kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」 福田緑写真展

2019-11-26 | 美術

福田緑さんは私のリーメンシュナイダー巡礼(というほど行ってはいない。単なる作品見学。)の師匠である。その福田さんがご自身が撮り溜め、写真集を3冊も出版された上、この度リーメンシュナイダー写真個展を開催された。

いい意味で「病膏肓に入」った福田さんのリーメンシュナイダー探求は半端ではない。収蔵する美術館・博物館や小さな教会に連絡をとり、見せて欲しい、写真を撮らせて欲しいと希う。もちろんすぐいい返事をくれるところは少ない。何回もコンタクトを取り、訪れ、懇請する。その熱意が伝わり、今では館長や学芸員、教会関係者など懇意になった人も数知れない。福田さんはリーメンシュナイダーを追いかけようと決めると単身で6か月に及ぶドイツ語留学で言葉を体得した。執念である。14回にも及ぶ渡独は、地方の小さな教会を訪れることもある。時間があてにならない列車に乗り、1日数本もないバスを乗り継ぎたどり着く。でも帰りのバスがもう来る。綱渡りのような旅程を支えるのは、福田さんがこの間紡いだドイツの友人ネットワークである。1か月以上に及ぶドイツ旅行にすべてホテルを使用するわけにもいかない。友人宅を泊り、時に送迎もしてもらう。福田さんが築き上げた信頼関係ゆえの交歓の結果である。ドイツ人は総じて親切だと聞くが、そこまでの関係を作るには絶え間ないアクセスとフォロー、そして感謝しているとの誠意が大切である。福田さんのひたむきさには頭が下がる。

リーメンシュナイダーは個展オープニングでお話しくださった永田浩三さん(武蔵大学教授、あいちトリエンナーレ「表現の不自由・その後」展実行委員)によれば、小田実は「「市民」がつくった彫刻(家)」と評していると紹介した。ルターによる「宗教改革」が吹き荒れた時代、ドイツ農民戦争に巻き込まれたリーメンシュナイダーは市長を務めていたこともあり、捕らえられ、彫刻をするには致命的である手をひどく傷つけられたとの話もある。リーメンシュナイダーがあれほど峻厳な像をつくることができたのはなぜか。それは彼の信仰ゆえだという。造形作家として彫っていたのではなく、信仰の証として彫っていたのだと。

それは分かるような気もするから不思議だ。福田さんにはおよそ及ばないが、筆者も福田さんの指南を得て、リーメンシュナイダーが多く展示されているフランケン博物館(ヴュルツブルク)とか、バイエルン国立博物館(ミュンヘン)であるとか訪れたのだが、その他の美術館でもリーメンシュナイダーの作品は近づくまでに遠くから判別できるのだ。あっ、リーメンシュナイダーだと。福田さんの仰るように本人だけか工房作かまではもちろん判別は難しいが、リーメンシュナイダー自身の作は感じるところがある。あの厳しいキリストの表情はリーメンシュナイダーでしか彫りえないと。

永田さんは、リーメンシュナイダーの彫像は「手」が素晴らしいと話された。確かに手は彫刻家のある意味目指すべき頂(いただき)で、ロダンの「痙攣した手」など拘った作品も数しれない。しかし永田さんの仰った「手」の表現は、むしろ彫刻家(に限らないが)の命である作品をつくる所作の本源としての「手」に対する崇高な思いの証ではないのか、と思える。

永田さんはリーメンシュナイダーは中世の彫刻家と紹介されるが、むしろルネサンスで顕現された人間性の発露、ではと問題提起された。そういう意味合いもあるであろうが、筆者はリーメンシュナイダーが「中世最後の彫刻家」(高柳誠 1999年)と評されるのは、その峻厳さゆえにゴシックの表象(教会が巨大建築=ゴシックの大聖堂、を建てるためにルターが批判した贖宥状を発行しまくった、というのはさておき)を見たからでないかと思える。大金と技術の粋を総動員したゴシックの大聖堂が不思議と静謐で謹厳な感じがする。

リーメンシュナイダーの塑像に見(まみ)える時、見ているこちら側に、どう見(まみ)えているのかと、問われる気がする。それほどまでに信仰を「超越」したリーメンシュナイダーの塑像群に、福田さんの個展で多くの人に触れて欲しいと思う。(「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」 ギャラリー古藤(http://furuto.art.coocan.jp)で12月7日まで。11月30日と12月6日にはギャラリートークもある。ぜひ)

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藤田嗣治の戦争協力の実相と戦争画の隠蔽  『画家たちの戦争責任』

