kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「リリイ・シュシュのすべて」へのオマージュが美しい  「少年の君」

2021-07-23 | 映画

壮絶なイジメ、暴力にあったチェン・ニェンが坊主にして登校するシーンといい、どこか岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」(2001)に対するオマージュがあるのではと感じていたが、やはりそうであった。随分昔だが、「リリイ」について教員をしている友人と話していたら「現実そのまますぎてキツイ」と吐露していた。「リリイ」で描かれるのは、イジメとそれを見て見ぬ振りをする大多数の生徒、援助交際、万引き。パシリさせられる少年は、思いを寄せいていた少女がレイプされたこともあり、イジメの首謀者(彼もまた厳しい家庭環境、状況にがんじがらめになっていた)を刺す。救いがなさすぎる「学園もの」であった。

「少年の君」は救いがあるのだろうか。北京大学などを目指す超難関、進学校に通うチェン・ニェンは娘のために怪しい商売もする母親と二人暮らし。イジメにあっていた同級生が校舎から飛び降り自殺した現場に遭遇、スマホで撮りまくる生徒の中を倒れた同級生にそっと上着をかけたことでチェンがイジメの標的に。首謀者は裕福な家庭で、チェンとは正反対のウェイ。チェンが知り合った暴力だけが生存の証であるチンピラのシャオベイは、チェンを守ると宣言するが。

学園ものであり、青春ものであり、ラブストーリーである。そして、刑事ドラマであり、ヒューマンドラマでもある。驚いたのはストーリーの重層性だ。ウェイ殺害の疑いをかけられたチェンがそれを否定して、シャオベイとともに曖昧なカタチでエンドかと思ったら、そこからが長かった。作品の最後に流れるシャオベイ役の俳優が、本編の後、中国でイジメ対策に確かに取り組んでいると述べる下りに強権国家になびく姿勢を感じ、興ざめしたが、監督・製作者はそれも織り込み済みだろう。中国映画は結構上映されていた改革開放が初期段階の時代、文化大革命の時代を描いた作品も多かった。もちろん「青い凧」のように未だ中国では上映が許されない作品もあるが、現実の中国共産党の姿勢に対して、それぞれどこまで描いても大丈夫かとの挑戦や果敢な試みがあったように思う。しかし、自由と民主主義の地・香港が、今や共産党の「直轄地」と変転ささせられている現在、中国映画で描けるものは限定されるのでないかと思える。だから描き方には細心の注意を払ったに違いない。中国政府がイジメ対策に取り組んでいるという付け足しは、観る側が「ああ、やはりそうか」と感じとるためのプロットであったと考えるのは穿ち過ぎだろうか、そうは思えない。

結局、本作では科挙の歴史を有する現代中国の受験戦争、学歴一本槍の競争社会を告発するものとはなっていないし、イジメに対する子どもの反抗・反撃の仕方として有効な処方箋を示しているのでもないし、罪を犯した、犯さざるを得なかった年少者の更生や生き直しのストーリーにもなっていない。描かれているのは、チェンと、シャオベイのその後、そしてイジメの加害者、それを覆い隠し、チェンに表面的な赦しを請うことで命をおとしてしまうウェイが死体で見つかったという事実だけである。だから「リリイ」と同じくらい現実的なのだ。

自死に至った場合はイジメの存在や実態が明らかになることもあるのかもしれないが、そうでなければ、いじめられていた子が転校するなどで表面化しない例の方がはるかに多いだろう。しかし、イジメが完全になくなる学校が、競争社会を温存した中でありえるとは思えない。チェンはその助けを自分とは別世界、正反対の世界に棲むチンピラのシャオベイに求めた。そして助け求める存在が出現したという意味ではチェンは束の間の安らぎ、安寧を経験できた。その果てが悲劇的であったとしても。

