使いの安価な陶器と捉えがちであるし、加守田もお高くとまった陶芸をそこに見いだそうとしていたのではない。というのは、今回の作品群を見ていて、思ったのは「この花瓶にはどんな花が似合うだろうか」、細高いきりりとした一品には百合の一輪挿しだろうか。あるいは、須恵器の特有の泥臭い雰囲気の平鉢には、「白身の刺身と白髪ネギだろうか」なんて、その器が実際使われることを前提として醸し出された加守田の仕事に見入ってしまったからだ。
そう、陶芸展は器そのものに焦点をあて、その器がどう使われたら、供されたら美しいかについてはあまり想像力をかき立てる方向にいかない。それはそうだろう。陶芸展でいちいち花を生けていたら、その作品がかすんでしまうかもしれないし、まして花は高くつく。洗練された陶芸作品は、そのもの自体で自己完結していると言われればそれまでだが、益子焼の地で修行した加守田の作品に、古代人、平安人が愛した、あるいは普段使いとした須恵器に思いを寄せる加守田の心根になかなかたどり着けない。ような気がする。
加守田の作品にどこかほっとする陶芸素人に、斬新さとは必ずしもアバンギャルドではないという確信をある意味で与えたくれた本展である。
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根源的な問いこそ先  高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)

2005-07-06 | 書籍
靖国神社を分析、解説、その歴史的経緯を説いた本は数多ある。また、靖国神社の「問題」を問うた著作も人口に膾炙している。が、現在の小泉首相の靖国参拝の意味をーー中国からの抗議に対する反発ではなくてーー靖国の持つ現在的意義から解説したのは本書が初めてではなかろうか。
高橋は従来の靖国神社についての歴史的解説と政治的動向に重きを置いた手法を踏襲せず、「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」そして「国立追悼施設の問題」という切り口で、靖国の今、何が問題であるのかを入門者にも分かりやすく提示して見せた。節ごとの掘り下げの甘さというか、物足りなさについては各自それまでの靖国本を参照したらいいのだろう。
個人の価値観の範疇として上記のような分類、接近の手法は肯べられるとしても、新書本の限界性故物足りない部分もある。たとえば、神社信仰から靖国へと収斂させられた明治の神道会の動き、戦後の靖国と遺族会、遺族援護法との関わり、政治家との関わりなど。
しかし高橋の論旨は明確である。国家による追悼を前提とする施設の存在は、国家による死=戦争を前提としてでなければありえない。すなわち、「日本の平和と独立を守り国の安全を保つため」の死とは、日本が戦争をすることを前提としており、それは憲法(前文や9条の理念)と相反するものであると。
ところが、現在の「靖国問題」は中国や韓国からの歴史認識の問題追及/齟齬があるからという認識であり、かつ、「日本の平和と独立を守り国の安全を保つため」むしろ海外派兵さえもしているという現実矛盾に直面しているというのである。
言うまでもない。高橋の論証は別に目新しくもないし、憲法9条擁護派からさんざん言われていることでもある。でも、なぜ新鮮なのか。それは、靖国の本質=反逆側は絶対祀らないという靖国の前身、東京招魂社の実相、それを諾としつつ、靖国を祖国の英霊を慰霊するため絶対的存在としてきた近代天皇制と真正面から向かい合うことを避けてきたからにほかならない。
高橋は指摘する。首相の靖国参拝を問う訴訟において「違憲」または「違憲の疑いあり」また、憲法判断に踏み込まなかった判決はいくつかあるが、いずれも「合憲」としたものはないと。
そう、小泉首相の靖国参拝は「合憲」にはなりえないのだ。だから、靖国側は憲法そのものを変えようとしているという理解が正しいと。
追悼施設のあり方は、各国、各地模索の対象だ。沖縄の「平和の礎(いしじ)」は、戦争責任の追及が甘いと批判され、天皇さえ訪れる。一方、ドイツはベルリン、ブランデブルグ門の前に広大に敷設されたナチス犠牲者追悼碑群は、イスラエルからの反発をも無視して建設された。そして、そのドイツは先の戦争に区切りをつけたのではないかもしれないが、戦後初めてコソボに海外派兵を果たした。
国連常任理事国入りを狙う日本、そしてドイツ。国際社会のなかで自国の戦争責任を自国が追悼するかたちで解消しようとする試みについては大きな躊躇を持ったほうがいい。高橋の靖国入門書はさらなる靖国「問題」理解への一助となりうる。
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