2019-11-25 | 書籍

 著者の北村小夜さんご自身から貴重な書籍を寄贈いただいた。1925年生まれ、元教員の北村さんの『画家たちの戦争責任 藤田嗣治の「アッツ島玉砕」をとおして考える』(2019年 梨の木舎)は藤田らが描いた戦争協力・戦意鼓舞の戦争画が戦後GHQ(アメリカ)に接収され、1970年に「永久貸与」という形で日本に返還された153点が東京国立近代美術館に収蔵されたが、公開されない事実と藤田らの従軍画家の戦争責任追及に挑む。

北村さんは、藤田の画業を「そういう仕事を引き受ける他に戦争中絵を描いて暮らすことはできなかったにちがいない。その画面には戦争賛美も、軍人の英雄化も、戦意昂揚の気配さえもない。」と記す加藤周一に反論する。「私を戦争に駆り立てたものに戦争画、中でも藤田の絵は強力であった。」「彼(藤田)は自らの意志で戦争画家の道を選び、その地位を最大限に活用し、美術界にも大きな影響を及ぼした。」

ところで、アジア・太平洋戦争期に陸・海軍省の委嘱で制作された公式の戦争絵画を作戦記録画という。その数およそ220点。そのほとんどが洋画で日本画は2割に過ぎない。そして従軍画家は圧倒的に洋画家である。藤田の16点を筆頭に中村研一10点、宮本三郎(7)、向井潤吉(5)、小磯良平(5)などと続く。作戦記録画に主体的に関わったかどうかは別にして、戦争協力画家として戦後批判された画家には猪熊弦一郎や戦後間もなく死去した清水登之らもいる。猪熊は戦時中の自己の画業についてほとんど語らなかったとされるし、小磯も自己の戦争画公開には積極的ではなかったとされる。

藤田や猪熊、小磯を同列に述べることは難しいが、自己の戦争協力追及に逃げ出したのが1954年にフランス国籍を取得し二度と日本に帰らなかった藤田である。それほど藤田の技倆が優れていた証拠で、「聖戦美術展」では藤田の「アッツ島玉砕」には手を合わせる観客もいたという。並外れたデッサン力の持ち主である小磯といい、戦争画を描く者は写実的な油彩画を描く画家ばかりが選ばれたということでもあるし、西洋画を描く者こそ天皇を抱く世界に冠たる大日本帝国の軍門に下ったと見せつける意図もあったであろう。そして北村さんのように戦争画を前にして皇軍の必勝を誓った軍国少女も多かったに違いない。

北村さんは軍国少女として邁進した自己の反省をもとに、戦後長く障害児教育の現場にて働き、教育の戦争責任を追及してきた。北村さんの名言「戦争は教室から始まる」が思い起こされる。

藤田の画業は一般的な関心からは戦争画よりエコール・ド・パリで活躍した時代の乳白色の裸婦像が有名であろう。しかし藤田の画才が一番発揮されたのは戦争画であるとの見方もある。そして「アッツ島玉砕」が戦意昂揚にしてはテーマも雰囲気も暗すぎる、勇壮感が全く感じられない反戦画との見方さえある。しかし、作品は必ずしも画家の意図通りに見られるとは限らない。あの時代に「玉砕」という皇軍兵士としての最高の名誉を描いた作品の前で天皇のために死を誓うという現代から見れば倒錯的と思える意志を固くした人も多かったのだ。絵は時代状況と見る人によって、その意味付けがされるという事実も忘れてはならないし、であるからこそ、藤田の役割は重かったのである。

戦場などに従軍した日本画家は少なく、直接の戦意高揚と見えないからと、いや、富士山ばかり描くなどその画業が天皇と密接に結びついていたからこそ、戦後戦争責任追及から逃げおおせた横山大観などの存在もある。北村さんは東京国立近代美術館が収蔵する戦争画のすべての公開を訴える。一兵士として従軍し、その侵略性、悲惨さを実感しているからこそ戦後違った視点での戦争画に拘った香月泰男や浜田知明らもいる。画家の戦争責任追及に終わりはない。

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難民という近しい課題 『世界』と『美術手帖』の特集から

2019-11-17 | 書籍

ちょうど時宜を得た特集が関連性のない2誌で掲載された。『世界』12月号の「難民を追い詰める日本−認定率0.4%の冷酷」と『美術手帖』12月号の「「移民」の美術」である。