強権主義国家の象徴とも思える現代中国でも、個々の子どもの内面まで管理できなかったし、教師が表面的な建前で子どもらに訴えていて、子どもらも表面的に応えていた。そのアイロニーを一番描きたかったのではないかと、本作を観つつ考えていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「著しく正義に反する」のはどちらか?  『大崎事件と私』

2021-07-21 | 書籍

とてつもないパワーである。大崎事件とその弁護団事務局長である鴨志田祐美さんのお名前くらいは知っていたが、事件の再審活動とそれをずっと一線でたたかってきた鴨志田さんの人となりがよく理解できた。事件は1979年10月。鹿児島県曽於郡大崎町で男性の遺体が発見されたことが発端。警察は、遺体の兄二人と次男の息子を共犯とし、首謀者は長男の「嫁」である原口アヤ子さんであると逮捕した。アヤ子さん以外は「自白」したが、アヤ子さんだけは一貫して否認したが、上告審までいって確定し、10年間服役した。「自白」した3名は知的障がいがあり、供述弱者であったのに自白調書は採用され、いずれも地裁で確定し服役した。自白以外にほとんど客観証拠が存在しないのに、警察が保険金目当ての殺人との見立てで捜査したために供述弱者の3名は簡単に自白してしまった事例であった。服役したうちの二人は出所後に自殺、夫が「やってもいないのにアヤ子を引き込んでしまった。すまない」というのに一緒に再審をと誘ったアヤ子さんに「自分はもういい。しない」と言ったためにアヤ子さんは離婚。以後一人でたたかってきた。

再審の過程が異常なのは第1次再審の地裁と第3次再審の地裁、高裁と3度も再審開始の決定が出ているのに、未だに再審開始となっていない理由と状況だ。特にひどいのが第3次再審の最高裁の棄却決定である。地裁、高裁もそれぞれ精度の高い、説得力のある再審開始事由を認定しての開始決定であるのに、最高裁はその中身を十分に吟味したとは言えない薄っぺらな理由と長さで再審を認めなかったのだ。最高裁が検察の特別抗告を認めないなら、高裁に差し戻せばいいものを、自ら再審を開始しないとの判断まで出したのだ。現に袴田事件では最高裁が高裁に差し戻して現在東京高裁で審理されている。ちなみにこの最高裁決定では、再審を開始すべきとする2名の最高裁判事の反対意見がある。

そして、なぜこのような再審開始まで時間や労力がかかるのかについて、日本の再審事件では開始決定が出ても、検察官の不服申立権があり、いずれも最高裁まで争われるという点にある。勘違いしている人も多いようだが、再審開始決定が確定しないと再審公判は始まらないのだ。第2次再審から弁護団に加わった鴨志田さん自身が40歳で司法試験に合格した苦労人で、その知力、行動力とパワーで弁護団を牽引してきた。第3次再審では誰もが開始されると確信しており、メディアも支援者もその準備をしていたところに最高裁の「クソ」決定(鴨志田さんの言葉ではない、念のため。)。決定を受けた日、東京のホテルへの帰途、高層ホテルから飛び降りれば、との思いもよぎったという。しかし周囲の励ましもあり、立ち上がる。現在第4次再審を申し立て、鹿児島地裁で審理中である。

本書は、再審の流れと並行して、現状の刑事訴訟の歪みと再審の細かな規定がないなどの欠点、自身のプライベートな部分も描いていて丸ごと「鴨志田本」である。筆者は、先日開催された日本裁判官ネットワークでの講演会で、鴨志田さんも参加されていてZOOMの画面で自著を宣伝されていたので手に取ったのだが、700頁に当初怯んでしまった。しかし読了してよかったと思う。大崎事件だけではなく、湖東病院事件や東住吉事件といった再審無罪を勝ち取った人たち、様々な弁護士仲間、研究者、日本の刑事司法の現状に警鐘を鳴らし続けている周防正行さんも登場し、その多彩な人的繋がりと豊かさんが見られる。そう、鴨志田さんは「人持ち」だったのだ。猛烈な忙しさの中で夫が病に倒れ、夫の母も逝去する。自身の事務所は火の車で、ベテラン事務職員の退職申し出。鹿児島の広い家にたった一人でいる理由はないと事務所をたたみ、この4月から鹿児島と東京の中間の京都で活動する。実際にお話を伺える機会もあることだろう。(『大崎事件と私 アヤ子と祐美の40年』2021 LABO)

