そして汝はかく行動せよ。
汝と汝の行いに
全ドイツの運命がかかっているがごとく。
そして汝一人がその責を負わねばならぬがごとく。
(「白バラ」運動=反ナチの理論的指導者クルト・フーバーが逮捕され最終陳述で述べた哲学者フィヒテの言葉)
上映の間ずっと考えていたことがある。一つは現在国会で議論されている「共謀罪」のことだ。実際に実行を考えていなくても実行に移さなくても、「悪いこと」を話しただけで罰せられる共謀罪は、内心の自由を侵し、究極の自己規制、萎縮、その前提となる密告社会を生み出す。しかし、マスコミをはじめ世間の反応は鈍いように見える。法務省の説明はくるくる変わっていて、その矛盾を突かれると「居酒屋談義では罰せられません。国際的犯罪ネットワークの断絶が目的」などというが、それならば現行の刑法、国際刑事法などで対処できる。共謀罪は紛れもなく市民社会を見張るための現代の治安維持法なのだ。治安維持法が最初は緩やかな刑罰しか持っていなかったのにどんどん「改正」、拡大解釈されて昭和10年代には「死刑」を含む厳罰化、横浜事件などの冤罪を生み出したことはいくら指摘してもしすぎることはない。
大学で「違法」ビラを撒いたとして通報したのはゲシュタポの犬、学生の動きを常に見張っていいた用務員だった。ビラの内容はヒトラーの戦争勝利宣伝が間違いで多くの戦死者がスターリングラードの激戦地で出ているから撤兵をとの「良識」に満ちただけのものであった。ドイツ兵をこれ以上死なせまいという愛国心が「国家反逆罪」に問われたのだ。
上映中考えていたもう一つのこと。東京都では学校現場における「日の丸」「君が代」攻撃がすさまじい。1999年に「国旗・国歌法」が成立した際には法務省は内心の自由を侵すものではないし、静かに拒否できる自由もあるとの答弁をしていたのに、卒・入学式での「君が代」斉唱中に歌わず座っていた教員は処分され、今や教員が大きな声で「きちんと」歌っていても、その教員のクラスの生徒が歌っていなければ、その教員を処分するというのだ。自分の先生が処分されることがわかっていながら自己の良心や内心の自由を守ることは難しい。これはすでに生徒の内心の自由や表現の自由を奪っていることは明らかである。
ゾフィー・ショルと兄ハンス・ショルの撒いたビラは前述の程度であり、そのビラを信じるか、ナチ政府の言うことを信じるかは人それぞれ、自由であるはずである。またビラはあくまで文字であり暴力をもってして政権に反対したわけでもない。静かな抵抗にすぎない。が、ナチはそれさえも許さなかった。
時代が違う、現在日本には日本国憲法もあるし、いろいろしゃべっても罰せられることはないし、出版の自由だって保障されていると考える向きもあるだろう。けれどファシズムの動きにはたとえ小さなものであっても敏感に徹底的に反対しなければあっという間に私たちの生活を脅かすものであると思う。そしてその憲法さえ変えられようとしている。
映画の見所の一つに捕えられたゾフィーと取り調べを担当する警察官モーアとのやり取りがある。賢く毅然としたゾフィーの言動に仲間の名を言えば少しは助けてやると懐柔策まで弄するが信念を曲げないゾフィーは拒否。興味深かったのは一介の取り調べ警察官であるモーアより、「人民裁判」のフライスラー裁判長の方がずっと狂信的、冷静とはほど遠いように見えたこと。フライスラーは自分の担当する「人民法廷」で3年間に2295人の死刑判決を出したという。
有無を言わせぬ暴力、反論の機会を一切与えない酷薄な時代。ナチの横暴が猖獗を極めた時代であっても、良心に生きた人はいた。しかし、その良心のためにビラを撒いたわずか5日後に断頭台に送られたゾフィーら。
ナチスドイツの蛮行あるいはその時代を描いた作品は、ホロコーストもの(「シンドラーのリスト」が頂点、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「戦場のピアニスト」が続く)から「アドルフの画集」や「ヒトラー 最後の12日間」などより個別的、ミクロなストーリーに変わってきたように思う。「ヒトラー 最後…」はユダヤ人虐殺を否定あるいは無視しているとしてイスラエルなどが猛反発したが、歴史における「客観性」といったものは加害者側からある程度の被害者側の同意・納得を得た上でしか言いにくいものだというはわかる。しかし、だからといって圧倒的な加害責任(ナチスのなしたこと、あるいは日本が中国や朝鮮半島、アジア、太平洋でなしたこと)を認識した前提がないと「史実に基づいた」「客観性」が担保される映像は生まれないのかもしれない。
ゾフィー・ショルの勇気はプロテスタントであった彼女自身が言うように「神」の存在にも支えられていたのかもしれない。しかし、「神」がいなくともファシズムに抗う勇気は、現在の日本の状況でも十分求められているのではないか。私も。
「文明国の国民が、下劣な本能の命じるままに行動する無責任な一派による支配に、何の抵抗もなく従うとすれば、その国民にとってそれ以上恥ずべきことはない。」
(1942年 白バラグループによる最初のビラ)