難民条約(1951年)及び難民の地位に関する議定書(1967年)によれば、難民とは「人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団に属することの少なくともいずれかの一つの理由で、迫害を受ける恐れがあるという十分理由のある恐怖を有する者」である。日本政府も81年に加盟、82年に発効している。日本の難民認定率の低さは極めて低いことは有名だが、では認定されなかった人たちはどう扱われているのか、あまり知られていないし、多くの人が知ろうとしない。法務省の出入国在留管理庁の収容所に収容されている人が多い。中には3年を超えて収容されている人もいる。刑事裁判で有期刑が確定した場合は終わりが見えるが、犯罪者でもないのにいつ終わるとも知れぬ収容の実態に迫ったのが「難民を追い詰める日本」である。極度の閉鎖状況の中で心身を病む者も続出、ハンガーストライキをおこなった者は一度収容を解き、その間に食事をさせ、2週間後に再収容するという酷さ。収容を解かれている間は就労も都道府県を越えた移動も許されない。入管の意図は明らかで、自分から帰国して欲しいのだ。しかし、政治的迫害から流れてきた人たちは帰国すれば死も含む身体の危険にさらされる。だから帰るに帰られないのだ。しかも帰国費用は私費である。当然絶望のあまり自殺する収容者も出る。2018年では病死1件、自殺1件、自傷行為43件にも及び、自殺は4月に茨城県牛久入管でのインド人男性の件である。仮放免申請が不許可となった翌日命を絶った。長期収容は収容者の心身に悪影響を及ぼすことが明らかであるのに、ここ数年長期収容が常態化しているという。「難民を」では収容経験のある「仮放免者」座談会や自殺を図った人に面会したジャーナリストのルポ、難民申請に奔走する弁護士の「まず、人間として迎えよ」原稿などからなる。

「難民」と近しい言葉に「移民」がある。「移民」は自ら望んでというニュアンスを感じるかもしれないが、日本からのブラジル移民や満州移民など、現地での現況を偽って駆り出した国策移民もある。また、親が移住したために連れてこられた子どもは自らの意思とは関係ない。さらに日本には強制連行や徴用で連れてこられた朝鮮半島出身者の子孫、在日コリアン(「韓国」も「北朝鮮」も含む。)が多数住む。そして近年では技能実習生をはじめ日本で仕事を求めてやってきた南アジアや東南アジア出身者も多い。日本に住まうこれらの人たち、そしてブラジル移民、太平洋戦争下「敵国人」として強制収容されたアメリカの日本人などのアート状況を俯瞰するのが「「移民」の美術」である。アート専門の雑誌でありながら現代日本の「移民」たちのフォトポートレートが秀逸だ。彼らはアーティストではない。しかしその短い言葉が日本での状況を物語っている。コンビニで働いていた経験のあるネパール人は「お客様は神様」に疑問を呈す。客側に明らかに非があっても店側が謝らないといけない。彼は言う。「店員である前に人じゃないですか。」と。

在日朝鮮人3世や沖縄出身ペルー移民の子、ガーナ人を父に持つ現役の芸大生など、現在表現者として活動する彼ら彼女らの実相も興味深い。中でもあいちトリエンナーレで「表現の不自由」展中止に抗議し、自らの出品を中止した田中功起と同出展者高山明のの対談は現実政治や社会と不可分の関係にあるアートの現在を映し出す。田中の作品は中止が解除された後見ることができた。外国にルーツを持つ「日本」人が語り合い、共同のドローイングを仕上げるというもの。そこで現されるのは、日本や「外国」という限りなく措定し難いアイデンティティ。つまり、国籍や人種、民族に回収し得ない「個」をあぶりだした。本人にとって日本人と言われようが、日本人でないと言われようが「自分」にかわりはないのにどこか求められる「日本人性」。島国根性に塗られたこの国で彼ら彼女らの居場所を作ることができないもどかしさも感じる。

翻って、「難民」を自己の元々の帰属地にいることができない、ディアスポラ、と捉えるならば東日本大震災以降、昨年の広島や岡山の大水災、そして今年の台風15号や19号などで自宅を終われ避難生活を余儀なくされている人たちなど、この国には「難民」が多く存在する。これが日常になっている現在、正確な意義での狭義の難民にまで視界が及ぶであろうか。2誌の特集で改めて、そして再度問われているのだ。

 

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ビエンナーレで失敗した神戸が雪辱? 見応えあるTRANS-

2019-11-01 | 美術

神戸ビエンナーレで失敗を経験した神戸市はあまりにも「石橋を叩いて」でスタートしたのだろうか。TRANS-は、宣伝が足りないように思える。公開されていない展示スペースへの移動の間、出会った美術史研究者の方は、「問い合わせに対する対応など運営の仕方が問題」旨おっしゃっていた。

