kenroのミニコミ

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2014夏北フランスの旅4

2014-08-31 | 美術
印象主義の画家の中には普仏戦争を経験した者も少なくない。貧乏画家らを支援したバジールは戦死しているし、従軍経験を描いた者もいる。アメリカ独立戦争やスペイン内戦も取り上げられているが、筆者の個人的興味をひいたのはやはり2度の世界大戦を経験し、戦争の悪をこれでもかと描いたオットー・ディックスの作品群だ。ディックスは塹壕戦や銃後の退廃をこれでもかと思うくらい描き続けた。そのディックスの戦争=悪への警鐘は、第2次大戦で現実のものとなる。ディックスは40歳を過ぎて再び兵役にとられ、戦争の実相を経験する。戦後ディックスが述べた「人間はいつまでも過ちを犯す」の言は、2度の愚かな戦を経験したディックスの心情はその筆先に現れている。
第1次大戦は史上初の毒ガス戦と言われ、それまでの死者数とはくらべものにならない犠牲が出た。そしてヒトラーの登場。本展では、在日韓国人研究者の徐京植さんが発掘したホロコースト犠牲者であるフェリックス・ヌスバウムの絵まであった。ナチスはその精神にそぐわないと断じた絵画を毀棄したり、画家を弾圧したが、その陰でナチスやヒトラーを揶揄・批判する絵画も確実にあった。一方、ケーテ・コルヴィッツは若い兵士を送る母としての悲しみや、街で犠牲になる同胞の慟哭を無骨な彫刻に遺した。
画家の戦争協力という点では、日本人の藤田嗣治が、その責任追及に嫌気がさしたからフランスに逃れたと説明されることに典型的で、そういった例も多いが、ヨーロパの画家たちも同じ思いを抱いたであろう。第2次大戦後の戦争はおもにアメリカが関わる植民地支配、というより自国権益のための戦争である。
従軍写真家が多数戦場の実際を伝えたヴェトナム戦争では、絵画に変わって写真によって戦場にいない者が戦争を感じる時代となった。そこにはもうナポレオンやヒトラーなどの戦争指導者としての英雄はない。あるのは撃たれ、倒れ、殺されて行く兵士や市民、逃げ惑う人々。阿鼻叫喚が私たちの眼前に迫ってくるだけだ。
ポル・ポト派による自国民虐殺は、ユーゴスラビア内戦、ルワンダの殺戮などに続いてジェノサイドを現代人に認識させた。そこにはもう映像としての既視感だけで「画家」の出る幕はない。しかし、映像は同時代に起こっている事実を他国の人に伝えると同時に、現実世界を、たとえば、ディックスのように描いた戦場の実相ではなく、画家をして想像の範疇を超えて戦争の重さを描くという役割を与えた。
ところで想像の範疇を超えず実相を描いた画家もいた。本展では、もしあればいいなと思っていた画家の作品があり、それを見つけた時とてもうれしかった。
浜田知明。浜田の「初年兵哀歌(歩哨)」シリーズは、京都国立近代美術館、兵庫県立美術館、伊丹市立美術館がときおり作品展を開催するが、その戦争=悪の描き方はディックスに並ぶ、それ以上に鮮烈、そして静かに強い。さらにアウトサイダーアートのダーガーまであった。ダーガーの作風は、少女趣味のロリコン・異常性愛では決してない。それは実際の少女を知らない妄想の中で生きた描き方で明らかである(実際の女性を知らないダーガーは少女にペニスを描いた)。ダーガーにとって弱き者の象徴としての「少女」は、力を合わせて悪に立ち向かい、勝ち取る姿がナウシカのような英雄を望まない戦争の終わらせ方として新鮮で、アウトサイダーアートに私たちが期待してしまう、もっとも平和的なカタチを提示しているのかもしれない。(実は、ダーガーの描く群像は「少女」であるかどうかも疑わしい)
映像で描かれる時代に画家は出場できないと記したが、戦争は画家のもっとも描くべき、また描かざるを得ない題材である。ピカソが「ゲルニカ」を描いたからといって戦争が止んだわけでもない。しかし、「ゲルニカ」がなければ後世の私たちはゲルニカ爆撃(非戦闘市民に対する無差別爆撃はゲルニカと並び日本軍による重慶爆撃があるが、こちらは日本人画家による作品は寡聞にして聞かない)を知る、感じることは出来ないし、同じように映像がなければ、戦争の実相を現代の私たちは知ることはできない。
20世紀末~21世紀の戦争は、アメリカによるアフガニスタン攻撃、イラク攻撃、そしてリビア、シリア、そしてイスラエルとガザ地区などますます映像以外では描くことが困難な状況となっている。しかし、「戦場でワルツを」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%A5%EC%A5%D0%A5%CE%A5%F3)で描かれたように、戦争の実相を伝えることは美術家の永遠なる課題であり、そして何らかの方法で描くことができる。
そういった意味でもルーブル・ランスが今回企画した「戦争」展は、専守防衛の憲法9条を持つ日本が集団的自衛権行使に踏み出したとき私たちこそ、細微に感じる問題提起であるとも思う。ランスまで来て本当によかった。(オットー・ディックス)
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2 コメント

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略奪 (早弓)
2014-09-14 10:15:25
戦争とは要するに他者の財の略奪行為だと思います。満たされざる者が充ちているところから必要な分だけ失敬するならまだ許せるけれど、充分足りているのに更に独占しようとする。そこにヒューマニズムはない。芸術家は、そのような野蛮な精神に警告を発する役割を受け持って欲しいです。
ダーガーの純粋さには心打たれますね。
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略奪 (早弓)
2014-09-14 10:17:12
戦争とは要するに他者の財の略奪行為だと思います。満たされざる者が充ちているところから必要な分だけ失敬するならまだ許せるけれど、充分足りているのに更に独占しようとする。そこにヒューマニズムはない。芸術家は、そのような野蛮な精神に警告を発する役割を受け持って欲しいです。
ダーガーの純粋さには心打たれますね。
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