汝と汝の行いに
全ドイツの運命がかかっているがごとく。
そして汝一人がその責を負わねばならぬがごとく。
(「白バラ」運動=反ナチの理論的指導者クルト・フーバーが逮捕され最終陳述で述べた哲学者フィヒテの言葉)
上映の間ずっと考えていたことがある。一つは現在国会で議論されている「共謀罪」のことだ。実際に実行を考えていなくても実行に移さなくても、「悪いこと」を話しただけで罰せられる共謀罪は、内心の自由を侵し、究極の自己規制、萎縮、その前提となる密告社会を生み出す。しかし、マスコミをはじめ世間の反応は鈍いように見える。法務省の説明はくるくる変わっていて、その矛盾を突かれると「居酒屋談義では罰せられません。国際的犯罪ネットワークの断絶が目的」などというが、それならば現行の刑法、国際刑事法などで対処できる。共謀罪は紛れもなく市民社会を見張るための現代の治安維持法なのだ。治安維持法が最初は緩やかな刑罰しか持っていなかったのにどんどん「改正」、拡大解釈されて昭和10年代には「死刑」を含む厳罰化、横浜事件などの冤罪を生み出したことはいくら指摘してもしすぎることはない。
大学で「違法」ビラを撒いたとして通報したのはゲシュタポの犬、学生の動きを常に見張っていいた用務員だった。ビラの内容はヒトラーの戦争勝利宣伝が間違いで多くの戦死者がスターリングラードの激戦地で出ているから撤兵をとの「良識」に満ちただけのものであった。ドイツ兵をこれ以上死なせまいという愛国心が「国家反逆罪」に問われたのだ。
上映中考えていたもう一つのこと。東京都では学校現場における「日の丸」「君が代」攻撃がすさまじい。1999年に「国旗・国歌法」が成立した際には法務省は内心の自由を侵すものではないし、静かに拒否できる自由もあるとの答弁をしていたのに、卒・入学式での「君が代」斉唱中に歌わず座っていた教員は処分され、今や教員が大きな声で「きちんと」歌っていても、その教員のクラスの生徒が歌っていなければ、その教員を処分するというのだ。自分の先生が処分されることがわかっていながら自己の良心や内心の自由を守ることは難しい。これはすでに生徒の内心の自由や表現の自由を奪っていることは明らかである。
ゾフィー・ショルと兄ハンス・ショルの撒いたビラは前述の程度であり、そのビラを信じるか、ナチ政府の言うことを信じるかは人それぞれ、自由であるはずである。またビラはあくまで文字であり暴力をもってして政権に反対したわけでもない。静かな抵抗にすぎない。が、ナチはそれさえも許さなかった。
時代が違う、現在日本には日本国憲法もあるし、いろいろしゃべっても罰せられることはないし、出版の自由だって保障されていると考える向きもあるだろう。けれどファシズムの動きにはたとえ小さなものであっても敏感に徹底的に反対しなければあっという間に私たちの生活を脅かすものであると思う。そしてその憲法さえ変えられようとしている。
映画の見所の一つに捕えられたゾフィーと取り調べを担当する警察官モーアとのやり取りがある。賢く毅然としたゾフィーの言動に仲間の名を言えば少しは助けてやると懐柔策まで弄するが信念を曲げないゾフィーは拒否。興味深かったのは一介の取り調べ警察官であるモーアより、「人民裁判」のフライスラー裁判長の方がずっと狂信的、冷静とはほど遠いように見えたこと。フライスラーは自分の担当する「人民法廷」で3年間に2295人の死刑判決を出したという。
有無を言わせぬ暴力、反論の機会を一切与えない酷薄な時代。ナチの横暴が猖獗を極めた時代であっても、良心に生きた人はいた。しかし、その良心のためにビラを撒いたわずか5日後に断頭台に送られたゾフィーら。
ナチスドイツの蛮行あるいはその時代を描いた作品は、ホロコーストもの(「シンドラーのリスト」が頂点、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「戦場のピアニスト」が続く)から「アドルフの画集」や「ヒトラー 最後の12日間」などより個別的、ミクロなストーリーに変わってきたように思う。「ヒトラー 最後…」はユダヤ人虐殺を否定あるいは無視しているとしてイスラエルなどが猛反発したが、歴史における「客観性」といったものは加害者側からある程度の被害者側の同意・納得を得た上でしか言いにくいものだというはわかる。しかし、だからといって圧倒的な加害責任(ナチスのなしたこと、あるいは日本が中国や朝鮮半島、アジア、太平洋でなしたこと)を認識した前提がないと「史実に基づいた」「客観性」が担保される映像は生まれないのかもしれない。
ゾフィー・ショルの勇気はプロテスタントであった彼女自身が言うように「神」の存在にも支えられていたのかもしれない。しかし、「神」がいなくともファシズムに抗う勇気は、現在の日本の状況でも十分求められているのではないか。私も。
「文明国の国民が、下劣な本能の命じるままに行動する無責任な一派による支配に、何の抵抗もなく従うとすれば、その国民にとってそれ以上恥ずべきことはない。」
(1942年 白バラグループによる最初のビラ)