ここからは宣伝。テレビドラマで話題となった「イチケイのカラス」。もともとはモーニング誌に連載されていた。その原作者と監修した弁護士さんをお呼びしてイベントを開催する。筆者が世話人を務める司法改革大阪各界懇談会と大阪弁護士会の共催である。筆者は全体の司会をつとめる。時節柄ZOOMウェビナーでの視聴となるが、500名まで対応可能なのでご興味のある方は、イベントのURLかQRコードから申し込んでいただきたい。

(URL https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_JGQlcqAtTAGZ-VLrOWWPDg

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪で開催   やっと見られた「表現の不自由・その後」展

2021-07-17 | 美術

やっと見られた。「表現の不自由・その後」展。2019年のあいち・トリエンナーレでは行こうと予定した日を待たずに中止。あい・トリは閉展間際になり再開されたので、急ぎ出かけたが不自由展はすごい倍率の抽選でもちろんハズレ。もともと他の用事が入りそうだったので日を合わせてこの7月最初に入れた名古屋行き。名古屋展に足を伸ばそうとしていたら爆竹騒ぎで会場が閉鎖。どこまで右翼、レイシストは私に不自由展を見せたくないのか、と恨んだが同じように感じた人も少なくないだろう。大阪展も会場が街宣車や抗議電話などでビビってしまい「入館者の安全を確保できない」と会場利用を止めてきたが、開催側が裁判所に開催できる会場使用の仮処分を申し立て、最高裁まで行って「利用中止は(具体的危険性がないのに)まかりならん」と使用を勝ち取ったのは既報のとおり。

確かに会場のエル・おおさかの前には街宣車がノロノロ行き来し、街宣車や路上でがなり立てている人が数名。右翼も人材不足か、迫力不足? 時間帯によるが、エル・おおさかの周辺に一番人数が多かったのが警察官で、次に主催者の支援者、そして右翼。ここに「明白かつ現在の危険」(大阪地裁決定)があるとは思えないし、実際ないとして裁判所は利用中止を認めなかった。そもそも表現の自由に対する制約は憲法上想定されていないし、その範囲を確定することを考えるとするなら、すなわち表現の自由を脅かすことになるのは明らかだ。どのような表現さえあっていい。美術家の会田誠の作品が物議を醸したが、それも「見たくない自由」を保障するソーニングの問題で解決すべきだろう。

作品は、あい・トリよりかなり絞られていて、「従軍慰安婦」を象徴するとされる「平和の少女像」(キム・ウンソン、キム・ソギョン作)と昭和天皇の写真を含む支持体が燃やされる動画の「遠近を抱えてpartⅡ」(大浦信行作)はあったが、Chim↑Pomや、中垣克久の作品がなかった。この「少女像」と動画の2作品を、右翼が公開することを主に攻撃しているのだろうが、なぜ攻撃するのか分からないくらい穏当な表現と思える。「少女像」は従軍慰安婦を象徴していることから、歴史修正主義者としては絶対認められない背景があり、大浦動画については天皇の写真が燃やされることを我慢ならないとしているのだろう。しかし、「少女像」が従軍慰安婦を象徴しているとの理由は、従軍慰安婦とはどう定義できるかという歴史学的蓄積があり(吉見義明さんらの功績をあげるまでもなく、「従軍」だったのは明らか)、また、大浦動画については「天皇の写真が映り込んでいる紙」は「御真影」ではなく(右翼も「御真影」が下賜されるものだけを指すことを勉強してほしい)、いずれの批判、攻撃も当を得ていない。主催者側が「まず見てから言ってほしい」というのは、見る前から批判、攻撃ありきの人には届かないことが明白になっただけである。

