インセスト・サバイバーの穂積純さんが『甦える魂』を著したのが1994年。そして1995年には『解き放たれる魂』、2004年に『拡がりゆく魂』を上梓した(いずれも高文研)。穂積さんにはその間別の著書もあるが、自己の性虐待体験を語り、その上で他のサバイバーの力になりたいとその間の活動を記すのに10年、いやそれ以上かかったということだ。穂積さんは、自分を虐待した兄と同じ姓は耐えられないと家庭裁判所に氏の変更を申し立て認められている。インセストを理由に氏の変更が認められた例はないと思う。それほどまでに穂積さんにとっては家族の同一性、共同性を現す記号としての姓さえも厳しいスティグマであったのだろう。
プレシャスは16歳。2度目の妊娠の相手も父親。12歳の時産んだ子どもはダウン症で祖母のところに預けている。行方知れずの父のいない家では、働きもせず生活保護の申請も、家事もプレシャスに全部負わせるニコチン中毒の母と二人暮らし。その母は何かというと暴力を振るい、暴言は茶飯事。妊娠を理由に学校をやめさせられるが、代替校=フリースクールを紹介され勉強と自立に目覚めてゆく。16歳というのに読み書きもろくできないが、数学は得意だったから。プレシャスは年頃の女の子だというのに100キロは優に超える巨体。ハーレムに住む黒人貧困層でどのような生活習慣だったかが測られる。EOTO(Each One Teach One 誰でも教育を)という民間団体が運営するスクールにはプレシャスと同じように何らかの事情で学校をドロップアウトした子ばかりが通う。読み書きはできないが、スラングを発し、卑猥な話題ばかり、集中力を欠く子たちだが、これもワケありそうな先生レインによって自信と尊厳を取り戻していく。そしてプレシャスも自分におこったことを話し、母から自立の道を模索しはじめるが現実は厳しく、自分を襲った父がAIDSで死んだと聞いた後、自分もHIV陽性の診断が。
小学校レベルの読み書きもできなかったプレシャスが、拙いながらも詩を書き始めたのは、「つらい。書けない」と訴えるのにレイン先生が書くようすすめたから。文字の力を、自己表現の可能性を信じるレイン先生はレズビアンで自分の母親とうまくいかず何年も会っていないらしい。高等教育を受け、教育の現場にもいたようだが、「なぜここにいるの?」と生徒に聞かれて「教えることが好きだから」と返すレイン先生だけではない、ソーシャルワーカーのミセス・ワイス(マライア・キャリーが演じている!)もプレシャスの味方である。そう、母親や父、貧しい街中の悪ガキどもや級友は誰もプレシャスの味方ではなかった。それが肌の色の違う賢そうな人たちが自分の味方であるなんて。
サバイバーの物語はサバイブにそれこそ何年もかかるであろうし、どこまで行けば助かったなんてことは周囲にはもちろん本人にも分からないことが多いのではないか。そして、その条件としてサバイバーを支える人たちの存在、プレシャスの場合は先生、ソーシャルワーカー、そして新しいクラスメイトたちがいる。いろんな人に出会い、助けられ、そして助けていく過程で自分に非がないこと、自分の尊厳を認めることができるようになるのではないだろうか。プレシャスは今は読み書きも下手でそれ以外に自己表現も乏しいが、虐げられていた時、成功しスポットを浴びる自分の姿を夢想して現実の痛みから逃避していたが、今や「大学に行く。子どもたちは自分で育てる」ときっぱり。HIVのこともあり、その後プレシャスが本当に自立、幸せの道を切り拓けるかどうか分からないが、「私は誰にも愛されていない」と言うプレシャスにレインが言う「あなたのことを、あなたの赤ちゃんや私も愛している」。
いい意味でのアメリカンドリームという希望を小さく点したシーンに本作のねがいが現されているように思える。
プレシャスは16歳。2度目の妊娠の相手も父親。12歳の時産んだ子どもはダウン症で祖母のところに預けている。行方知れずの父のいない家では、働きもせず生活保護の申請も、家事もプレシャスに全部負わせるニコチン中毒の母と二人暮らし。その母は何かというと暴力を振るい、暴言は茶飯事。妊娠を理由に学校をやめさせられるが、代替校=フリースクールを紹介され勉強と自立に目覚めてゆく。16歳というのに読み書きもろくできないが、数学は得意だったから。プレシャスは年頃の女の子だというのに100キロは優に超える巨体。ハーレムに住む黒人貧困層でどのような生活習慣だったかが測られる。EOTO(Each One Teach One 誰でも教育を)という民間団体が運営するスクールにはプレシャスと同じように何らかの事情で学校をドロップアウトした子ばかりが通う。読み書きはできないが、スラングを発し、卑猥な話題ばかり、集中力を欠く子たちだが、これもワケありそうな先生レインによって自信と尊厳を取り戻していく。そしてプレシャスも自分におこったことを話し、母から自立の道を模索しはじめるが現実は厳しく、自分を襲った父がAIDSで死んだと聞いた後、自分もHIV陽性の診断が。
小学校レベルの読み書きもできなかったプレシャスが、拙いながらも詩を書き始めたのは、「つらい。書けない」と訴えるのにレイン先生が書くようすすめたから。文字の力を、自己表現の可能性を信じるレイン先生はレズビアンで自分の母親とうまくいかず何年も会っていないらしい。高等教育を受け、教育の現場にもいたようだが、「なぜここにいるの?」と生徒に聞かれて「教えることが好きだから」と返すレイン先生だけではない、ソーシャルワーカーのミセス・ワイス(マライア・キャリーが演じている!)もプレシャスの味方である。そう、母親や父、貧しい街中の悪ガキどもや級友は誰もプレシャスの味方ではなかった。それが肌の色の違う賢そうな人たちが自分の味方であるなんて。
サバイバーの物語はサバイブにそれこそ何年もかかるであろうし、どこまで行けば助かったなんてことは周囲にはもちろん本人にも分からないことが多いのではないか。そして、その条件としてサバイバーを支える人たちの存在、プレシャスの場合は先生、ソーシャルワーカー、そして新しいクラスメイトたちがいる。いろんな人に出会い、助けられ、そして助けていく過程で自分に非がないこと、自分の尊厳を認めることができるようになるのではないだろうか。プレシャスは今は読み書きも下手でそれ以外に自己表現も乏しいが、虐げられていた時、成功しスポットを浴びる自分の姿を夢想して現実の痛みから逃避していたが、今や「大学に行く。子どもたちは自分で育てる」ときっぱり。HIVのこともあり、その後プレシャスが本当に自立、幸せの道を切り拓けるかどうか分からないが、「私は誰にも愛されていない」と言うプレシャスにレインが言う「あなたのことを、あなたの赤ちゃんや私も愛している」。
いい意味でのアメリカンドリームという希望を小さく点したシーンに本作のねがいが現されているように思える。