出展作家はたったふたり。やなぎみわとグレゴール・シュナイダー。やなぎは神戸市兵庫区出身。会場は、兵庫区の新開地や長田区など三宮など洗練された地区ではなく、神戸でもディープゾーンと言われるところ。神戸の地理について詳しくない人のために紹介すると、いくつかある会場のセンターとなった兵庫区新開地は、労務者の街、そして風俗の街。会場の一つ、兵庫港界隈は川崎重工業や三菱重工業など造船で栄えた街で港湾労働者の街、そして新長田は在日朝鮮・韓国人も多く、阪神・淡路大震災で壊滅的打撃を被った街。

会場選択はすごい。その最たるものが、旧兵庫県立健康生活科学研究所(「消えた現実」)。目的は県民の「健康生活科学研究」なのだろうが、そのためにしていたのは動物を使った実験など。シュナイダーのインスタレーション(展示後、「兵庫荘」などは解体されることが決まっている)は普通に任せておけば、その歴史を無視して解体、胡散霧消される実態を、止めることによって記憶の淵に留め置くことを目指していると思える。旧兵庫県立健康生活科学研究所のあるフロアは天井も壁も全ての造作が真っ白に塗られ、時が止まったかのよう。しかし、事務室であったであろう部屋はついさっきまで働いていた人がいたかのように机も器具も書類も全て乱雑に遺されたまま。そして、屋上の動物をつないでいたであろう檻は、極彩色の動物の斎場であった焼却場は無残に姿をさらす。そう、人間の記憶は一般的に都合のいいように上塗りされるし、流れるままにしておけばやがて忘れ去られ、留められない。特に負の記憶は。動物実験そのものは、人間の「健康生活科学研究」のために合理化されるが、筆者は会場で日中戦争時の七三一部隊が戦後、ミドリ十字に繋がったことを想起せざるを得なかった。

シュナイダーのインスタレーションは、兵庫荘でも展開される(「住居の暗部」)。港湾労働者が住んだ「荘」は1畳ちょっとほどの寝るスペースに申し訳程度の収納スペースがある二段ベッドを含めた4人一部屋のプライバシーの全くない空間。お風呂やトイレなどはもちろん共同だ。1950年に開設、2018年に閉鎖されたそのプライバシースペースには酒瓶や競馬新聞などが残され、全て漆黒に染められている。スタッフに渡された小さなライトを足元に照らしながら進むと、このような昭和の学生寮(それも北海道大学の恵迪寮を想起させる)みたいなのがついこないだまであったことに驚くとともに、ここに住み、働いていた人たちはどうなったのだろうかと思う。シュナイダーはここでも記憶のピン留を描いたのだ。

ある意味、極め付けなのは、神戸高速鉄道の地下通路に設営された「条件付け」。何があるのかとドアを開けたら、なんてこともない浴室。次のドアを開けたらまた同じ浴室。次も開けたら…。パブロフの犬なら慣れてしまうかもしれないが、これが永遠に続くとなると人間にはきつい(はずだ)。しかし、人間は慣らされる存在だ。神戸市営地下鉄駒ヶ谷林駅コンコースの会場(「白の拷問」)は、アメリカ軍がキューバに秘密裏に設けた、グァンタナモ湾収容キャンプ内の施設を再現しているものだ。シュナイダーが収監者の証言を元になどして再現したものだが、ベッドと便器、手洗いしかない究極の殺風景。ここで、ムスリムに豚肉を食べるよう強制したり、裸でピラミッドを作らせていたのかと思うと、ドイツ映画「エス」を思い出させる。人間だけが一番非人間的になれると言ったのは誰だったろうか。しかしここも慣れるのだろうか、収容者も監視者も。

あいちトリエンナーレで問題になった表現の自由、政治的メッセージにあふれたドイツのドクメンタなど、美術表現は現実の政治課題と無縁ではいられないとは筆者の持論だが、シュナイダーの手法はヒトの記憶の有限性を問題にしている点で、ある意味、あいトレやドクメンタより本源的に深く考えさせられるものを含んでいる。やなぎの公演を見ていないし、その他会場で繰り広げられるパフォーマンスも見ていないし、私宅を会場にしたインスタレーションには触れず、シュナイダーだけになってしまった。しかしかなりのオススメである。(兵庫県立健康生活科学研究所の焼却炉)

 

 

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