ただ、街宣車の人たちが不自由展を盛んに「反日」呼ばわりするが、この国ではオリンピック開催に反対した人は反日だと、8年近く在籍した前首相が放言する。本当の「反日」が規定できるか、存在するのか分からない。しかし、国家転覆者ではない不自由展支持者や政策に反対する人に向ける言葉としてしては、あまりにも真正「反日」に失礼だと思うのだが、レッテル貼りというのはかくも安易で、実態とは関係ないという点では自戒したい。

(「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」の俳句)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェンダー規範だけではない、男社会の決められなさ  ペトルーニャに祝福を

2021-07-14 | 映画

昔住んでいたところの駅から向かう途中マネキン工場があった。ちょうど突き当たりを曲がったところに工場の窓があって、夜道にいきなりこちらを見つめる裸体に出会い、分かっていてもギョッとなったものだ。マネキンはそれが偽物とわかっていても、どこか艶かしく、髪の毛や衣類をつけていない分、ヒトの本質を現しているように見えて、恐ろしく、そして惹かれるものもある。

ペトルーニャは学歴も高いのに仕事に恵まれない。ウエイトレスはダメと母親のツテで面接にいった先は縫製工場。秘書希望と告げると、面接の男には体を触られたり、「そそられない」とのセクハラを受け、怒りと失意の上でブティックの友人の衣装部屋で見つけたマネキンを抱いてとぼとぼ帰途に着く。川で行われていたのは「神現祭」。司祭が川に投げ込む十字架を最初に見つけた男は1年幸福に過ごせると信じられている祭りだ。無心に飛び込んだペトルーニャが十字架を手に取る。しかし、いきりたった男がペトルーニャから十字架を奪うが、混乱の中で再びペトルーニャが入手、家に持ち帰る。

その後の周囲の対応と、言葉少ないペトルーニャの対応と心境の変化が本作の見どころだ。十字架を盗んだのではないことは明らかで、「盗った」と非難するマッチョな男どもを前に説明にオロオロする司祭。罪に問われないため、「逮捕」の合法的理由も示さず、ペトルーニャを留め置く警察署長、明らかに無知とジェンダー規範の因習ゆえにペトルーニャを縛る母親など。地方都市の警察署長と司祭は明らかになあなあの関係で正義、公正とは程遠い。しかしペトルーニャは「これは逮捕なの?」と問い続ける。扱いに困った警察署長は不合理な脅かしでペトルーニャを留め置き、騙して十字架を奪い金庫にしまってしまう。

警察署の前では怒りくるった男どもは騒ぎ立て、ペトルーニャを聞くに耐えない罵詈雑言で責め立てる。

「神現祭」で女性が排除されている実態を女性差別、ペトルーニャはそれを壊した英雄として、自身のメディアでの位置を高めたいリポーターが執拗に警察などを責め立てる様相も現在的で面白い。そもそもペトルーニャ応援の声が広まったのはSNSの動画である。しかし、北マケドニアという東方正教会が強い社会で女性差別を差別と認識する規範が弱い上、ソ連崩壊後の東欧の雇用不安もある。それらのマイナス要因を全て押し付けられてきたのがペトルーニャのような存在だ。ペトルーニャの扱いと十字架をどうするか、ああでもない、こうでもないと右往左往する支配側、決定側にいるはずの男どもは結局決められないし、決めるための法規範や理屈を見出せない。要するにジェンダー差別をはじめとしてそれまである「伝統」や「決まり事」について、きちんと考えてこなかった男社会の弊害が現前したのだ。むしろ、警察署に押しかけてペトルーニャを引きずり出せ、「盗んだ」十字架を取り戻せと騒ぐ男どもはもう暴力も厭わないレイシストの姿そのものであって、信仰に篤くありたいと思う敬虔な者の姿ではない。

