壮絶なイジメ、暴力にあったチェン・ニェンが坊主にして登校するシーンといい、どこか岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」(2001)に対するオマージュがあるのではと感じていたが、やはりそうであった。随分昔だが、「リリイ」について教員をしている友人と話していたら「現実そのまますぎてキツイ」と吐露していた。「リリイ」で描かれるのは、イジメとそれを見て見ぬ振りをする大多数の生徒、援助交際、万引き。パシリさせられる少年は、思いを寄せいていた少女がレイプされたこともあり、イジメの首謀者(彼もまた厳しい家庭環境、状況にがんじがらめになっていた)を刺す。救いがなさすぎる「学園もの」であった。
「少年の君」は救いがあるのだろうか。北京大学などを目指す超難関、進学校に通うチェン・ニェンは娘のために怪しい商売もする母親と二人暮らし。イジメにあっていた同級生が校舎から飛び降り自殺した現場に遭遇、スマホで撮りまくる生徒の中を倒れた同級生にそっと上着をかけたことでチェンがイジメの標的に。首謀者は裕福な家庭で、チェンとは正反対のウェイ。チェンが知り合った暴力だけが生存の証であるチンピラのシャオベイは、チェンを守ると宣言するが。
学園ものであり、青春ものであり、ラブストーリーである。そして、刑事ドラマであり、ヒューマンドラマでもある。驚いたのはストーリーの重層性だ。ウェイ殺害の疑いをかけられたチェンがそれを否定して、シャオベイとともに曖昧なカタチでエンドかと思ったら、そこからが長かった。作品の最後に流れるシャオベイ役の俳優が、本編の後、中国でイジメ対策に確かに取り組んでいると述べる下りに強権国家になびく姿勢を感じ、興ざめしたが、監督・製作者はそれも織り込み済みだろう。中国映画は結構上映されていた改革開放が初期段階の時代、文化大革命の時代を描いた作品も多かった。もちろん「青い凧」のように未だ中国では上映が許されない作品もあるが、現実の中国共産党の姿勢に対して、それぞれどこまで描いても大丈夫かとの挑戦や果敢な試みがあったように思う。しかし、自由と民主主義の地・香港が、今や共産党の「直轄地」と変転ささせられている現在、中国映画で描けるものは限定されるのでないかと思える。だから描き方には細心の注意を払ったに違いない。中国政府がイジメ対策に取り組んでいるという付け足しは、観る側が「ああ、やはりそうか」と感じとるためのプロットであったと考えるのは穿ち過ぎだろうか、そうは思えない。
結局、本作では科挙の歴史を有する現代中国の受験戦争、学歴一本槍の競争社会を告発するものとはなっていないし、イジメに対する子どもの反抗・反撃の仕方として有効な処方箋を示しているのでもないし、罪を犯した、犯さざるを得なかった年少者の更生や生き直しのストーリーにもなっていない。描かれているのは、チェンと、シャオベイのその後、そしてイジメの加害者、それを覆い隠し、チェンに表面的な赦しを請うことで命をおとしてしまうウェイが死体で見つかったという事実だけである。だから「リリイ」と同じくらい現実的なのだ。
自死に至った場合はイジメの存在や実態が明らかになることもあるのかもしれないが、そうでなければ、いじめられていた子が転校するなどで表面化しない例の方がはるかに多いだろう。しかし、イジメが完全になくなる学校が、競争社会を温存した中でありえるとは思えない。チェンはその助けを自分とは別世界、正反対の世界に棲むチンピラのシャオベイに求めた。そして助け求める存在が出現したという意味ではチェンは束の間の安らぎ、安寧を経験できた。その果てが悲劇的であったとしても。
強権主義国家の象徴とも思える現代中国でも、個々の子どもの内面まで管理できなかったし、教師が表面的な建前で子どもらに訴えていて、子どもらも表面的に応えていた。そのアイロニーを一番描きたかったのではないかと、本作を観つつ考えていた。