警察署長をはじめとする堕落、現状への疑問もつゆほどなく、怠惰に過ごす同僚の姿に疑問を持っていた若い警察官だけがペトルーニャに寄り添い、ペトルーニャも自己評価を取り戻す。故ない拘束から解放されたペトルーニャは司祭に「私のものではない」と十字架を差し出し、明るく去るラストが素敵だ。

原題は「神は存在する。彼女の名前はペトルーニャ」。これも痛快である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカの「反共の戦後史」を知る   完結した山本おさむ『赤狩り』

2021-07-03 | 書籍

ついに完結した。このブログでは漫画、コミックはほとんど取り上げたことはなかったと思うが、山本おさむの『赤狩り The RED RAT in HOLLYWOOD』(ビッグコミック全10巻)は圧巻である。コミック以外の単行本では、通常、奥付の著者欄にはこれまでのその著作や論文(研究者の場合)が紹介されることが常だが、コミックではそうではない。だから山本が、あの障害(児)教育・生活の現実と現状を描いた名作『どんぐりの家』の原作者であることは分からないだろう。しかし、山本は表現者として、おそらく明らかにされなかった歴史の実態や実相にこだわる作品を遺そうとしたとのでは、と思える。

それはさておき、『赤狩り』で描かれるのは、アメリカ中枢に巣食う凄まじい反共攻撃、今で言うリベラル攻撃である。民主的、少しでもソ連と対話的であると見做せば徹底的に弾圧、攻撃、排撃する。山本は、本作を書き始めた時点では、稀代の名脚本家ドルトン・トランボの抵抗と復活の物語だけ描こうと考えたという。しかし、時代背景がそれを許さなかった。1950年代に吹き荒れた「赤狩り」の根本には、反共によって国内の民主派はもちろん、国外ではキューバ危機やソ連との「和平」を目指し、ベトナム撤兵をも考えていたケネディを抹殺するという軍産複合体、共和党の反共強行勢力、CIAやFBIといった国家機関の陰謀があるとするのだ。

もちろん、この見立てには証明できない、穿ち過ぎとの批判もあるだろう。しかし、歴史は繰り返す。独立国の主権を否定したイラク戦争(2003)では、アメリカは、フセイン政権が大量破壊兵器を保持しているからと侵攻を正当化したが、何もなかった。その派兵に日本も加担し、小泉純一郎首相が「自衛隊が行くところが非戦闘地域」と迷言したのは周知の事実である。

ハリウッドで親ソ的な人物を見つけたら、国が脅かされると追放する。しかし、何が「親ソ的」か、どうかの判断基準などそもそもない。それはどんどん広がり、「親ソ的」にリストに上がった人に反論しなかったや、資金提供したから「親ソ的」と範囲はどんどん広がる。ハリウッドに生きる映画人は、追放されるか、干されるか、イリア・カザンなどのようにうまく立ち回り、生きながらえるか。トランボは「赤狩り」に抵抗したハリウッド・テンの頭目と見做され、投獄された。そしてその前後の監視生活。しかしトランボはその間「ローマの休日」、「スパルタカス」などの名作、傑作を偽名で書き続ける。トランボが実名で仕事をできるようになってからも、アメリカの反共勢力は敵を作り続ける。その時代に並走したのがトランボであり、その時代を描くには第2次大戦後のアメリカの全てを描く必要があったというのだ。

アメリカがイラク戦争を仕掛けたのは、ハリバートンなどの多国籍企業がイラクの石油権益に目をつけたブッシュ政権の中枢チェイニー(ハリバートンのCEO)の思惑があったからとする論も説得力を持って語られている。自由の国アメリカでは、資本主義の論理により、他国に対する経済侵略や軍事侵攻も許され、それに異議を唱える者は命まで奪われる。ベトナム戦争もケネディ暗殺もそのコンテクストで読み明かされる『赤狩り』は、フィクショナルな説も含めて、アメリカ戦後史を見返す良いテキストであると思う。山本は巻末に、参照した膨大な書籍目録をつける。まるで研究書のようだ。コミックだからといって侮ってはならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする